皇甫嵩は字を義真という。安定朝那の人である。度遼将軍皇甫規の兄の子 で、父の皇甫節は雁門太守であった。 皇甫嵩は若くから文武の志が篤く、詩書を好み、弓馬に習熟していた。 初め、孝廉・茂才に挙げられた。(※続漢書に曰く。皇甫嵩は孝廉に挙げ られて郎中となり、覇陵・臨汾の県令に昇進したが、父の喪によって 結局官を辞した。)太尉の陳蕃・大将軍の竇武はともに頻りに皇甫嵩 を召し寄せたが、仕えるには到らなかった。 霊帝が公車で召し寄せて議郎とし、北地太守に職を移った。 それ以前、鉅鹿の張角は自ら大賢良師(※或いは郎師)と称し、黄老 の道を行い、弟子を養い育てていた。(張角は信者に)跪いて自分を 拝ませて過ちを告白させ、札と水を使ってまじないを唱えて病を治した。 病人は頗る癒され、人々はこれを信仰した。 張角はそこで弟子八人を四方に遣わし、善道により天下を教化させ、 弟子たちは次第にともに(人々を)惑わすようになった。 十余年の間に衆徒は数十万となり、郡国で互いに結びつき合った。 青徐幽冀荊揚<六兄>豫の八州の人間で、これに応じない者はほとんど なかった。 張角はそこで三十六の方を置いた。(袁宏の漢紀は坊と記す。)方とは 将軍の号のような物である。 大方は一万人以上、小方は六・七千人で、各々渠帥を立てた。 (信徒たちは)天命にかこつけて「蒼天已に死し、黄天まさに立つべし。 歳は甲子にあり。天下は大吉ならん。」と称え、白土で京城の役所の門 及び州郡の役所にそろって甲子の文字を書きつけた。 中平元年(184)、大方の馬元義らは、先に荊・揚州の数万人を集めて 期日を定めて[業おおざと]から兵を発しようとしていた。馬元義はしばしば 京師に出入りして、中常侍の封[言胥]・徐奉らを内応させ、三月五日に内外 ともに事を起こそうと約束した。 未だ事を起こすに到らないうちに、張角の弟子である済南の唐周はこれ を上書して告発した。これにより、馬元義は洛陽で車裂きにされた。 霊帝は唐周の上奏文を三公・司隷に下し、鉤盾令の周斌に三府の属官を 率いて宮省の宿営及び人民を取り調べさせ、張角の道術を行っていた事 のある者千余人を誅殺させた。また冀州を捜索して張角らを追捕させた。 張角らは事が既に露見したのを知り、夜を日に継いで馬を走らせ、 諸方に号令を下して一斉に蜂起させた。 賊は皆、黄色の頭巾をつけて目印とした。時の人はこれを黄巾と呼び、 また蛾(蟻)賊と名付けた。 張角は人を殺して天を祀り、自ら天公将軍と称した。張角の弟張宝は 地公将軍、張宝の弟張梁は人公将軍と称した。 そして至る所で官府を焼き払い、村々を略奪した。州郡は拠り所を失い、 長吏の多くが逃亡した。 一月の間に天下は黄巾に呼応し、京師は揺れ動いた。 朝廷は州郡に詔を下し、攻守を立て直して武器を整えるように命じ、 函谷関から大谷・広城・伊闕・[環(左車)]轅(けんえん)・旋門・孟津 ・小平津の諸関にそれぞれ都尉を置いた。(※大谷・[環(左車)]轅は 洛陽の東南、旋門は[シ巳]水の西にある。) また群臣を召して朝議が行われた。皇甫嵩は党錮の禁を解き、中蔵の銭と 西園の厩舎の馬を大いに拠出して、軍士に分け与える事を進言し、帝は これに従った。 ここにおいて、朝廷は天下の精兵を発して広く将帥を選び、皇甫嵩を 左中郎将として節を持たせ、右中郎将の朱儁とともに五校(屯騎・歩兵・ 越騎・長水・射声)・三河(河南・河東・河北)の騎兵及び、優秀な男子 を募らせ、合わせて四万人を率いさせた。 皇甫嵩と朱儁は各々一軍を率いてともに潁川の黄巾を討った。 朱儁は進軍して賊の波才と戦って敗れた。皇甫嵩はそこで長社を守った。 波才は大勢の衆を率いて城を囲んだ。皇甫嵩の兵は少なく、軍中では 皆怖れを抱いていた。皇甫嵩はそこで軍吏を呼んで言った。「戦は正と奇 (正攻法と相手の不意を突く事)が肝要なのだ。兵の多寡は問題ではない。 (※孫子の兵法に曰く。およそ戦というものは正を以て戦い、奇を以て 勝つものである。故によく奇を出す者が、窮する事がない事は天地の如く であり、尽きる事が無いのは長江や海の如くである。戦とは奇であるか正 であるかだけである。奇と正が変わってしまえば、勝つ事はできない。) 今、賊は草原に陣営を置いている。風に乗せて火を放ち易い。もし夜陰に まぎれて火を放ち、陣営を焼討ちにすれば、敵は必ず大いに驚いて崩れる だろう。私が兵を出してこれを撃ち、四方から力を合わせて攻め立てれば、 田単の功を為す事ができるだろう。」(※田単は斉の将軍となって即墨城 を守った。燕の軍はその城を攻めた。田単は牛千頭を引き出し、五色の衣 を着せ、矛と盾をその角に結わえ付け、尾に火を点けて城の中から飛び 出させ、城の上に登って大いに囃し立てた。(牛に面食らった)燕が大敗 を喫した事は史記に見える。) その夕方に遂に強い風が吹いた。皇甫嵩はそこで軍士に命令を下し、 全員に苣(※火を点ける為の葦の束)を持たせて城に登らると、精鋭の 兵士を密かに囲みの外に出し、火を放って大声で叫ばせた。 城の上では篝火を焚いてこれに応じた。皇甫嵩はそこで鼓を打たせながら、 敵の戦列に飛び込んだ。賊は驚いて隊を乱して逃走した。 ちょうどそこへ帝が騎都尉の曹操に兵を率いさせて来たのに出会い、 皇甫嵩と曹操は朱儁と軍を合わせて更に戦い、大いにこの敵を破り、数万 級の首を斬った。 (朝廷は)皇甫嵩を都郷侯に封じた。 皇甫嵩と朱儁は勝ちに乗じ、進んで汝南・陳国の黄巾を討った。 波才を陽[擢(左無)](ようてき)に逐い、彭脱を西華(汝南郡)に撃ち、 ともにこれを破った。残りの賊は降参または逃げ散って、三郡は悉く平定 された。 また進んで東郡の黄巾の卜巳を倉亭に撃ち、生け捕りにし、七千余級の首 を斬った。 時に北中郎将の盧植及び東中郎将の董卓が張角を討ったが、ともに戦果を 挙げられずに引き返した。そこで朝廷は詔を下して皇甫嵩に兵を進めて これを討たせた。皇甫嵩は張角の弟張梁と広宗(安平郡)で戦った。 張梁の率いていた軍隊は精強で、皇甫嵩は勝つ事ができなかった。 翌日、皇甫嵩は陣営の門を閉ざして兵を休め、賊の様子の変化を観察した。 賊の戦意がやや緩んできたのを知ると、密かに夜中に兵を率いて出撃し、 明け方に敵の陣営に乗り込んで戦った。日暮れになってこれを大いに破り、 張梁を斬った。首を斬る事三万級、河に落ちて死ぬ者は五万人、焼き 払った車重は三万両以上であった。賊の妻子を悉く捕虜とし、奪い取った 物は大変な量であった。 張角はその前に病で死んでいたので、棺を壊して死体を晒し、その首を 京師に送った。 皇甫嵩はまた、鉅鹿太守の馮翊の郭典とともに張角の弟張宝を曲陽(鉅鹿 郡)に攻めてこれを斬り、十余万人を斬首または生け捕りとし、城南に 京観を築いた。(※杜元凱注の左伝に曰く。死体を積んでその上に土を 盛った物を京観という。宣・十二) 朝廷はそこで皇甫嵩を左車騎将軍に任命して冀州牧とし、槐里侯に封じ、 槐里・美陽(ともに扶風郡)の両県に、合わせて八千戸の食邑を与えた。 黄巾が既に平定されたので、年号を改めて中平とした。 皇甫嵩は上奏を行い、冀州の一年の田租を飢民に与えるように請い、帝は これに従った。人々は「天下は大いに乱れた。市は荒れ果て、母は子を育て られず、妻は夫を失った。しかし、皇甫様のお陰でまた安らかに暮らす事が できたのだ。」と歌った。 皇甫嵩は士卒に温情をかけて慈しんだので、大変に部下の心を得ていた。 軍を進めて留まる毎に、陣幕がきちんと張られるのを待ってから舎帳(宿営) に入り、軍士が皆食事を済ませてから食事を摂った。 部下の中にある事で賄賂を受け取った役人たちがいた。皇甫嵩はさらにこれ に金品を与えた。役人たちは恥じ入り、ある者はとうとう自殺してしまった。 皇甫嵩は既に黄巾を破り、天下に威名が鳴り響いていた。一方、朝政は 日に日に乱れ、海内は力を無くして困窮していた。 そこで、信都県令の漢陽の閻忠は皇甫嵩に独立を説いて言った。「得難くて 失い易い物は(天の)時です。時が来たら二度と戻らないのは幾(機会) です。故に聖人は時に従って動き、智者は幾に従って事を起こしたのです。 今、将軍は得難い時に遭う御運に恵まれ、逃げやすい機会に遭われており ます。それなのに御運をお取りにならず、機に臨んで事を起こそうとも なさいません。一体どのようにして大名を保たれるのでしょうか。」 皇甫嵩が「何の事を言っているのだ。」と言うと、閻忠は答えた。「天道に 親い遠いは無く、人民は能ある者につきます。今、将軍は暮春(晩春)に 鉞を授けられ、末冬に功を収められました。(※老子に曰く。天道に親い 遠いは無く、常に善人に味方するという。易によれば、人でも鬼(神) でも人民は能ある者につくという。淮南子に曰く。およそ将に命令を下す 時は主君自ら鉞を授け、『これより上は天に至るまで、将軍がこれを 制せよ。』と言った。)軍を動かせば神の如くであり、謀は真似ができ ません。強きをくじいて弱り切った者を安んじ、堅きを解かす事は雪に 湯を注ぐが如く、十ヶ月の間に神兵は電光のように敵を滅ぼし、敵の屍 を積み、石に名を刻んで、南に向かって勢威を報じられました。その威徳 は本朝を震わせ、名声は海外にまで聞こえております。湯・武の行った事 といえども、未だ将軍より高い功績はございません。今、身は功をお立て になりながら賞されず、体は高士の徳を兼ね備えながら凡庸な君主に北面 されています。これではどうやって安寧を求める事ができるでしょうか。」 皇甫嵩は「私には常に公の心があり、忠を忘れる事も無い。どうして安らか でいられない事があろうか。」と言った。閻忠は答えた。「それは 正しくありません。昔、韓信が一餐の遇を忘れるに忍びず、天下三分の 業を棄て、鋭い剣がその喉を探るに及んで後悔と恨みの嘆きを発した のは、機を失って謀に背いたからでした。(※前書に曰く。項羽は武渉に 命じて韓信を説得させた。韓信は『漢王は衣を脱いで私に着せ、食事を 勧めてくれたのだ。これに背くのは良くない。』と言った。また、[萠リ]通 は韓信に説いて、漢に背いて天下を三分して鼎足の形をとって自立させ ようとした。韓信は『漢王は私を厚く遇してくれたのだ。どうしてこれ に背けようか。』と言った。後に韓信は謀反を起こして、呂后に捕らえ られ、嘆いて言った。『私はどうして[萠リ]通の計を用いなかったのか。 女子に謀られるとは何という災いだろう。』)今、主上は劉邦・項羽より も力が弱く、将軍の権勢は淮陰(韓信)より重いのです。指を振るだけ で風雲を起こし、叱咤するだけで雷を呼ぶ事がお出来になります。将軍 は赫然として奮い立ち、危険を冒して敵を打ち崩し、恩を厚くして先に 付き従った者を安んじ、武を振るって降伏の遅れた者に臨まれました。 また、冀州の兵を徴し、七州の民を動員して、羽檄(急を告げる羽根の 付いた文書)を先に走らせ、前方には大軍が響くように奮い立ち、後方 では[シ章]河の流れを越え、孟津で馬に水を飲ませられました。また、 宦官の罪を誅し、山積する群凶を除かれました。将軍は童子にさえも 拳を振るって力を尽くさせ、女子にさえも裳の裾を持ち上げて命に応え させる事がお出来になります。熊の如き兵士を奮い立たせれば、さらに 疾風の勢いとなりましょう。功業は既に遂げられ、天下は既に将軍に心 を寄せております。しかる後に上帝に呼びかけて天命を示し、六合(天地 東西南北)を一つにまとめ、南面して天子に代わって命令を行われ、宝器 (神器)を新たな王朝に移されますように。事を起こすに当って考えます に、漢の力は既に地に墜ちており、実に神機が到来して新しい風が起こる 良時でございます。朽ちた木を彫る事はできず、衰えた世は支え難いと 申します。もし、支え難い朝廷を支え、朽ち果てた木を彫ろうとされる なら、それは坂に逆らって玉を転がし、風に吹かれながら棹を放すような ものであり、どうして容易い事と言えましょうか。今、豎官(宦官)が 群居して悪事をともに行う事は市の如くでございます。(※左伝に曰く。 韓宣子は『憎悪を同じくして求め合う事は、市場の商人の如くである。』 と言った。昭・十三)上の命令は行われず、権力は近習に帰しております。 昏主の下に身を長らえる事は難しいでしょう。(※史記に曰く。范蠡 (はんれい)は『大きな功名を立てて長らえる事は難しい。』と言った。) 功を賞されないのは、讒言を行う者がを光らせているからです。もし、 早くに事を図られなければと、後で悔まれても及びません。」 皇甫嵩は怖れて言った。「非常の謀は通常の事態には用いないものだ。 初めから大功を立てようと思っていたとしたら、どうして私の凡庸な才能 で成し遂げられただろうか。黄巾は小さな禍であり、秦や項羽には匹敵 しない。俄に結びついても、ばらばらになりやすく、大事を成す事は できなかったのだ。かつ、人々はまだ主(天子)を忘れてはいない。 天は逆賊を助けはしない。もし、分外な中身の無い功を言い立て、朝夕の 禍を早めたならば、どうして朝廷に忠を捧げ、臣下の節を守る事ができ ようか。讒言が多いと言っても、勝手に位を奪ったりするに過ぎない。 令名があれば、それは死んでも朽ちない物である。(※左伝の言葉に よる。閔・元 成・三他)通常に反する言葉は敢えて聞かない。」 閻忠は計が用いられないのを知って逃げ去った。(※英雄記に曰く。涼州 の賊王国らは兵を起こし、閻忠に迫って盟主とし、三十六郡を統べさせ、 車騎将軍と号した。閻忠は悲しみ傷んで病を発して死んだ。) その頃、辺章・韓遂が隴右で反乱を起こした。 翌年の春、朝廷は皇甫嵩に詔を下し、長安に回して押さえとし、園陵を 守らせた。辺章らが再び三輔に侵入すると、また皇甫嵩にこれを討たせた。 以前、皇甫嵩が張角を討ったのは[業おおざと]を通る経路であった。 (この文は趙忠の屋敷が[業おおざと]にあった事を意味するのか。) 中常侍の趙中(忠)の屋敷が命令に違反しているのを見て、上奏して これを没収させた。また、中常侍の張譲が密かに銭五千万を要求したが、 皇甫嵩はこれを与えなかった。二人はこの事で恨みを覚え、皇甫嵩は 連戦して功無く、無駄に費やした物が多いと上奏した。 その秋に皇甫嵩は召還されて左車騎将軍の印綬を取り上げられ、食邑 六千戸を削られ、二千戸の都郷侯に封じられた。 五年(188)、梁州の賊の王国が陳倉を囲んだ。朝廷は皇甫嵩を左将軍 に任命して前将軍の董卓を統率させ、各々二万人を率いてこれを防がせた。 董卓は速く進軍して陳倉に向かおうとしたが、皇甫嵩は聞かなかった。 董卓は言った。「智者は時に遅れず、勇者は決断を躊躇わないものである。 救援が早ければ城は保てるだろうが、そうでなければ城は落ち、ここで 全滅する情勢になりかねない。」 皇甫嵩は「そうではない。百戦して百勝しても、戦わずして相手の兵を 屈服させるに越した事はない。この為に『先に不敗の構えを作り、敵が 隙を見せるのを待つ。勝つべからざるは我に在り、勝つべくは彼に在り。 彼は守るに足らず、我は攻めるに余りあり。』(※孫子の文。)『あり 余る者は九天の上に動き、足らざる者は九地の下に陥る。』という言葉 があるのだ。(※孫子の兵法に曰く。よく守る者は九地の下に隠れ、よく 攻める者は九天の上に動く。玄女三宮(玄女は黄帝に兵法を教えた神女) の戦法に曰く。『兵を用いる道は天地を重視する事である。九天九地には 各々表裏がある。九天の上には六甲子があり、九地の下には六癸酉がある。 汝はよくこれに従い、万全に保たねばならない。』とある。)今、陳倉は 小城といっても守るに堅く、九地の下に陥るものではない。また、王国は 強力だといっても、我らが救援しなければ陳倉を攻められる程の九天の 勢いがある訳ではない。九天の勢いが無ければ、攻める者は被害を受け、 九地の下に陥っていなければ、守る者は城を落される事はない。王国は 今既に損害を受け、地に陥っており、しかも陳倉は難攻不落である。我ら は兵を煩わさず、民衆も動かさず、身を全うして勝つという功を取るべき である。何を急いで救援しようというのか。」と言って、遂に董卓の意見 を聞かなかった。 王国は冬から春に至るまで八十余日に渡って陳倉を包囲したが、城は堅固 で守りも堅く、遂に落す事ができなかった。賊たちは疲弊して、結局自ら 囲みを解いて去った。皇甫嵩は兵を進めてこれを討とうとした。 董卓はそこで「それは良くない。兵法に『窮した敵を追いつめてはならない。 帰ろうとする人間を追ってはならない。』という。(※司馬兵法(司馬穰苴 の兵書)の言葉である。)今、我らが王国を追えば、これは帰ろうとする 人間を追いつめ、窮した敵を追う事になる。窮した獣はなお闘おうとする し、蜂や蠍には毒もあるのだ。(※左伝の文である。僖・二十二)まして や大勢の人間なのだぞ。」と止めた。皇甫嵩は言った。「そうではない。 前に私が撃とうとしなかったのは、その鋭鋒を避けたからであり、今これ を撃つのはその衰えを待っていたからである。撃つのは疲れた軍隊であり、 帰ろうとする人間ではない。王国の軍はまさに逃げようとしており、戦意 のある者はいない。整った軍で乱れた軍を撃つのは窮した敵を撃つ事とは 違うのだ。」 遂に単独で進んでこれを撃ち、董卓を後方の押さえとした。 皇甫嵩は連戦して大いに敵を破り、首を斬る事一万余級に上った。 王国は逃走して死んだ。 董卓は大いに恥じ入り、これによって皇甫嵩を憎んだ。 翌年、朝廷は董卓を并州牧に任命して、詔を下して兵を皇甫嵩に委ねる ように命じたが、董卓は従わなかった。皇甫嵩の従子の皇甫[麗おおざと]は その時軍中にいて、皇甫嵩に説いて言った。「本朝は政治に失敗して、天下 は既に倒れかかっております。危うきを安んじ、傾いたものを立て直す 力があるのはただ大人(皇甫嵩)と董卓だけでございます。今、恨みに よって心は離れ、勢いは並び立たずにいます。董卓は兵を委ねよとの詔を 受けましたが、上書して自らこの命令に従わずに済むように願ったという 事です。また京師が混乱しているのに、躊躇して兵を進めようとしないの は邪悪な心を抱いているからでございましょう。なおかつ董卓は道理に 背き、親愛の情が無く、将士は懐いておりません。今、大人が元帥として 国威を借りてこれを討てば、上は忠義を顕かにし、下は凶賊の害を除く事 となります。これは桓公・文公の事跡と申せましょう。」 皇甫嵩は「命令を勝手に行うのも罪であるが、誅殺を勝手に行うのも責め られるべき事である。(※春秋左氏伝に曰く。命令にただ従えば威厳はなく、 命令を勝手に行うのは孝ではないという。閔・二)事実を明かにしてそれを 上奏し、朝廷の裁きに任せるに越した事はない。」と答えた。 そこで、上書して帝に(董卓の事を)奏聞した。帝は董卓を責め、董卓 はますます皇甫嵩に怨みを募らせた。 後に董卓が勝手に政治を行うようになった時の事である。 初平元年(190)、(董卓は)皇甫嵩を召還して城門校尉にすると 言って、これを殺そうとした。皇甫嵩がまさに出かけようとした時、長吏の 梁衍は説いて言った。「漢室は衰微して、宦官が朝政を乱しておりました。 董卓がこれを誅したと言っても、まだ国に忠を尽くす事はできません。 結局、董卓はまた京師の町や村を略奪し、意のままに廃立を行いました。 今、将軍を召し寄せていますが、大きな物としては危険な禍に逢い、小さな 物としては苦しみ辱められる事になりましょう。今、董卓は洛陽にあり、 天子は西にいらっしゃいます。将軍の部下の精兵三万で至尊(天子)を お迎えし、詔を奉じて逆賊を討ち、海内に命を発して、兵を各地の軍から 徴し、袁氏が東から、将軍が西から迫れば、董卓を虜とできましょう。」 皇甫嵩は従わず、結局召還に応じた。 役人たちは董卓の気持ちに従って皇甫嵩を獄吏に引き渡すように上奏した。 いよいよ皇甫嵩が誅されようとした時、皇甫嵩の子の皇甫堅・皇甫寿は 元々董卓と中が良かったので長安から逃げて洛陽に走り、董卓の下に 身を投じた。董卓は酒を並べて歓んで会った。皇甫堅と皇甫寿はすぐさま 進み出て大義によって董卓を責め、涙を流して叩頭した。座にいた者たち は感動して皆席を立って(皇甫嵩の赦免を)願った。董卓はそこで立ち上 がって二人の手を引いて同座させ、皇甫嵩の釈放を命じた。 皇甫嵩はまた議郎に任じられ、御史中丞に昇進した。 董卓が長安に帰ると、公卿百官は道の傍らに出迎えて謁した。董卓は御史中丞 以下に皆拝礼をとらせ、暗に皇甫嵩を屈服させようとした。拝礼が終わると 董卓は手を振りかざして言った。「義真、まだ服従いたさぬか。」皇甫嵩は 笑ってこれに会釈した。董卓はそこでわだかまりを解いた。(※献帝春秋に 曰く。以前、董卓は前将軍、皇甫嵩は左将軍であり、辺章・韓遂を討った 際、指揮権を争った事があった。皇甫嵩が(董卓の)車の下で拝礼する ようになると、董卓は言った。「まだ儂に服従すべきではないか。」皇甫嵩 は「明公がこのようになられるのをどうして知る事ができたでしょうか。」 と答えた。董卓が「鴻鵠には元から遠い志が有ったのだ。ただ燕雀はそれを 知る事ができなかったのだ。」と言うと、皇甫嵩は「昔、明公と私はとも に鴻鵠でございましたが、ただ明公が今日、鳳凰に変わられただけでござい ます。」と答えた。)董卓が誅されるに及んで(朝廷は)皇甫嵩を征西将軍 に任命し、また車騎将軍に昇進した。 その年の秋に太尉に任じられたが、冬に流星があった事によって罷免された。 (※続漢書に曰く。太陽にかさがかかった事によって罷免された。) また光禄大夫に任じられ、太常に職を移った。 やがて李[イ寉]が乱を起こすと、皇甫嵩は病に罹って死んだ。 驃騎将軍の印綬が贈られ、一家の一人が郎に取り立てられた。 皇甫嵩は情愛が深く慎み深い性格で忠勤を尽くした。 前後に上表を行って諫言を述べ、損益を補った事が五百以上もあったが、 全て手書きした上で草稿を破り捨て、外に広めなかった。また、身を低く して士にへりくだり、門で足止めを食う客は無かった。(※人材を迅速に 登用した事を言う。) 時の人は皆褒め称え、付き従った。 皇甫堅と皇甫寿もまた名を知られ、後に侍中に任命されたが、任官を断って 病で死んだ。