応劭伝



応劭は字を仲遠という。(※謝承の書・応氏譜はともに字を仲遠とし、
続漢書文士伝は仲援とし、漢官儀はまた仲[王爰]とする。未だどれが
正しいのかは分からない。)
幼い時から学問に熱心で、博覧多聞であった。 霊帝の時に孝廉に挙げられ、
車騎将軍の何苗の掾に召された。
中平二年(185)、漢陽の賊の辺章・韓遂が羌胡とともに侵入し、東進
して三輔を侵すと、車騎将軍の皇甫嵩を遣わして西にこれを討たせた。  
皇甫嵩は烏桓の兵三千人を発する事を願い出た。北軍中候の鄒靖は「烏桓
の兵は弱いので、鮮卑から新たに募兵するのが良いでしょう。」と上言
した。事は四府に下された。
大将軍掾の韓卓は「烏桓の兵は少なく、鮮卑は代々仇敵です。もし、烏桓
が徴発されたなら、鮮卑は必ずやその家を襲うでしょう。烏桓はこれを
聞いて、また軍を棄てて帰還し、家を救うに違いありません。 実益が無い
ばかりでなく、さらに三軍の士気を沮喪させる事となりましょう。鄒靖殿
は辺境の近くにいて、その虚実を知っております。もし、鄒靖殿に鮮卑の
軽騎五千を募らせたなら、必ず敵を破る事ができましょう。」と意見を
述べた。
応劭はこれに反論して「鮮卑は遠く漠北の地に在り、犬や羊が群れを為し、
君長といった統率者も無く、廬落(粗末な家)に住み、天性貪欲かつ乱暴
で、信義を意に介しません。故に度々辺境の城壁を乗り越えて侵入し、
安寧な年が無かったのです。ただ互市に来る時だけは服従しておりますが、
中国の珍貨を欲しての事であり、威を畏れ徳に懐いたからではありません。
数を十分に得ると、掌を返して害を為します。『朝家(国家)はこれを外
にして内にせず。』と言うのは、おそらくこの為でしょう。(※公羊伝に
曰く。春秋は諸夏を内にして夷狄を外とする。成・十五)先には匈奴が
反乱を起こし、度遼将軍の馬続・烏桓校尉の王元が鮮卑の五千余騎を発し、
また武威太守の趙沖も鮮卑を率いて反乱を起こした羌を征討しました。
醜虜(敵)を斬首・捕虜としたとは言え、鮮卑は増長して多く不法を
行い、軍令によって裁くと怒って乱を起こし、統制を少しでも緩めると、
欲しいままに略奪を行って人を傷付け害し、居人をさらい、行商を襲い、
人の牛羊を貪り、人の兵馬を奪いました。多くの恩賞を得ても帰ろうとせず、
また物と交換に武器を買おうとし、辺将(国境を守る将軍)がそれを許さ
ないと、[糸兼](厚手の絹)や帛(白絹)を奪い集めて焼こうとしました。
辺将は恐怖を抱いて反乱を警戒し、謝罪により宥めすかして、敢えてその
言葉に背かぬように致しました。今、狡猾な敵は未だ滅びず、羌は大きな
害を為しております。もし、後悔するような事が起これば、取り返しが
付きましょうか。臣は隴西の羌胡で善を守り背かなかった者を募り、その
精鋭を選んでその褒美を多くするのが良いと愚考致します。太守の李参は
冷静沈着で謀があります。必ずやそれらを勧め励まし、死力を得る事が
できましょう。ゆるやかな方策を考えるべきであり、急いで(結果を)
望むのは良くありません。」と述べた。
韓卓はまた応劭と互いに意見を覆そうとした。そこで、帝は百官に詔を
下して、大いに朝堂に会したが、皆応劭の意見に従った。
三年(186)、高第に挙げられ、二度職を移った。