李膺伝



李膺は字を元礼という。潁川襄城の人である。祖父の李脩は安帝の時に太尉
となった。(※漢官儀に曰く。李脩は字を伯游という。)父の李益は趙国相
となった。
李膺は志が大きく気位の高い性格で人と付き合わず、ただ同郡の荀淑・
陳寔と師友(互いに師であり友人である関係)となった。
初め孝廉に挙げられ、司徒の胡広に召されて高第に挙げられた。
また職を移って青州刺史となった。
太守・県令はその厳しさと公正さを憚り、多くがその政治の威名を聞いて
官を棄てた。
また召還され、再び職を移って漁陽太守となった。次いで蜀郡太守に任命
されたが、母が年老いている事から就任を辞退した。(※謝承の書に曰く。
外に出て蜀郡太守に任命され、庠序(学校)を作り、筋道の通った教えを
設け、法令を明らかにして賞罰をともに行った。蜀の珍玩(珍奇な産物)
を家に入れる事も無かった。益州はその政化により秩序正しくなった。
朝廷は理劇(煩雑な職務に堪える人材)に挙げ、烏桓校尉に転任させた。)
やがて護烏桓校尉となった。鮮卑は度々国境を侵した。李膺は常に矢石
をくぐり抜け、悉く敵を撃ち破って敗走させたので、敵は非常に怖れを
抱いた。(※謝承の書に曰く。李膺は常に歩騎を率いて陣頭に立って戦い、
体に傷を受けたが血を拭いながら進撃し、遂に敵を撃ち破り、二千級の
首を斬った。)
公事により免官されると、帰って綸氏に居を構え、常に千に上る子弟に
学問を教授した。(※綸氏は県名である。潁川郡に属す。(続漢志は
綸氏を輪氏に作る。)
南陽の樊陵が門生となる事を求めたが、李膺はその申し出を断った。 
樊陵は後に宦官に取り入って位は太尉に至ったが、その節操の無さや
野心は人の恥とする所であった。(漢官儀に曰く。樊陵は字を徳雲と
いう。) 
荀爽はかつて李膺に会いに行った際、その御者を務めたが、家に帰ると
喜んで「今日李君の御者をさせて頂いたぞ。」と言った。
その人に慕われる様はこの通りであった。
永寿二年(156)、鮮卑が雲中(五原郡)に侵入した。桓帝は李膺が
有能であると聞き、また召し出して度遼将軍とした。 
これより前、羌及び疏勒・亀茲は度々兵を出して張掖・酒泉・雲中の諸郡
を攻撃して略奪を行い、人々は何度もその被害を受けた。
李膺が辺境に到着すると、皆そのやり方を見て怖れて服従し、前に略奪
した男女を悉く国境に送り返してきた。
これ以後、その評判は遠方にまで鳴り響いた。