霊帝紀



孝霊皇帝は諱を宏という。粛宗(章帝)の玄孫である。(※諡法に曰く。
国を乱しながら滅ぼすまでには至らなかった事を霊という。伏侯の古今注
に曰く。宏の字は大きいという意味である。(伏侯の古今注は質帝までで
終わっており、古今注とするのは誤りであるという。)
曾祖父は河間孝王の劉開、祖父は劉淑、父は劉萇である。代々解涜亭侯
に封じられており、帝も侯の爵位を継いだ。(※劉淑は河間王の子で
あった事から解涜亭侯に封じられ、劉萇は父の封を継いだ。故に代々
封じられたというのである。)母は董夫人である。
桓帝が子無くして崩御した時、皇太后(桓帝の皇后竇氏)は禁中で父の
城門校尉の竇武と策詔を定め、光禄大夫の劉<攸黒>(りゅうしゅく)に
節を持たせ、左右の羽林を率いて、河間に帝を奉迎させた。(※続漢志に
曰く。桓帝の初に京師の童謡に「城の上の烏は自分だけ高い所で餌を食べる。
父は吏となり、子は徒(従卒)となる。一人の徒が死ぬと、百乗の車が行く。
車は続々と河間に入る。河間の[託(右女)]女(美女)は巧みに銭を数え、
銭で部屋を作り、金で堂を作る。石の上では積みきれない程の黄梁(おお
あわ)がつかれ、その下には鼓が掛けられている。私がこれを打とうと
すると、丞卿は怒る。」という物があった。城の上の烏は一人で餌を食べ、
下の者と一緒に食べようとしない。その意味は人主の徴発が多いという事
である。「父は吏となり、子は徒(従者)となる。」というのは、蛮夷が
反乱を起こした際、父が軍吏となった後、子もまた従卒となってこれを
撃つ事を意味する。「一人の徒が死ぬと、百乗の車が行く。」というのは、
一人が胡を討って戦死すると、さらに百乗の車を遣わすという事である。
「車が続々と河間に入る。」というのは乗輿が続々と河間に入り、霊帝を
迎えた事を指す。[託(右女)]女が銭を数えるというのは、帝が立った後、
その母の永楽太后が銭集めを好んで、その為に堂や部屋を建てて銭を貯め
込んだ事を指す。「石の上に積みきれない程」とは太后が銭を好み、
金銭を積み上げながらなお飽きたらず、常に不足に思っており、人に黄梁
をつかせ、自分がこれを食べた事を指す。「私がこれを打とうとすると」
というのは、太后が帝に売官を行って銭を手に入れる事を教えると、天
下の忠義に篤い士がこれを恨み、鼓を打って丞卿に会おうとしたが、鼓
を司る役人が怒ってそれを止めた事を指す。)
建寧元年(168)の春正月壬午に城門校尉の竇武を大将軍とした。
己亥に帝は夏門亭に到着した。(※東観記に曰く。帝は夏門外の萬寿亭に
到着し、群臣はそこで謁見した。)
竇武に節を持たせ、王の青蓋車を殿中に迎え入れさせた。
庚子に皇帝の位に即いた。年は十二であった。
建寧と改元した。
前太尉の陳蕃を太傅とし、竇武及び司徒の胡広を参録尚書事とした。
護羌校尉の段[ヒ(下火)頁](だんけい)に先零の羌を討たせた。
二月辛酉に孝桓皇帝を宣陵に埋葬した。(※宣陵は洛陽東南三十里。
高さは十二丈、周回三百歩という。)廟号を威宗とした。
庚午に高祖の廟に謁した。
辛未に世祖(光武帝)の廟に謁した。天下に大赦を行い、民に各々差の
ある爵位と絹を賜った。
段ケイが逢義山で大いに先零の羌を破った。(※逢義山は一名を途義山と
いう。)
閏月甲午に祖父の劉淑を追尊して孝元皇帝、夫人の夏氏を孝元皇后と諡し、
父の劉萇を追尊して孝仁皇帝と諡し、夫人の董氏を慎園貴人とした。
(※慎園は唐代には俗に二皇陵と呼ばれていた。)
夏四月戊辰に太尉の周景が死去した。(実際はこの月に戊辰の日は無い。)
司空の宣[豊おおざと]を免官して長楽衛尉の王暢を司空とした。
五月丁未朔日に日食があった。公卿以下に詔を下して意見を奉らせ、
諸郡国の太守・相に各々有徳の士を推薦させた。
また以前の刺史・二千石で、清廉で恩恵を施し、民が心を寄せている者を
皆、公車で参内させた。太中大夫の劉矩を太尉とした。
六月に京師に大雨が降り、洪水が起こった。
秋七月に破羌将軍の段ケイがまた[經(左シ)]陽(安定郡)に先零の羌
を破った。
八月に司空の王暢を免官して宗正の劉寵を司空とした。
九月辛亥に中常侍の曹節が詔を偽って、太傅の陳蕃・大将軍の竇武及び
尚書令の尹勲・侍中の劉瑜・屯騎校尉の馮述を誅殺して一族を滅ぼした。
竇太后は南宮に移された。(※太后は竇武と密か曹節を誅殺しようと
謀っていた。この時竇武らが誅殺されると、太后は南宮に移されたので
ある。)
司徒の胡広を太傅録尚書事、司空の劉寵を司徒、大鴻臚の許栩を司空と
した。
冬十月甲辰晦日に日食があった。天下の罪人でまだ罪が確定していない者
に刑に応じた量の絹と引替に罪を贖わせた。
十一月に太尉の劉矩を免官して沛国の聞人襲を太尉とした。(※聞人襲は
姓が聞人で、名が襲である。字を定卿という。風俗通に曰く。少正卯は
魯の聞人(名の聞こえた人物)であったので、後にそれを氏とした。)
十二月に鮮卑及び[シ歳]貊が幽・并二州に侵入した。
二年(169)の春正月丁丑に天下に大赦を行った。
三月乙巳に慎園董貴人を尊んで孝仁皇后とした。(※續漢志に曰く。霊帝
は皇后を永樂宮に置いた。儀礼は桓帝が[偃(左無)]貴人を尊んで行った
物と同様であった。)
夏四月癸巳に大風が吹き、雹が降った。公卿以下に詔を下して意見を
奉らせた。
五月に太尉の聞人襲が辞職し、司空の許栩を免官した。
六月に司徒の劉寵を太尉に、太常の許訓を司徒に、太僕の長沙の劉囂
を司空とした。(※許訓は字を季師という。平輿(汝南郡)の人である。
劉囂は字を重寧という。)
秋七月に破羌将軍 段ケイが射虎塞外谷に大いに先霊の羌を破り、東羌は
悉く平定された。
九月に江夏蛮が反乱を起したので州郡はこれを討って平定した。
丹陽の山越の賊が太守の陳<夕寅>(ちんいん)を包囲したが、陳<夕寅>
はこれを撃ち破った。
冬十月丁亥に中常侍の侯覧が密かに上奏を行い、前の司空の虞放・太僕の
杜密・長楽少府の李膺・司隷校尉の朱宇・潁川太守の巴粛・沛国相の荀c
・河内太守の魏朗・山陽太守の[櫂(左無)]超(てきちょう)らが鉤党
(相通ずる仲間)として獄に下された。(※鉤は互いに結びついて引き合う
事をいう。この事は劉淑・李膺の伝に詳しい。)
獄死した者は百余人であった。妻子は辺境に移住させられ、付き従って
いた者たちは五族(五等の親族)まで禁錮とされた。(第二次党錮の禁
である。)
さらに州郡に詔を下して、大いに鉤党を検挙させた。ここにおいて天下の
豪傑及び儒教の義を行う者は皆、結託して党人となった。(※続漢志に
曰く。建寧年間に京師の長者は皆、葦でできた四角い箱を愛好して持ち
歩いていた。時の有識者たちは密かに「葦の箱は郡国の罪人の報告書を
入れる物だ。」と言った。後に党人の禁錮が恩赦により解かれた際、
疑いの晴れない人物は皆、廷尉に報告された。その人名を記した書は全て
四角い箱の中に入れられていた。)
戊戌晦日に日食があった。
十一月に太尉の劉寵を免官して太僕の郭禧を太尉とした。(※郭禧は字を
公房という。扶溝(陳留郡)の人である。)
鮮卑が并州に侵入した。
この年に長楽太僕の曹節を車騎将軍としたが、百余日で引退した。
三年(170)の春正月に河内の人間の妻が夫を食らい、河南の人間の夫
が妻を食らった。
三月丙寅晦日に日食があった。(実際はこの日には日食は見られない。)
夏四月に太尉の郭禧が辞職し、太中大夫の聞人襲を太尉とした。
秋七月に司空の劉囂が辞職した。
八月に大鴻臚の橋玄を司空とした。
九月に執金吾の董寵が獄に下されて死んだ。
冬に済南の賊が反乱を起して東平陵(済南郡)を攻めた。
鬱林の烏滸がそれぞれ民を率いて帰服してきた。(※烏滸は南方の夷の名
である。広州記に曰く。その風俗は人を食し、鼻から水を飲み、口の中
では物を食べ続ける。)
四年(171)の春正月甲子に帝は元服し、天下に大赦を行い、公卿以下
に各々差のある恩賞を賜った。ただ党人は赦されなかった。
二月癸卯に地震が起こり、海水が溢れて黄河に流れ込み、黄河の水の色が
薄くなった。
三月辛酉朔日に日食があった。太尉の聞人襲を免官して太僕の李咸を太尉
とした。(※李咸は字を元卓という。汝南西平の人である。聞人襲の免官
は蔡質の漢官典職儀と記載が異なる。)公卿から六百石の官までに詔を
下して意見を奉らせた。
疫病が大流行したので、中謁者を各地に巡行させ医薬を届けさせた。
司徒の許訓を免官して司空の橋玄を司徒とした。
夏四月に太常の来[豊去(下皿)](らいえん)を司空とした。(来エンは
字を季徳という。南陽新野の人である。)
五月に河東で地割れが起こり、雹が降り、山では鉄砲水が起こった。
秋七月に司空の来エンを免官した。
(八月)癸丑に貴人の宋氏を立てて皇后とした。(※皇后は執金吾の
宋[豊おおざと]の娘で、前年に掖庭に入り、貴人となっていた。蔡質の
漢官典職儀は乙未とする。)
司徒の橋玄を免官した。太常の宗倶を司空に、前司空の許栩を司徒とした。
(※宗倶は字を伯灑(儷)という。南陽安衆の人である。)
冬に鮮卑が并州に侵入した。