梁冀伝



梁冀は字を伯卓という。生まれつき、鳶肩豺目(えんけんさいもく)で、
眼光鋭く周囲を睥睨し、言葉はどもって聞き取り辛く、僅かに書と計算
に長じていた。(※鳶(とび)の肩は上に上がっている。(故に鳶肩と
いう。)豺の目は鋭い。(故に豺目という。)
若くから帝の親戚として好き放題に遊び回っていた。酒を好み、挽満
(ばんまん)・弾棋・格五・六博(りくはく)・蹴鞠(しゅうきく)・
意銭の戯に長じ、また臂鷹(鷹狩り)や犬の競争、馬を走らせる事や闘鶏
を好んだ。(※挽満は引強(強い弓を引く事)と同義である。芸経に曰く。
弾棋は二人の人間が局(盤)を挟んで対し、白黒の棋(駒)各六枚を用い、
まず棋を並べて互いに当て、交代で前方に弾く。その局は石で作る。 
前書に曰く。吾丘寿王(前漢の碁の名人)は格五に長じていた。説文に
曰く。<竹塞>(さい)は棋を並べ、互いに(相手の目を)塞いで行く。
これを<竹塞>という。鮑宏の<竹塞>経に曰く。<竹塞>には四采
(四つの出目)があり、それぞれ塞・白・乗・五である。五目が並べば
格となり、(それ以上)並べる事はできない。故にこれを格五という。
楚詞に曰く。[王昆]蔽象棋(こんへいしょうぎ=蔽はさいころ)に六博
がある。王逸の注に曰く。六つの著を投げ、六つの棋を進ませるので六博
という。鮑宏の博経に曰く。六博は十二の棋を用い、その六つは白、後
の六つは黒である。擲頭(頭越しに投げる意味か。)する物を瓊という。
瓊には五采があり、一画を刻んだ物を塞といい、二画を刻んだ物を白と
いい、三画を刻んだ物を黒といい、何も刻まれていない物が五と塞の
中間にあり、これを五塞という。劉向の別録に曰く。蹴鞠は黄帝が作った
と伝えられる。或いは戦国の時に作られたという。[榻(左日)]鞠は
戦闘の技術であり、講武(武術の講習)により才能のある人間を知る
事ができる。何承天(南朝宋の人)の纂文に曰く。詭億は射意または
射数をいう。(ともに銭を投げて遊ぶ遊技である。)即ち攤銭(たん
せん=箱の中に入れた銭を数える博打)の事である。)
初め、黄門侍郎となり、侍中・虎賁中郎将・越騎・歩兵校尉・執金吾に
職を移った。
永和元年(136)、河南尹に任命された。梁冀は在職中、横暴な行動で
法を犯す事が多かった。父の梁商が親しくしている賓客の洛陽令の呂放は、
梁商と梁冀の過ちについて深く話し合った。梁商がその事で梁冀を責める
と、梁冀は人を遣わして路上で呂放を刺殺させた。
一方、梁商がこれを知る事を恐れ、呂放の仇に疑いを着せ、願い出て呂放
の弟の呂禹を洛陽令としてこれを捕らえさせ、その一族・賓客百余人を
悉く滅ぼした。(※呂禹を洛陽令としたのは、呂放の家を慰め、仇を
口封じの為に殺す為である。)
梁商が死去すると、まだ埋葬が終わらないうちに、順帝は梁冀を大将軍に
任じ、弟の侍中の梁不疑を河南尹とした。
帝が崩御すると、沖帝はまだ幼年であったので太后が臨朝し、梁冀に
詔を下し、太傅の趙峻・太尉の李固とともに参録尚書事とした。梁冀は
言葉では辞退したが、驕りと暴虐はますます甚だしくなった。
沖帝がまた崩御すると、梁冀は質帝を立てた。
帝は若くして聡明であり、梁冀の驕慢と専横を知り、群臣を朝見する際、
梁冀を見やって「これは跋扈将軍(ばっこしょうぐん)である。」と
言った。(※跋扈は強梁(力強くのさばっている事)と同義である。) 
梁冀はこれを聞いて深く憎み、遂に左右の者に鴆毒を加えた煮餅を進め
させ、帝はその日のうちに崩御した。
また桓帝を立てる際、法を枉げて李固及び前太尉の杜喬を殺し、海内は
嘆き懼れた。その時の言葉は李固伝に見える。
建和元年(147)、梁冀の封を一万三千戸加増し、大将軍府の高第・
茂才の推薦者の数を増やし、属官の数を三公の倍とした。(※漢官儀に
曰く。三公の府には長史一人が置かれる。司徒府の掾属は三十一人、令史
及び御属は三十六人である。)
また、梁不疑を潁陽侯、梁不疑の弟の梁蒙を西平侯、梁冀の子の梁胤を
襄邑侯に封じ、各々食邑を一万戸とした。
和平元年(150)、重ねて梁冀の封を一万戸加増し、前に襲封した分と
併せて三万戸となった。
弘農の人宰宣はへつらいの上手い邪悪な性質で、梁冀の歓心を得ようと
して、大将軍には周公の功績があり、今既に諸子を諸侯に封じているが、
さらにその妻を邑君に封じるべきであると上言した。
(帝は)詔を下し、遂に梁冀の妻の孫寿を襄城君に封じ、併せて
陽[擢(左無)](ようてき=県名)の租、歳入(年間収入)のうち五千万
銭を与え、加えて赤綬を賜り、長公主と同等とした。(※長公主の儀服
(礼服)は藩王と同様である。その解は皇后紀に見える。)
孫寿は容貌美しく、妖態(艶めかしく媚びを売る事)を得意とし、愁眉
・啼粧・堕馬髻(だばけい)・折腰歩・齲歯笑(うししょう)などにより
媚態を作って男を惑わした。(※風俗通に曰く。愁眉は細く曲がった眉
である。啼粧は薄く目の下をこすり、泣いたばかりのように見せる化粧
である。墜馬髻は横に一束の髪を垂らした物である。折腰歩は体を支え
られないように歩く物である。齲歯笑は歯痛で苦しんでいるように笑う
物である。初め、これらは梁冀の家で行われていたが、京師の婦人は皆
揃ってこれを真似するようになった。)
梁冀もまた輿服の制を改め、平上[車并]車・[土卑][巾責]・狭冠・折上巾
擁身扇・狐尾単衣を作った。(※鄭玄の周礼注に曰く。[車并]は衝立の
ような物で、自らを覆い隠すのに用いた。蒼頡篇に曰く。衣車(衣服を
載せる車)は上部の形が平らになっている。 通常とは異なっている。
 折上巾はおそらくその巾の上角を折り曲げた物であろう。  擁身扇は
大きな扇である。 狐尾単衣は後ろの裾を地に引きずり、狐の尾のように
見える物である。)
孫寿は人を激しく憎む残酷な性格で、よく梁冀を制御し、梁冀はこれを
頗る寵愛して憚った。
以前、父の梁商は順帝に美人の友通期を献じた。(※友は姓である。
東観記は友を支に作る。)友通期は小さな過ちを犯し、帝は梁商の下に
帰した。梁商は敢えて家に留めず、また外に出して嫁がせたが、梁冀は
賓客を遣わして友通期を盗んで自分の下に連れ戻した。
梁商が死去すると、梁冀は喪に服したが、城の西で密かに友通期と同棲
していた。孫寿は梁冀が外出した隙を窺い、多くの従者を従え、友通期
をさらって帰り、髪を切って顔を傷つけ鞭で打った後、上書してその事
を報告しようとした。
梁冀は大いに恐れ、頓首して孫寿の母に許しを請い、孫寿もまたやむを
得ず取り止めた。
梁冀はそれでもまた私通し、子の伯玉を生ませると、隠して外に出そうと
しなかった。やがて孫寿はこれを知ると、子の梁胤に友氏を誅滅させた。
梁冀は孫寿が伯玉を殺す事を慮り、常に複壁(二重の壁)の中に置いた。
梁冀は監奴(奴隷頭)の秦宮を寵愛し、太倉令の官に昇らせ、孫寿の下に
出入りする事を許した。
孫寿は秦宮に会うと、すぐに従者を退け、用事に託けて私通した。秦宮は
宮殿の内外で寵愛を受け、その権力は大いに振るい、刺史・二千石は皆、
(赴任の際に)目通りして別れの挨拶をした。