顕宗孝明皇帝は諱を荘という。(※謚法に曰く。四方を照臨(高所から照らす 事)する事を明という。伏侯の古今注に曰く。荘の字は厳という意味である。) 光武帝の第四子で、母は陰皇后である。帝は生まれつき豊下であり、十歳で よく春秋に通じ、光武帝はこれに目を掛けた。(※杜預の左伝注に曰く。 豊下はおそらく面方である。東観記に曰く。帝は豊下兌上(顎が広く頭が 細い事。堯の面相。)で、顔は赤く、堯に似た所があった。) 建武十五年(39)に東海公に封じられ、十七年(41)に爵号を勧めて王と され、十九年(43)に皇太子に立てられた。博士の桓栄に師事し、学問を 修めて尚書に通じた。 中元二年(57)の二月戊戌に皇帝の位に即いた。年三十であった。皇后を 尊んで皇太后と号した。 三月丁卯に光武皇帝を原陵に埋葬した。(※帝王紀に曰く。原陵は三百二十 歩四方、高さ六丈、臨平亭の東南に在り、洛陽を去る事十五里である。) 有司が上奏し、廟を尊んで世祖と号した。 夏四月丙辰に詔を下して言った。「予は末の小子であり、聖業を奉承し、朝晩 震え畏れ、敢えてこれを忘れてはいられない。先帝は命を受けて中興し、徳は 帝王(五帝三王)に等しく、万邦を協和させ、上下に至り、百神を懐け和ら げて鰥寡(寡夫・寡婦)に恵みを施した。(※礼に曰く。およそ山林のよく 雲を興し雨を降らせる者を皆神といい、天下を有する者は百神を祀る。 これ を百神を懐け和らげるという。書に曰く。鰥寡に恵みを施す。)朕は大運 (天命)を継承し、継体(天子の位を継ぐ事)して守文するも、稼穡(農業) の艱難を知らず、聖恩・遺戒を廃れ失う事があるのを懼れている。(※創基 の主は武功を尊んで禍乱を平定し、その次に継体して立つ者は文徳を守る。 穀梁伝に曰く。明を承けて継体する。守文の君である。)天下を顧み重ん じるのは、元元(人民)を首とする。公卿百僚は何により朕の不逮(及ばぬ 点)を助けるのか。そこで、天下の男子に爵位を各々二級、三老・孝悌・ 力田には各々三級、爵位が公乗を越える者は子もしくは同腹の兄弟・同腹の 兄弟の子に伝える事を許し、また流人の戸籍の無い者で定住を望む者は各々 一級を賜り、寡夫・寡婦・孤児・身寄りの無い老人・重病人には粟を各々 十斛賜る。(※前書の音義に曰く。男子は戸内の長である。 商鞅は秦の 為に爵二十級の制度を定め、一を公士、二を上造、三を簪、四を不更、五を 大夫、六を官大夫、七を公大夫、八を公乗、九を五大夫、十を左庶長、十一 を右庶長、十二を左更、十三を中更、十四を右更、十五を少上造、十六を 大上造、十七を駟車庶長、十八を大庶長、十九を関内侯、二十を徹侯とした。 人に爵位を賜る場合、罪があれば(爵位で)贖う事を許し、貧者は人に売り 渡す事を許す。三老・孝悌・力田の三者は皆郷官の名である。三老は高帝が 置き、孝悌・力田は高后が置き、それにより郷里を勧め導き、風化を助成 した。文帝は詔を下し、『孝悌は天下の大順である。力田は生活を営む根本 である。三老は衆人の師である。戸口の数に従い員数を置くように。』と 言った。この事は前書に見える。漢の制度では、爵位を賜るのは公士以上、 公乗を越える事は許されず、故に公乗を越える者は人に授けるのを許した のである。)刑を弛められた受刑者及び郡国の囚徒で、中元元年(56) の四月己卯の恩赦の前に罪を犯して後に捕えられ入獄した者は悉くその刑 を免ぜよ。また、辺境の人間で、乱に遭い内郡の人間の妻となったのが 己卯の恩赦の前である者は一切遣わして辺境に帰らせ、その望み通りに させよ。中二千石以下黄綬に至るまでの者で、秩禄を減らされた者、銭を 納めて罪を購った者は悉く皆秩を復して贖銭を返還せよ。(※漢の制度では、 二百石以上は銅印黄綬である。)当今、上に天子は無く、下に方伯は無く、 淵水を渡るのに舟に楫が無いが如くである。(※公羊伝に曰く。上に天子 は無く、下に方伯は無い。荘・四 この言葉を引いて謙遜しているので ある。)そもそも万乗(天子の位)は極めて重い物であるが、少壮の人間 は思慮が軽く、実に有徳の人間が小子を補佐する事を頼みとする。(※帝 は謙遜し、年はなお少壮であり、思慮は軽く浅く、故に賢人の輔弼を待つ と言っているのである。)高密侯のケ禹は元功(創業の大功)の筆頭であり、 東平王の蒼は寛容で心が広く謀があり、ともに六尺の孤(明帝の謙称)を 託され、大事に臨んで屈す事の無い人物である。(※六尺は年十五以下を いう。)そこで、ケ禹を太傅とし、蒼を驃騎将軍とする。太尉の趙<喜心> は南郊(城南の天を祀る場所)に告謚し、司徒の李[言斤]は梓宮を奉安 (君を葬る事)し、司空の馮魴は五校の兵を率いて復土した。(※応劭の 風俗通に曰く。礼として、臣子が君父に爵位や謚を贈る道義は無い。故に 群臣はその功績と美点を列ね、葬儀の日に太尉を南郊に遣わし、天に告げて これに謚を奉るのである。梓宮は梓の木で作った棺である。風俗通に曰く。 宮とは生きている時に居る所である。生前の名を死後も用い、それにより 宮というのである。前書の音義に曰く。復土は穴を掘り埋める事を掌る。 棺を下ろした後、また土で墳(土を盛り上げた墓)を作る事を意味し、 故に復土というのである。)そこで、趙<喜心>を封じて節郷侯とし、 李[言斤]を安郷侯とし、馮魴を楊邑侯とする。」