光武帝紀



世祖光武皇帝は諱を秀、字を文叔という。南陽蔡陽の人である。(※礼に
曰く。功績ある者を祖とし、徳ある者を宗とする。 光武帝は漢を中興した
ので、廟号を世祖と称したのである。諡法に曰く。よく前業を受け継いだ事
を光といい、禍乱を平定した事を武という。伏侯の古今注に曰く。秀の字は
茂(盛んな事)という意味である。伯仲叔季は兄弟の順序を表す。長兄は
伯升、次兄は仲である。故に帝は文叔というのである。)
高祖九世の孫で、景帝の子の長沙定王劉発の血筋である。劉発は舂陵節侯
劉買を生み、劉買は鬱林太守の劉外を生み、劉外は鉅鹿都尉の劉回を生み、
劉回は南頓県令の劉欽を生み、劉欽は光武帝を生んだ。(※舂陵は郷名で
ある。前書に曰く。郡守は秦の官で、秩禄は二千石である。景帝が名を
太守と改めた。前書に曰く。都尉は本は郡尉といい、秦の官であった。
太守を補佐する事を職掌とし、武職を典り、秩禄は比二千石である。景帝
が都尉と改称した。 南頓県は汝南郡に属す。前書に曰く。県令・県長は
ともに秦の官である。一万戸以上の県を令とし、秩禄は六百石から千石
である。一万戸未満を県長とし、秩禄は三百戸から五百石である。)
帝は年九歳にして父を失い、叔父の劉良に養われた。
身長は七尺三寸、髭と眉は美しく、口は大きく、隆準日角であった。
(※隆は高いという意味である。許負(前漢の観相の名人)は鼻頭を準と
するという。鄭玄の尚書中候注に曰く。日角は額の中央の骨が隆起し、
太陽のような形である事をいう。)
(帝は)勤勉な性格で農耕に勤しんだが、兄の伯升(劉[糸寅])は侠を
好んで士を養い、常に帝が農耕に努めるのを笑い、これを高祖の兄仲に
比した。(※仲は高祖の次兄の[合おおざと]陽侯劉喜である。産業に長じて
いた。この事は前書に見える。)
王莽の天鳳年間、帝は長安に行き、尚書の講義を受け、大体その大義に
通じた。(※王莽の始建国六年(AD14)に天鳳と改元した。(原文
は「建国六年」。刊誤により改めた。)東観記に曰く。(帝は)尚書を
中大夫の廬江の許子威に学んだ。生活費が乏しく、同じ宿舍の学生の韓子
と銭を合わせて驢馬を買い、従者に運送を行わせ、それにより諸々の公費
に充てた。)
王莽の末期、天下は連年蝗の害に見舞われ、盗賊が各地で蜂起した。
地皇三年(22)、南陽は荒[食幾](大飢饉)に見舞われ、諸家の賓客の
多くはただの盗賊と成り果てた。(※天鳳六年を改めて地皇元年とした。
(前書は六年を七年に作る。)韓詩外伝に曰く。一穀が実らないのを歉と
いい、二穀が実らないのを[食幾]といい、三穀が実らないのを饉といい、
四穀が実らないのを荒といい、五穀が実らないのを大侵という。)
帝は新野(南陽郡)に役人の追及を避け、宛(南陽郡)で穀物を売って
生計を立てた。(※続漢書に曰く。伯升の賓客が人の物を奪ったので、
新野のケ晨の家に難を避けたのである。東観記に曰く。南陽は日照りで
作物が実らなかったが、帝の田だけが収穫があった。)
宛の人李氏らは、図讖により帝に告げ、「劉氏が再び興り、李氏がその
補佐となるでしょう。」と言った。(※図は河図(黄河から出た龍馬の
背に現れた図。易の本となった。)、讖は符命の書である。王者が天命
を受けた事を示す。易坤霊図に曰く。漢の臣となるのは李陽である。)
帝は、初めはまともに相手にしなかったが、心中に「兄の伯升は平素から
侠客と結託しており、必ずや大事を為すであろう。また、王莽は既に敗亡
の兆しが見え、天下はまさに乱れようとしている。」と思った。
そこで、遂に李氏とともに挙兵の計画を立て、兵を雇い弓弩を買った。
十月、李通・従弟の李軼(りてつ)らと宛で挙兵した。時に帝は年二十八
であった。
十一月に南の空に彗星が張(南天の星の名)に流れた。(※前書の音義に
曰く。張は南方の星宿である。続漢志に曰く。張は周の地である。彗星は
張を流れると、翼・軫の境に墜ちた。翼・軫は楚の地であり、楚に兵乱が
起ころうとする徴であった。一年後の正月、帝は舂陵で兵を起こして南陽
を攻め、甄阜・梁丘賜らを斬り、その部下数万人を殺した。帝は[各隹]陽
(洛陽)に都を定め、周の地に拠った。穢れを除き、新しくする徴があった
のである。)
帝は遂に賓客を率いて舂陵に帰った。その頃既に、伯升は部下を集めて挙兵
していた。
初め、(伯升が挙兵すると、)諸家の子弟は怖れて「伯升は我らを殺す
つもりだ。」と言って逃げ隠れたが、帝が絳衣・大冠を身につけているの
を見て、皆驚いて「謹厚なあの人までもが挙兵に加わるのか。」と言い、
ようやく心を落ち着かせた。(※董巴の輿服志に曰く。大冠は武冠を
いう。武官の冠である。東観記に曰く。帝は時に絳衣・大冠を身に着けて
いた。これは将軍の服装である。)
そこで、伯升は新市・平林の兵を味方に引き入れ、その隊長の王鳳・
陳収と西方の長聚を攻撃した。(※新市県は南陽郡に属す。広雅に曰く。
聚は居の事である。前書の音義に曰く。郷より小さいものを聚という。)
帝は最初牛に乗っていたが、新野の尉を殺して馬を手に入れた。(※前書
に曰く。尉は秦の官で、秩禄は四百石から二百石である。)
進んで唐子郷を攻め滅ぼし、湖陽の尉を殺した。(※湖陽県は南陽郡
に属す。東観記に曰く。劉終(光武帝の一族)は偽って江夏の役人と
称し、これを誘って殺した。)
しかし、軍中の財物の分配が均等でなかった為、部下たちはこれを恨み、
劉氏に背いて襲いかかろうとした。
帝は一族の得た財物を提出させ、全て部下に分け与えたので、部下たちは
喜んで(再び従った)。
さらに進んで棘陽を抜き、王莽の前隊大夫(南陽の守備隊長)の甄阜・
属正(都尉)の梁丘賜と小長安に戦った。(※棘陽県は南陽郡に属す。
棘水の北にあり、古の謝国である。王莽は六つの隊を設置し、郡毎に
大夫一人を置いた。その職務は太守と同様であった。南陽を前隊、河内
を後隊、潁川を左隊、弘農を右隊、河東を北隊、[榮【下水】]陽を祈隊
とした。隊毎に属正一人を置き、その職務は都尉と同様であった。
続漢書に曰く。[シ育]陽県に小長安聚がある。)
漢軍は大敗し、引き返して棘陽を守った。