献帝紀



孝献皇帝は諱を協という。霊帝の中子である。(続漢志は霊帝の少子として
いる。)母の王美人は、何皇后に害されて(毒を盛られて)死んだ。
中平六年(189)の四月、少帝が位に即くと、(献)帝を封じて勃海王と
し、陳留王に封を移した。(※諡法に曰く。聡明睿智を献という。協の字
は合うという意味である。霊帝は献帝が自分に似ている事から協と名付けた
のである。帝王紀に曰く。劉協は字を伯和という。)
九月甲戌に皇帝の位に即いた。年は九歳であった。
皇太后が永安宮に移った。(※董卓が何太后を移したのである。洛陽宮殿名
に曰く。永安宮は周回六百九十八丈である。 洛陽の故城にその礎がある。)
天下に大赦を行い、昭寧の元号を改めて永漢とした。
丙子に董卓が皇太后の何氏を殺した。
初めて侍中・給事黄門侍郎の人員を各六人とした。
公卿以下黄門侍郎までの家毎に一人を郎に任命して、宦官が拝領していた
官職を補い、殿上に侍らせた。(※続漢書に曰く。侍中は秩禄比二千石で
定員は無い。漢官儀に曰く。侍中は左蝉・右貂がある。(冠の左に蝉の羽根
・右に貂(テンの尾)を付けたという意味か。)元々は秦の丞相の史(書記
官)が殿中を往来した為にこれを侍中と呼んだ物である。乗輿・服物(御物)
から下は褻器・虎子(ともに携帯用の便器)の類までを司った。武帝の時に
孔安国が侍中となったが、儒者であった事から特に御座の唾壺を担当する事
を許され、朝廷はこれを栄誉ある事だとした。東京(後漢)の時代に入って
少府の下に置かれたが、また定員は無かった。帝の御車が外に出る時は、
一人が伝国の璽を背中に負い、斬蛇の剣を抱いて参乗した。侍中は中官
(宦官)らとともに禁中に留められた。また曰く。給事黄門侍郎は秩禄
六百石で定員は無い。帝の左右に仕え、中使(天子の使者)の事務を扱い、
内外の連絡を行う事を職務とする。応劭曰く。黄門侍郎は日暮れ毎に青瑣門
に向かって拝礼を行う。これを夕郎という。輿服志に曰く。禁門(御所の門)
を黄闥(黄門)といい、中人(宦官)をその長とする。故にこれを黄門令
という。黄門郎は黄闥の中の事を扱う。その為に黄門郎というのである。
元は定員は無かったが、ここにそれぞれ六人が置かれる事となったので
ある。献帝起居注に曰く。(袁紹らが)黄門を誅して後、侍中・黄門侍郎
らが禁中に出入りし、機密が漏れる事が大変に多かった。これにより、
王允は上奏を行い、侍中・黄門侍郎を出入りさせないようにした。侍中・
黄門侍郎らが賓客と通じる事を禁じられたのはここに始まる。霊帝の熹平
四年(175)に平準の官名を改めて中準として宦官を令とした。それ以来
諸役所の令・丞は悉く宦官が任命される事となった。故にこの時に士人と
交替させたのである。)
乙酉に太尉の劉虞を大司馬とした。
董卓が自ら太尉となり、鉄鉞・虎賁を加えられた。(※礼記に曰く。諸侯
は鉄鉞を賜り、その後に自分の意志で人を殺すことを許される。説文に
曰く。鉄は細かく刻む刃の事である。蒼頡篇に曰く。鉄は斧の事である。
鉄鉞を加えられた者は自分の意志で人を殺す事ができるのである。)
丙戌に太中大夫の楊彪を司空とした。
甲午に豫州牧の黄[王宛]を司徒とした。
使者を遣わして元太傅の陳蕃・大将軍の竇武らを祀らせた。
冬十月乙巳に霊思皇后(何皇后)を埋葬した。
白波賊が河東に侵入したので、董卓は部将の牛輔を遣わしてこれを討た
せた。(※薛瑩の書に曰く。黄巾の郭泰らが西河の白波谷によって蜂起
した。時の人はこれを白波賊と呼んだ。)
十一月癸酉に董卓が相国となった。
十二月戊戌に司徒の黄[王宛]を太尉、司空の楊彪を司徒、光禄勲の荀爽を
司空とした。
扶風の都尉を廃止して漢安の都護を置いた。(※扶風の都尉は秩禄比二千石
である。武帝の元鼎四年(前113年)に設置され、中興の際も改められ
なかった。この時に至り、羌族が三輔を騒がせるようになったので、これ
を廃して都護を置いて、西方を統轄させたのである。)
詔を下し、光熹・昭寧・永漢の三つの元号を廃して中平六年に戻した。
初平元年(190)の春正月に山東の州郡が兵を起こして董卓を討とうと
した。
辛亥に天下に大赦を行った。
癸酉に董卓が弘農王(少帝)を殺した。
白波賊が東郡に侵入した。
二月乙亥に太尉の黄[王宛]・司徒の楊彪を免官した。
庚辰に董卓が城門校尉の伍瓊・督軍校尉の周[王必]を殺した。(※東観記
に曰く。周[王必]は豫州刺史の周慎の子である。続漢書・魏志はともに
周に作る。)
光禄勲の趙謙を太尉、太僕の王允を司徒とした。(※謝承の書に曰く。
趙謙は字を彦信という。太尉の趙戒の孫で、蜀郡成都の人である。 )
丁亥に長安に遷都を行った。董卓は京師の民衆を駆り立てて悉く函谷関に
入らせ、自らは留まって畢圭苑に駐屯した。
壬辰に白虹が太陽を貫いた。
三月乙巳に帝の車駕は長安に入り、未央宮に幸した。(※未央宮は蕭何
が造った物である。張[王番]の記に曰く。宮殿に入ろうとした日に、大雨
が降って空が暗くなり、テキ雉が飛んで長安宮の中に入った。)
己酉に董卓が洛陽の宮殿及び人家を焼き払った。
戊午に董卓が太傅の袁隗・太僕の袁基を殺して一族を皆殺しにした。(※
袁隗は袁紹の叔父で、袁基は袁術の同母兄である。董卓は山東の諸侯が
挙兵して袁紹・袁術を盟主としたので、その親族を殺した。東観記に
曰く。乳飲み子に至るまで男女五十余人が全て獄に下され殺された。)
夏五月に司空の荀爽が死去した。
六月辛丑に光禄大夫の[禾中]払を司空とした。
大鴻臚の韓融・少府の陰脩・執金吾の胡母班・将作大匠の呉脩・越騎校尉
の王[王鬼]らに関東の平定を命じた。(※風俗通に曰く。胡母の姓は元々
陳国の胡公の後裔である。公子完は斉に出奔して斉に留まった。斉の宣王
の同母弟が母の郷里に封じられた際、遠く遡れば胡公であり、近くは母の
邑を領地とした事から、胡母氏と称した。)
後将軍の袁術・河内太守の王匡はこれらを捕らえて殺した。
(※英雄記に曰く。王匡は字を公節という。太山の人である。財を軽んじて
施しを好み、任侠によって聞こえていた。袁紹が任命した河内太守であった。)
ただ韓融だけが捕らえられるのを免れた。
董卓が五銖銭を潰し、改めて小銭を鋳造した。(※光武帝の中興の時に王莽
の貨泉(銅貨)を廃して、改めて五銖銭を用いた。)
冬十一月庚戌に鎮星(土星)・[瑩(下火)]惑(火星)・太白(金星)が尾
(蠍座の一部)に集まった。
この年、有司が上奏を行い、「和・安・順・桓の四帝は功徳が無く、宗と称す
べきではございません。また恭懐・敬隠・恭愍の三皇后は正嫡ではなく、
后と称するのは正しくありません。皆尊号を除かれますように。」と述べた。
(※和帝は穆宗、安帝は恭宗、順帝は敬宗、桓帝は威宗と尊号を奉られて
いた。和帝は母の梁貴人を尊んで恭懐皇后と号し、安帝は祖母の宋貴人を
尊んで敬隠皇后と号し、順帝は母の李氏を尊んで恭愍皇后と号した。)
帝は詔を下し、これを許可した。
孫堅が荊州刺史の王叡を殺し、また南陽太守の張咨を殺した。(※王氏譜
に曰く。王叡は字を通曜という。晋の太保の王祥の伯父である。呉録に
曰く。王叡は普段から孫堅を礼遇していなかった。この時、孫堅が王叡
を殺そうとすると、王叡は「私に何の罪があるのか。」と言った。孫堅は
「それが分らないのが罪なのだ。」と答えた。王叡は追いつめられて金を
削って飲んで死んだ。)
二年(191)の春正月辛丑に天下に大赦を行った。
二月丁丑に董卓が自ら太師となった。
袁術が孫堅を派遣して董卓の部将胡軫と陽人(河南郡)に戦わせ、胡軫の
軍は大敗した。(※史記に秦が東周を滅ぼしてその君主を陽人聚に捕虜に
したというのがこの地である。)
董卓は遂に洛陽の諸帝の御陵を発掘した。
夏四月に董卓が長安に入った。
六月丙戌に地震が起こった。
秋七月に司空の[禾中]払を免官した。光禄大夫の済南の淳于嘉を司空とした。
太尉の趙謙が辞職し、太常の馬日[石單]を太尉とした。
九月に蚩尤旗が角・亢(星の名)に見えた。(※天官書に曰く。蚩尤旗
は彗星の類であるが、後方が曲っており、旗に象る。呂氏春秋に曰く。
蚩尤旗は頭が黄色で尾が白く、これが見られるのは王者が四方を征伐する
徴である。)
冬十月壬戌に董卓が衛尉の張温を殺した。
十一月に青州の黄巾賊が太山に侵入した。太山太守の応劭がこれを撃ち
破った。黄巾賊は矛先を代えて渤海に侵入した。公孫[王贊]は東光でこれ
と戦って、また大いに撃ち破った。
この年、長沙に死んでから一ヶ月を経て復活した人間があった。
三年(192)の春正月丁丑に天下に大赦を行った。
袁術が孫堅を襄陽に遣わして劉表を攻めさせた。孫堅は戦死した。
袁紹と公孫[王贊]が界橋で戦い、公孫[王贊]の軍が大敗した。
夏四月辛巳に董卓を誅殺して三族を滅ぼした。司徒の王允が録尚書事となり
朝政を総覧した。使者の張[禾中]を派遣して山東を慰撫した。
青州の黄巾賊が<亠兌>州刺史の劉岱を東平に攻撃して殺した。東郡の太守
曹操が黄巾賊を寿張で大いに破り降参させた。
五月丁酉に天下に大赦を行った。
丁未に征西将軍の皇甫嵩を車騎将軍とした。
董卓の部将の李[イ寉]・郭・張済・樊稠らが反乱を起こして京師を攻撃
した。
六月戊午に長安城が陥落し、太常の[禾中]払・太僕の魯旭・大鴻臚の周奐・
城門校尉の崔烈・越騎校尉の王[斤頁]らは皆戦没した。(※三輔決録注に
曰く。周奐は字を文明という。茂陵(扶風郡)の人である。)
官吏や民衆の死者は一万余人であった。李[イ寉]らはともに自ら将軍と
なった。
己未に天下に大赦を行った。
李[イ寉]が司隷校尉の黄[王宛]を殺した。
甲子に司徒の王允を殺して、一族を皆殺しにした。
丙子に前将軍の趙謙を司徒とした。
秋七月庚子に太尉の馬日[石單]を太傅録尚書事とした。
八月に馬日[石單]及び太僕の趙岐を派遣して節を持って諸国を慰撫させた。
車騎将軍の皇甫嵩を太尉とした。司徒の趙謙が辞職した。
九月に李[イ寉]が自ら車騎将軍となった。郭は後将軍、樊稠は右将軍、
張済は鎮東将軍となった。張済は長安を出て、弘農に駐屯した。
庚申に司空の淳于嘉を司徒、光禄大夫の楊彪を司空とし、ともに録尚書事
とした。
冬十二月に太尉の皇甫嵩を免官し、光録大夫の周忠を太尉として録尚書事
に加えた。
四年(193)の春正月甲寅朔日に日食があった。(※袁宏の記に曰く。
日時は日暮れ前の八刻であった。太史令の王立は「日の影が日時計の目盛
を越えました。変わりございません。」と上奏した。朝臣は皆喜びを述べた。
帝が調べさせたところ、日暮れ前の一刻に日食が始まっていた。賈[言羽]が
上奏して言った。「調べてみたところ、日食がございました。(太史令は)
上下を誤らせました。理官(司法官)に引き渡されますように。」帝は
言った。「天道は遠く、その示す所は明かではない。罪を史官に帰そうと
すれば、朕の不徳を重くする事になろうぞ。」)
丁卯に天下に大赦を行った。
三月に袁術が揚州刺史の陳温を殺して淮南に拠った。
長安の宣平の城門の外の家屋が自然に倒壊した。(※三輔黄図に曰く。
宣平門は長安城の東に面する最北の門である。)
夏五月癸酉に雲が無いのに雷が鳴った。
六月に扶風に大風が吹いて雹が降り、華山が崩れた。
太尉の周忠を免官して太僕の朱儁を太尉・録尚書事とした。
下[丕おおざと]の賊闕宣(けっせん)が自ら天子と称した。(※風俗通
に曰く。闕は姓である。闕党童子の後裔であるという。縦横家に闕子が
いて書を著している。)
雨が降って洪水が起こった。
侍御史の裴茂を遣して獄を検分させ、罪の軽い者を赦免した。
六月辛丑に天狗(星が墜ちて犬の形になった物)が西北に向けて走った。
(※前書の音義に曰く。声がすれば天狗であり、声がしなければ枉矢で
ある。)
九月甲午に儒生四十余人(袁宏の漢紀では三十余人)に試験を行い、上第
には郎中の位を賜り、それに次ぐ者には太子舎人を賜り、下第の者は退学
させた。
その一方で、詔を下して言った。「かつて孔子は学問が学ばれないのを
嘆いた。学問が学ばれなければ、その知識は日に日に忘れられていく。今、
耆儒(老人儒者)は六十才を越え、故郷を離れ、食べ物や金を求めて本業
に専念できずにいる。結髪の少年の頃から学問の道に入り、白髪頭の老人
となって空しく故郷に帰る。長く農野を放置していた為、これから先の繁栄
の望みは絶たれている。朕はこれを甚だ哀れに思う。試験によって退学と
された者は太子舎人となるのを許す。」(※劉艾の献帝紀に曰く。長安の
民衆はこの事を「髪は真っ白になり、食も足りず、衣を裏返して裳を震わし、
故郷に還ろうとした。聖主様は哀れに思し召し、全て用いて郎とされた。
こうして布衣(無官の人間の服)を捨て、玄黄(天子の恩?)を蒙る事が
できたのだ。」と謡った。)
冬十月に太学が礼を行い、帝は車駕に乗り永福城門に幸し、その儀式を
臨み見た。博士以下に各々差のある恩賞を賜わった。
辛丑に京師に地震が起こった。天市(二十八宿の一)に彗星が流れた。
(※袁宏の紀に曰く。天市に彗星が流れるのは天子が都を移す徴である。
後に帝が東に遷都を行った事と符合する。)
司空の楊彪を免官して太常の趙温を司空とした。公孫[王贊]が大司馬の
劉虞を殺した。
十二月辛丑に地震が起こった。司空の趙温を免官した。
乙巳に衛尉の張喜を司空とした。(※献帝春秋では喜を嘉に作る。)
この年に瑯邪王の劉容が死去した。
興平元年(194)春正月辛酉に天下に大赦を行い、興平と改元した。
甲子に帝は元服を行った。
二月壬午に皇母の王氏を追尊して霊懐皇后と諡した。
甲申に皇后を文昭陵に改葬した。
丁亥に帝は籍田(神に供える穀物を育てる田)を耕した。
三月に馬騰・韓遂が長平観で郭・樊稠と戦ったが、韓遂・馬騰は大敗
し、左中郎将の劉範・前の益州刺史[禾中]劭らが戦没した。
(※前書の音義に曰く。長平は阪の名である。その上には高殿がある。
長安を去る事五十里、池陽宮の南にある。袁宏の紀に曰く。この時、馬騰
は李[イ寉]らが好き勝手に国を乱している事から、益州刺史の劉焉が宗室
の大臣であったので、ともに使者を遣わして手を結んで李[イ寉]らを誅殺
しようとした。劉焉は子の劉範を遣わして兵を率いて馬騰に従わせた。
元涼州刺史の[禾中]劭は太常の[禾中]払の子である。[禾中]払が李[イ寉]
に殺されたので、仇を報じようとしたのである。そして、遂にこの戦と
なった。)
夏六月丙子に涼州の河西の四郡(金城・酒泉・燉煌・張掖)を分離して廱州
とした。
丁丑に地震が起こった。
戊戌に又地震が起こった。
乙巳晦日に日食があった。帝は昇殿を避け、兵を休めて、五日間政治を
執らなかった。
蝗が大発生した。
秋七月壬子に太尉の朱儁を免官した。
戊戌に太常の楊彪を太尉録尚書事とした。
三輔は大旱魃に見舞われ、四月からこの月に至るまで雨が降らなかった。
帝は昇殿を避けて雨を請い、使者を遣わして囚人の再審を行わせ、罪の
軽い者を赦免した。
時に米一斛は五十万銭、豆・麦一斛は二十万銭に高騰し、人は互いに食い
合い、白骨が積み重なった。
帝は侍御史の侯[シ文](こうぶん)に太倉の米・豆を出して飢えた人の為に
粥を作らせたが、数日経っても死ぬ者は減らなかった。
帝は施しに虚偽があるのではと疑い、自ら御座の前で米・豆の量を計って
粥を作らせたところ、施しに不正があった事が分った。(※袁宏の紀に
曰く。この時、帝は侍中の劉艾に命じて米・豆五升を持って来させ、御前
で粥を作らせたところ、鉢三杯分の粥が出来上がった。そこで、帝は尚書
に詔を下して言った。「米・豆五升で鉢三杯分の粥ができるというのに、
人は元気を取り戻さない。これはどういう事か。」)
帝は侍中の劉艾を遣わして有司の責任を問わせた。これによって尚書令
以下は皆、役所に参上して謝罪を行った。彼らは上奏して「侯[シ文]を
獄に下して拷問に掛けましょう。」と述べた。だが、帝は詔を下して
「侯[シ文]は裁くに忍びない。杖打ち五十回とするが良かろう。」と
告げた。この後、(正しい施しにより)多くの人々の命が救われた。
八月に馮翊の羌が反乱を起して属県を寇略した。郭・樊稠がこれを撃ち
破った。
九月に桑の木がまた実をつけたので、人はそれを食べる事ができた。
司徒の淳于嘉が辞職した。
冬十月に長安の市門が自然に倒壊した。
衛尉の趙温を司徒・録尚書事とした。
十二月に安定・扶風を分割して新平郡とした。
この年に揚州刺史の劉[瑤(左無)系](りゅうよう)が袁術の部将孫策と
曲阿で戦った。(※孫策は字を伯符という。孫堅の子である。)
劉ヨウの軍は大敗し、結局孫策が会稽を占領した。(※呉志に曰く。
孫策は劉ヨウを破った後、遂に兵を率いて長江を渡って会稽に拠った。
孫策は自ら会稽太守となった。)
太傅の馬日[石單]が寿春(九江郡)で死去した。
二年(195)の春正月癸丑に天下に大赦を行った。
二月乙亥に李[イ寉]が樊稠を殺し、郭と互いに攻撃し合った。
三月丙寅に李[イ寉]が帝を脅迫してその陣営に移らせ、宮殿を焼いた。
夏四月甲午に貴人の伏氏を立てて皇后とした。
丁酉に郭が李[イ寉]を攻めた際、矢が帝の御前にまで飛んできた。(※
山陽公載記に曰く。この時、弓弩が一斉に矢を放ち、矢は雨のように降り
注ぎ、御所にまで飛んできて、高楼の殿前の御簾でやっと止まった。)
この日、李[イ寉]は帝を北塢(北宮)に移した。(服虔の通俗文に曰く。
砦を塢という。一説には城壁の低い城であるという。山陽公載記に曰く。
時に帝は南塢に在り、李[イ寉]は北塢にいた。戦闘中に飛んできた矢が
李[イ寉]の左耳に命中した。そこで、帝を迎えて北塢に移そうとした。
帝は従おうとしなかったが、李[イ寉]は強いて行かせた。)
(この頃長安一帯は)大旱魃に見舞われた。
五月壬午に李[イ寉]は自ら大司馬となった。
六月甲午に張済が陝から帰ってきて李[イ寉]と郭を仲裁した。
秋七月甲子に帝の車駕は東に帰った。郭は自ら車騎将軍となった。
帝は楊定を後将軍、楊奉を興義将軍、董承を安集将軍として車駕を護衛
させた。
張済は驃騎将軍となり、陝に帰って駐屯した。
八月甲辰に新豊に幸した。
冬十月戊戌に郭が部将の伍習に命じて、夜中に帝の宿泊する学舎に
火を放たせ、一行を脅かした。楊定は楊奉とともに郭と戦い、これを
破った。
壬寅に華陰に幸し、道の南に野営した。この夜、赤い気のような物が
紫宮(星の名)を貫いた。(※献帝春秋に曰く。赤気は幅六・七尺で、
東は寅の方角、西は戌の方角の地に下りていた。)
張済はまた背いて李[イ寉]・郭と合流した。
十一月庚午に李[イ寉]・郭らは帝の一行を追い、東澗で戦となり、帝の
軍は大敗し、光禄勲のケ泉・衛尉の士孫瑞・廷尉の宣播・大長秋の苗祀・
歩兵校尉の魏桀・侍中の朱展・射声校尉の沮儁が殺された。(※献帝春秋
は播を[王番]に作る。風俗通に曰く。沮は姓である。黄帝の時の史官の沮誦
の後裔である。ケ泉は五行志によれば、ケ淵である。章懐太子が祖父の李淵
の諱を避けたのである。)
壬申に曹陽に行幸し、田畑の中で野営した。(※曹陽は谷の名である。
唐代では俗に七里澗という。崔浩によれば、南山の北から黄河に通じると
いう。)
楊奉・董承が白波の帥の胡才・李楽・韓暹及び匈奴の左賢王の去卑を引き
連れ、軍を率いて帝を迎え、李[イ寉]らと戦ってこれを破った。
十二月庚辰に車駕が進むと、李[イ寉]らがまた追ってきて戦闘となり、
帝の軍は大敗して宮人の多くが殺害または略奪された。少府の田芬
(五行志は田[分おおざと]に作る。)・大司農の張義らは皆戦没した。
車駕は進んで陝に幸し、夜半に黄河を渡った。
乙亥に安邑(河東郡)に幸した。
この年に袁紹が部将の麹義(きくぎ)を遣して公孫[王贊]と鮑丘で戦わせ、
公孫[王贊] の軍は大敗した。(※鮑丘は川の名で、北塞の中から出て、
南に流れ、九荘嶺の東を通る。俗に大楡河という。また、東南に流れ、
漁陽県の古城の東を通る。公孫[王贊]が戦った場所である。これらは
水経注に見える。)
建安元年(196)春正月癸酉に安邑に上帝を祀り、天下に大赦を行い、
建安と改元した。
二月に韓暹が衛将軍の董承を攻撃した。
夏六月乙未に聞喜(河東郡)に幸した。
秋七月甲子に車駕は洛陽に到着し、元中常侍の趙忠の屋敷に幸した。
丁丑に上帝を祀り、天下に大赦を行った。
己卯に帝は太廟(天子の祖廟)に参詣した。
八月辛丑に南宮の楊安殿に幸した。
癸卯に安国将軍の張楊を大司馬、韓暹を大将軍、楊奉を車騎将軍とした。
この時、宮殿は焼き尽くされていた為、百官は荊棘を敷いて土塀の間で
寝起きした。州郡は各々強兵を擁していたが、食糧は届かなかった。
群臣は飢え、尚書郎以下は自ら外に出て耜を握った。
ある者は土塀の間で餓死し、ある者は兵士によって殺された。
辛亥に鎮東将軍の曹操が自ら司隷校尉・録尚書事となった。
曹操は侍中の臺崇・尚書の馮碩らを殺した。(※風俗通に曰く。金天氏
(少昊)の子孫に臺駘(たいたい)という者がおり、後にそれを氏とした。
山陽公載記は臺を壺に作る。)
衛将軍の董承・輔国将軍の伏完ら十三人を列侯とし、戦死した沮儁に弘農
太守を追贈した。
庚申に許に都を遷した。
己巳に曹操の陣営に幸した。
九月に太尉の楊彪・司空の張喜が辞職した。
冬十一月丙戌に曹操は自ら司空行車騎将軍事となった。
曹操は百官を集めて自分で政治を執り行った。
二年(197)の春、袁術が自ら天子を称した。
三月に袁紹が自ら大将軍となった。
夏五月に蝗が発生した。
秋九月に漢水が氾濫した。
この年に江淮の間で飢饉があり、民は互いに食い合った。
袁術が陳王の劉寵を殺した。
孫策が使いを送って貢物を届けてきた。
三年(198)の夏四月、謁者の裴茂を遣わして、中郎将段[火畏]を率いて
李[イ寉]を討たせ、三族を滅ぼした。(※献帝起居注に曰く。李[イ寉]の首
が許に届けられると、高所に掲げられた。)
呂布が(徐州で)反乱を起した。
冬十一月に盗賊が大司馬の張楊を殺した。
十二月癸酉に曹操が呂布を徐州に討ち、これを斬った。
四年(199)の春三月に袁紹が公孫[王贊]を易京に攻め、これを捕らえた。
(※公孫[王贊]は度々敗れ、易河に臨んで京(城)を作り、守りを固めた。
故にこれを易京と呼んだ。その城壁は三重で、周回は六里である。爾雅に
曰く。甚だしく高い丘を京という。人の力で作れる物ではないからである。)
衛将軍の董承を車騎将軍とした。
夏六月に袁術が死んだ。
この年に初めて尚書の左右の僕射を置いた。
武陵の女子が死んで十四日してから生き返った。(※続漢志に曰く。女子
の名は李娥という。年は六十余であった。土中から声がして掘り出された。)
五年(200)の春正月に車騎将軍の董承・偏将軍の王服・越騎校尉の
[禾中]輯が密詔を受け、曹操を誅殺しようとして事が漏れた。
壬午に曹操が董承らを殺して三族を滅ぼした。
秋七月に皇子劉馮を立てて南陽王とした。
壬午に南陽王が死去した。
九月庚午朔日に日食があった。三公に詔を下し、至孝(孝行で知られる
人物)二人を、九卿・校尉・郡国の太守・相には各々一人を推薦させ、
皆意見を奉って、避けるべき事柄を明らかにさせた。
曹操が袁紹と官渡で戦い、袁紹は敗走した。(※裴松之の北征記に曰く。
中牟台の下の[シ卞]水に臨む地点を官渡という。唐代には袁紹・曹操の
砦はまだ残っていた。)
冬十月辛亥に大梁に彗星が流れた。(※大梁は酉(西)の方角にある。)
東海王の劉祗が死去した。
この年、孫策が死に、弟の孫権がその遺業を継いだ。(※許貢の食客に
射られて傷を負ったのが原因である。孫権は字を仲謀という。)
六年(201)の春二月丁卯朔日に日食があった。
七年(202)の夏五月庚戌に袁紹が死んだ。
于<冖眞>(うてん)国が人に馴れた象を献上してきた。
この年、越<山雋>で男子が変化して女子になった。
八年(203)の冬十月己巳に公卿は初めて北郊(天子が夏至に地を祭る
場所)で冬を迎えた。(※その儀礼は久しく廃されていたので、初めてと
言ったのである。)
総章(楽官の名)はまた八[イ肖](八列)の舞を始めた。(※袁宏の紀
に曰く。北郊に気を迎え、八[イ肖]を用い始めた。[イ肖]は列で、いわ
ゆる舞いの行列である。戦乱により廃され、今またこれを復活させたの
である。総章は楽官の名で、古代の安代楽である。)
初めて司直の官を置き、中都(京師)の官を監督させた。(※司直は秩禄
比二千石である。武帝の元狩五年(BC118)に置かれ、丞相を補佐し、
不法を報告する事を職務とした。建武十一年に廃され、今またこれを復した
のである。)
九年(204)の秋八月戊寅に曹操が袁尚を大いに破って冀州を平定し、
自ら冀州の牧を兼ねた。
冬十月に東井に彗星が流れた。
十二月に三公以下に各々差のある金帛を賜った。これより三年に一度金帛
を賜う事が常制となった。
十年(205)の春正月に曹操は袁譚を青州に破ってこれを斬った。
(※魏書に曰く。曹操は袁譚を攻めて勝てず、自らばちを取って太鼓を
打って(兵を励まし)、たちまちこれを破った。)
夏四月に黒山の賊張燕が部下を率いて投降してきた。(※魏志に曰く。
張燕は本姓を[ころもへん者]という。常山真定の人である。黄巾の乱が
起きると、チョ燕は村の少年たちを集めて群盗となり、一万余人の子分を
従えるようになり、博陵の人張牛角を首領とした。張牛角が死ぬと、
チョ燕が代わって首領となり、姓を張と改めた。張燕はすばしこく勇敢
で、軍中の者はこれを張飛燕と呼んだ。その手下は百万に上り、黒山賊
と号した。)
秋九月に百官の最も貧しい者に各々差のある金帛を賜った。
十一年(206)春正月に北斗に彗星が流れた。
三月に曹操が高幹を并州に破り、これを捕らえた。(※典論に曰く。上洛
都尉の王[王炎]が高幹を破り、追撃して首を斬った。)
秋七月に武威太守の張猛が雍州刺史の邯鄲商を殺した。(※袁宏の紀は
雍州を涼州に作る。)
この年に元の瑯邪王の劉容の子劉煕を立てて瑯邪王とした。
斉・北海・阜陵・下[丕おおざと]・常山・甘陵・済北・平原の八国を
皆除いた。
十二年(207)の秋八月に曹操が烏桓を柳城(遼西郡)に大いに破り、
その王[搨(左足)]頓(とうとん)を斬った。(※トウ頓は匈奴の
王の号である。(烏桓伝ではトウ頓は丘力居の従子であり、丘力居に
代わって王となったとある。何故、注が王の号とするのかは不明で
ある。)
冬十月辛卯に鶉尾(しゅんび)に彗星が流れた。(※鶉尾は巳(南)の
方角である。)
己巳に黄巾賊が済南王の劉贇(河間孝王五代の孫)を殺した。
十一月、遼東太守の公孫康が袁尚・袁煕を殺した。
十三年(208)の春正月に司徒の趙温を免官した。
夏六月に三公の官を廃止して、丞相・御史大夫を置いた。
癸巳に曹操が自ら丞相となった。
秋七月に曹操が南方に劉表を征討した。
八月丁未に光禄勲の[希おおざと]慮(ちりょ)を御史大夫とした。(※
続漢書に曰く。チ慮は字を鴻豫という。山陽高平の人である。若くして
鄭玄に学問を受けた。)
壬子に曹操が太中大夫の孔融を殺して、その一族を滅ぼした。
この月に劉表が死に、少子の劉jが立った。劉jは荊州を曹操に献じて
降伏した。
冬十月癸未朔日に日食があった。
曹操が船団を率いて孫権を伐った。孫権の部将の周瑜はこれを烏林・赤壁に
破った。
十四年(209)の冬十月に荊州に地震が起こった。
十五年(210)の春二月乙巳朔日に日食があった。
十六年(211)の秋九月庚戌に曹操が韓遂・馬超と[シ胃]南で戦った。
韓遂らは大敗、関西は平定された。(※曹瞞伝に曰く。この時、婁子伯
(婁圭)は曹操に説いて言った。「今、気候は寒く、砂を利用して城を
作るのが宜しいでしょう。水を注げば一夜で完成します。」公はこれに
従い、明け方頃に城を作った。馬超と韓遂は度々戦を仕掛けたが、形勢は
不利であった。曹操は虎騎を繰り出して挟み撃ちにし、これを大いに破った。
馬超・韓遂は涼州に逃げた。) 
この年に趙王の劉赦が死去した。
十七年(212)夏五月癸未に衛尉の馬騰を誅殺して、その三族を滅ぼした。
六月庚寅晦日に日食があった。
秋七月に[シ有]水・潁水が氾濫した。
螟(ずいむし)が発生した。
八月に馬超が涼州を攻略して刺史の韋康を殺した。
九月庚戌に皇子の劉煕を立てて済陰王、劉懿を山陽王、劉[しんにゅう貌]
を済北王、劉敦を東海王とした。(※山陽公載記に曰く。許靖は当時巴郡
にいたが、諸王が立てられたと聞いて、「これを合わせようとする時は
必ず一旦その威を張らせ、これを奪おうとする時は必ず一旦それを興す。
それはまさに曹孟徳のやっている事だ。」と言った。)
冬十二月に五諸侯(星の名)に彗星が流れた。
十八年(213)の春正月庚寅に禹貢(禹が定めた州の地理書)の九州
を復活した。(※献帝春秋に曰く。幽州・并州を廃して冀州に併せ、司隷
校尉・涼州を廃して雍州とし、交州州を廃して荊州・益州に併せ、<亠兌>
・豫・青・徐・荊・揚・冀・益・雍の九州とした。九の数は同じであるが、
禹貢には梁州はあるが、益州は無い。だが、梁・益はまた同一の地である。)
夏五月丙申に曹操が自ら魏公となり、九錫を加えられた。(※礼含文嘉に
曰く。九錫は、一に車馬、二に衣服、三に楽器、四に朱戸(朱塗りの門)
・五に納陛(昇殿の際の雨よけ?)・六に虎賁の士(近衛兵)百人・七に
斧鉞・八に弓矢・九に秬鬯(きょちょう=祭りに用いる酒)である。)
大雨が降って洪水が起こった。
趙王の劉珪を移して博陵王とした。
この年に歳星(木星)・鎮星・[瑩(下火)]惑がともに太微(星垣の名。
五帝の座・十二諸侯の府に象る。)に入った。
(※この年の秋、三星が逆行して太微に入り、五十日の間、帝坐を守った。)
彭城王の劉和が死去した。
十九年(214)の夏四月に旱魃に見舞われた。
五月に雨が降って洪水が起こった。
劉備が劉璋を破り、益州を占領した。
冬十月に曹操が部将の夏侯淵を遣して朱建を枹罕(金城郡)に討たせ、これ
を捕らえた。(※魏志に曰く。夏侯淵は字を妙才という。沛国[言焦]の人
である。)
十一月丁卯に曹操が皇后の伏氏を殺し、その一族及び二皇子を皆殺しにした。
(※山陽公載記に曰く。劉備は蜀の地でこれを聞いて喪を発した。)
二十年(215)の春正月甲子に貴人に曹氏を立てて皇后とした。
天下の男子に各々爵位を一級、孝悌・力田(農業に務めた者)には二級を
賜り、諸王侯・公卿以下に各々差のある米穀を賜った。
秋七月に曹操が漢中を破り、張魯が投降した。
二十一年(216)の夏四月甲午に曹操が自ら号を魏王に進めた。
五月己亥朔日に日食があった。
秋七月に匈奴の南単于が来朝した。
この年に曹操が瑯邪王の劉煕を殺して国を除いた。(※陰謀に連座して、
江南に逃げようとして誅殺されたという。)
二十二年(217)の夏六月に丞相軍師の華[音欠]を御史大夫とした。
冬に東北の空に彗星が流れた。
この年に疫病が大流行した。
二十三年(218)の春正月甲子に少府の耿紀・丞相司直の韋晃らが兵を
起して曹操を誅殺しようとして失敗し、三族を滅ぼされた。(※三輔決録
注に曰く。当時、京兆の金[ネ韋]、字を徳偉という者がいた。代々漢の臣
であった事から、曹操の専横に憤りを発し、耿紀・韋晃と天子を奉じて
魏(曹操)を攻め、南の劉備を頼ろうとしたが、計画は失敗して一族皆
殺しにされた。)
三月に東方の空に彗星が流れた。(※杜預の左伝注に曰く。夜明けには
星々は皆沈み、ただ彗星のみが見える。故にどこに流れたかが記されて
いないのである。(袁宏の漢紀は東方を東井に作る。)
二十四年(219)の春二月壬子晦日に日食があった。
夏五月に劉備が漢中を奪った。
秋七月庚子に劉備が自ら漢中王を称した。
八月に漢水が氾濫した。
冬十一月に孫権が劉備から荊州を奪った。
二十五年(220)の春正月庚子に魏王の曹操が死去し、子の曹丕が位を
継いだ。(※魏志に曰く。曹操は字を孟徳という。死去した時、年六十六
であった。曹丕は字を子桓という。曹操の太子であった。)
二月丁未朔日に日食があった。
三月に延康と改元した。
冬十月乙卯(魏の受禅碑は十月辛未に作る。)に皇帝は位を魏に譲り、魏王
の曹丕が天子を称した。(※献帝春秋に曰く。帝は時に群臣を召して高廟で
告祀を行い、太常の張音に詔を下し、策詔と璽綬を奉じて魏王に位を禅譲
しようとした。そこで、繁陽の故城に壇が築かれ、魏王は壇に登り、皇帝の
璽綬を受けた。)
(曹丕は)帝を山陽公(山陽は河内郡)に封じ、食邑一万戸とし、位を
諸侯王の上とし、上奏を行うのに臣と称さず、詔を受けるのに拝礼をせず、
天子の車・衣服を使用し、天地宗廟を祀る事を許された。祖臘(午の日に
祖先を祀り、歳末の戌の日に神々を祀る事)は漢の制度と同じように行った。
山陽(河内郡)の濁鹿城に都を置いた。(※濁鹿は一名を濁城という。)
四人の皇子で王に封じられていた者は、皆降格して列侯とされた。
翌年(221)に劉備が蜀で皇帝を称した。孫権もまた自ら呉王となった。
ここに天下は遂に三つに分かれた。
魏の青龍二年(234) の三月庚寅に山陽公は死去した。
自ら位を譲って死去するまで十余年。年五十四であった。
孝献皇帝と諡された。
八月壬申に漢の天子の礼を以て禅陵に葬られた。(※続漢書に曰く。天子
を葬る際には、太僕は四輪のながえの付いた車を整え、これを賓車とし、
大練(大きな練り絹)を屋根の覆いとする。中黄門・虎賁各々二十人が
[糸弗](引き綱)を引く。司空は土を選んで穿(穴)を造り、太史令は
日を占い、将作大匠は黄腸(柏の木の黄心で作った槨)・題湊(棺の外に
重ねる木)・便房(休憩室?)を礼に従って作る。 大駕は太僕が御し、
方相氏(厄除けの官)は黄金の四つ目の面を付け、熊の皮を被り、朱の
袴を着け、矛を持って盾を掲げ、立ちながら四頭の馬に乗り、先導となる。
旗の長さは三仭(一仭は七尺)で、十本のうち二本は飾りで地面に垂れ
下がっている。その他は日月・昇龍が描かれている。[旋(疋→兆)]
(ちょう=棺に先行する旗)には「天子の棺」と書かれる。謁者二人が立ち
ながら六頭の馬に乗って次に行く。太常は哭して十五の奉音を述べ、哭を
終えると、時を計って出発を請う。司徒・河南尹が先に立って車を引いて
棺を運び、太常が「車をお運びする事をお許し下さい。」という。車は白い
より糸を三本付ける。[糸弗]の長さは三十丈で、囲(周りの長さ)は七寸
であり、六本を五十人が引く。公卿以下の子弟およそ三百人は皆、白い
[巾責](頭巾)を着け、飾りや冠を外し、白い衣を着て棺を引く。校尉
三人は皆、赤い[巾責]を着け、冠を被らず、旗幟を持ち、口に枚をくわ
える。羽林の孤児・巴兪の[曜(左女)]歌を唄う者六十人を六列に並べる。
司馬八人は鐸(鈴)を持つ。陵の南の羨門(墓の門)に着くと、 司徒は
跪いて、棺を下房(下の部屋)に入れる事を願い、東園の武士を導いて
棺を房に入れさせる。執事は明器を供え、太祝(祭祀を司る官)は醴
(甘酒)を献じる。司空は校尉を率いて復土(埋葬)を行わせる。帝王
紀に曰く。禅陵は濁鹿の西北十里の距離にあり、陵の高さは二丈、周囲は
二百歩であった。劉澄の地記によれば、献帝が位を禅譲した事によって
禅陵と名付けられたという。)
園邑を守る令丞を置いた。
太子は早世していたので孫の劉康が後を継ぎ、五十一年後の晋の太康六年
(285)に死去した。子の劉瑾が後を継ぎ、四年後の太康十年(289)
に劉瑾は死去した。子の劉秋が後を継いだ。二十年後の永嘉年間(永嘉三年
(309)に劉秋は胡賊によって殺され、国は除かれた。

論に曰く。伝は、鼎の器は小さくとも重く、それ故に神宝とされたので
あり、奪い取って移すべきではないとしている。(※左伝に曰く。王孫満
(周の使者)(楚の荘王に)「夏の桀王は徳が薄く、鼎は商に移り、
商の紂王は暴虐で、鼎は周に移りました。徳が尊ければたとえ小さくても
重く、姦淫や愚行で政治が乱れていれば大きくても軽いのです。」と
答えた。宣・三 故に神の宝とする物を奪って移すべきではないのである。)
それを背負って走らせてしまった時に、運が尽き果ててしまったのである。
(※神器は大変重い物である。それを人に背負わせて走らせたのだから、
運が尽きる事はこの時に既に決まっていたのであり、その運命を逃れる
事はできないのである。荘子に曰く。舟を谷に隠し、網を沢に隠して安全
だと言った。夜半にに力のある者がこれを背負って走り去っても、愚者は
それに気付かない。)
天は漢の徳に飽きて久しかった。山陽公に何の責任があるだろうか。
(※漢は和帝以来、政治も教化も次第に衰え始めた。故に天は漢の徳に
飽きて久しいと言ったのである。禍が起こったのは山陽公一人の責任では
ない。それはどこに責任を求めれば良いのだろうか。左伝に曰く。宋の
子魚は「天は商の徳に飽きて久しい。」と言った。僖・二十二 また孔子
は「予に何の責任があるというのか。」と言った。(論語の言葉である。)
賛に曰く。献帝は生まれた時代が良くなかった。身は方々に移されて国
は困難に直面した。漢朝四百年を終らせ、長く虞賓となったのである。
(※春秋演孔図に曰く。劉氏が四百年の時、漢王の補佐を称え、皇王は
その時、有名無実となる。虞賓とは舜が堯の子の丹朱を賓客とした事で
ある。虞書にいう「虞賓位に在り。」とはこれをいう。山陽公が魏の
賓客となった事を喩えたのある。)