斉武王[糸寅]伝



斉武王劉[糸寅](りゅうえん)は字を伯升という。(※[糸寅]は引くという
意味である。)光武帝の長兄である。剛毅かつ血気盛んで大いなる節義を
備えていた。
王莽が国を奪って以来、常に憤々として社稷を復興する心を懐き、家業に
励まず、身を傾けて財産を投げ出し、天下の英雄・俊才と交わりを結んだ。
王莽の末、盗賊は群がり起こり、南方は特に甚だしかった。
伯升は豪傑たちを招いて謀議し、「王莽は暴虐で人民は離散した。今、
旱魃が続き、兵乱が次々に起こっている。(※東観記に曰く。王莽の末年、
天下は大旱魃に見舞われ、蝗が天を覆い、盗賊が群がり起こり、四方は
乱れて反乱を起こした。)これはまた天が新を亡ぼす時であり、高祖の業
を復し、万世を定める時である。」と言った。
人々は皆これを尤もだと思った。
そこで、信頼している食客を分遣し、ケ晨に新野で挙兵させ、光武帝に
李通・李軼と宛で挙兵させた。
伯升は自ら舂陵の子弟合わせて七・八千人を発し、賓客たちの部署を
決め、自ら柱天都部と称した。(※柱天は天の柱の如き物をいう。都部
はその部下を統率する者である。)
宗室の劉嘉を派遣して新市・平林の兵王匡・陳牧らを味方に付けさせ、
軍を合わせて進み、長聚及び唐子郷を攻め落とし、湖陽県尉を殺した。
進んで棘陽を落とし、宛を攻めようとした。
小長安に至り、王莽の前隊大夫の甄阜・属正の梁丘賜と戦った。
時に空は霧が濃く、漢軍は大敗し、姉の元と弟の劉仲はともに殺され、
一族の死者は数十人に上った。伯升はまた残兵を集めて帰還し、棘陽
を守った。
甄阜・梁丘賜は勝ちに乗じ、輜重を藍郷に留め、精兵十万を率いて南に
黄淳水を渡って[シ比]水に臨み、両川の間に拠り陣を布き、後方の橋を
落として引き返す意志の無い事を示した。(※比陽県に藍郷がある。
[麗おおざと]元の水経注に曰く。[赤者](しゃ)水は二つの湖の水が
流れ注ぎ、合流して黄水となる。また南に棘陽県の黄淳聚を通り、また
これを黄淳水という。)
新市・平林は漢兵が度々敗れるのを見て、甄阜・梁丘賜の軍が大挙して
襲来すると、各々解散して逃げ帰ろうとし、伯升は甚だこれを憂えた。
たまたま下江の兵五千余人が宜秋に至り、(伯升は)出向いて合縦の
勢いを説き、下江兵はこれに従った。(※宜秋聚は比陽県に在る。
(続漢志は宜秋聚は平氏県に在るとする。 )
この時の言葉は王常伝に載せた。
ここにおいて、伯升は大いに軍士を饗応し、盟約を立てた。
兵を休ませる事三日、軍を六部に分け、密かに行軍して夜中に行動を
起こし、藍郷を襲って奪い、悉くその輜重を手に入れた。
翌朝、漢軍は西南から甄阜を攻め、下江兵は東南から梁丘賜を攻めた。
食時(朝食の時刻)に至り、梁丘賜の陣は破られ、甄阜の軍はそれを
見て敗走し、漢兵はこれを急追し、黄淳水に追い詰め、斬首または溺死
させた者は二万余人に上り、遂に甄阜・梁丘賜を斬った。
王莽の納言将軍の厳尤・秩宗将軍の陳茂は甄阜・梁丘賜の軍が敗れたと
聞き、軍を返して宛を守ろうとした。
伯升は兵を並べて誓いを立て、蓄えた物資を焼き、釜や甑を壊し、鼓を
打ち鳴らして進軍し、厳尤・陳茂と育陽の付近に会戦し、大いにこれを
破り、三千余級の首を斬った。(※釜と甑を壊したのは必死の気構えを
示したのである。鼓を打ちながら進軍したのは、畏れる物は無いという
事である。史記に曰く。項羽は北に趙を救い、河を渡ると、船を沈めて
釜と甑を壊した。)
厳尤・陳茂は軍を棄てて逃走し、伯升は遂に進んで宛を囲み、自ら柱天
大将軍と号した。(校補は、袁宏の後漢紀は自ら柱天将軍と号したとし、
大の字は無いとする。)
王莽は素よりその名を聞いており、大いに震え懼れ、伯升を捕らえた者
には邑五万戸、黄金十万斤、上公の位を与えると約束した。
長安中の官署及び天下の郷亭は皆伯升の像を塾に描き、朝起きる度に
これを射た。(※字林に曰く。塾は門側の堂である。東観記・続漢書は
ともに[土享](じゅく=的)に作る。)
甄阜・梁丘賜が殺された後、民衆には投降する者が日々続出し、兵力は
十余万に至った。
諸将は会議を行い、劉氏の人物を立てて人望に従い、豪傑たちは皆伯升
に心を寄せた。