何進伝



何進は字を遂高という。南陽宛の人である。異母妹が選ばれて掖庭
(後宮)に入って貴人となり、霊帝に寵愛された事により、郎中に任命
された。また虎賁中郎将に昇進し、外に出て潁川太守となった。
光和二年(179)(正しくは三年)、何貴人が皇后に立てられると、
何進は召還されて入朝し、侍中・将作大匠・河南尹に任命された。
中平元年(184)、黄巾賊の張角らが反乱を起こしたので、朝廷は何進
を大将軍として、左右の羽林・五営の兵士を率いて都亭に駐屯させた。
何進は兵器を修繕して京師の押さえとなった。
張角の一味である馬元義が洛陽で乱を起こそうと謀ったが、何進はその
企みを暴き、その功により慎侯に封じられた。(※慎県は汝南郡に属す。)
四年(187)、[榮(下水)]陽の賊数千人が集団で反乱を起こして
郡県を攻めて焼き払い、中牟県令を殺した。朝廷は詔を下して、何進
の弟の何苗にこれを撃たせた。(李慈銘は言う。何皇后は元々屠殺人の家
に生まれ、父の何真は早くに死んだ。母の舞陽君は改めて朱氏に嫁ぎ、朱苗
を生んだ。何氏が尊貴な身分となると、朱苗もまた何氏を名乗ったという。
続漢志にはその本姓が載っている。 何苗は元々何進と同姓ではなかった。
故に何進の部将たちは何苗が宦官と共謀して何進を殺したと疑って、遂に
何苗を仇として討ったのである。)
何苗は群賊を破り、平定して帰還した。
朝廷は詔により使者を遣わして成皐に出迎えさせ、何苗を車騎将軍に任命
して済陽侯に封じた。
五年(188)、天下はいよいよ乱れ、望気(雲気を見て吉凶を占う者)
は京師でまさに大乱が起こり、両宮で血が流される事を予想した。
大将軍司馬の許涼と仮司馬の伍宕は何進に説いて言った。「太公望の六韜
に『天子が兵に将となる事あり。天子の威光により四方を従わせる。』と
ございます。(※太公望の六韜篇の第一は覇典・文論、第二は文師・武論、
第三は龍韜・主将、第四は虎韜・偏裨、第五は豹韜・校尉、第六は犬韜・
司馬である。その龍韜によれば、武王は『私は三軍の兵にその将を父母の
如く慕わせ、退却の鐘の音を聞いて怒り、前進の鼓の音を聞いて喜ぶよう
にさせたい。この為にはどうすれば良いだろう。』と言った。)」
何進はその通りだと思い、参内してこれを帝に上言した。
そこで、帝は何進に詔を下して、大いに四方の兵を発させ、平楽観の下に
練兵を行った。
大壇が築かれ、その上に十二重の五色の華蓋を立てられた。その高さは
十丈であった。壇の東北に小壇を築いてまた九重の華蓋を立てた。その
高さは九丈であった。
歩兵・騎士数万人を並べて陣営が結ばれた。
帝は自ら宮殿から出て閲兵を行い、大華蓋の下に車を停め、何進は小華蓋
の下に車を停めた。
礼が終わると、帝は鎧を身につけ、馬にも鎧を着けさせ、無上将軍と
称した。
帝は三度陣営を巡ってから宮殿に戻り、何進に詔を下して、兵らを悉く
統率させ、平楽観の下に駐屯させた。
この時に西園の八校尉を置き、小黄門の蹇碩(けんせき)を上軍校尉、
虎賁中郎将の袁紹を中軍校尉、屯騎都尉(校尉)の鮑鴻を下軍校尉、議郎
の曹操を典軍校尉、趙融を助軍校尉、淳于瓊を佐軍校尉とした。また他に
左右の校尉があった。
帝は蹇碩が壮健で武略がある事から特に親任し、元帥として司隷校尉以下
を監督させ、大将軍さえもがその統率下に置かれた。
蹇碩は兵権を独占しても、なお何進を恐れ憚っていた。そこで、常侍たち
とともに、帝に何進を遣わして西方の賊の辺章・韓遂を撃たせるように
説いた。
帝はこれに従い、何進に兵車百乗・虎賁・斧鉞を賜った。
何進は秘かにその企みを知って上奏を行い、袁紹を遣わして徐・<六兄>
二州の兵を集めさせ、袁紹の帰還を待って戎の征討に取りかかると言って
出征を延期させた。
初め、何皇后は皇子弁を生み、王貴人は皇子協を生んだ。
群臣が太子を立てるように願い出ると、帝は劉弁が軽薄で威厳が無く、
人主の器ではないと思っていたが、皇后を寵愛しており、かつ何進に重い
権力がある事から長く心を決められずにいた。
六年(189)、帝は病が篤くなると、劉協を蹇碩に託した。
蹇碩は既に遺詔を受け、また普段から何進兄弟を嫌って軽んじていた。
帝が崩御した時、蹇碩は宮廷内におり、先手を打って何進を誅殺し、劉協
を皇帝に立てようとした。
何進が宮殿に入ろうとすると、何進の昔馴染みであった蹇碩の司馬の潘隠
が何進を出迎えて目配せした。
何進は驚いて近道を通って逃げ、陣営に帰ると兵を率いて百郡の屋敷に
留まり、病と称して入朝しなかった。
蹇碩の陰謀は未遂に終わり、皇子劉弁が皇帝に即位した。