桓帝紀



孝桓皇帝は諱を志という。(※諡法に曰く。敵に勝ち遠方を服従させた
事を桓という。志の字は意志を表す。)粛宗(章帝)の曾孫である。
祖父は河間孝王の劉開、父は蠡吾侯の劉翼、母は[偃【左無】]氏(えんし)
である。(※順帝の時に劉開は上書して蠡吾県に劉翼を分封する事を願い、
帝はこれを許した。エン氏は諱を明という。元々は蠡吾侯の腰元であった。)
劉翼が死ぬと、帝は爵位を継いで侯となった。
本初元年(146)、梁太后は帝を召し寄せて夏門亭に到来させた。(※
夏門は洛陽城の北に面する西端の門である。門の外に万寿亭があった。)
太后がまさに帝に妹を娶せようとしていると、質帝が崩御するという
事態が発生した。
太后は遂に兄の大将軍の梁冀と禁中に策詔を定めた。
閏月庚寅に梁冀に節を持たせ、王の青蓋車で帝を迎えて南宮に入らせた。
(※続漢志に曰く。皇太子・皇子は皆、安車(一頭立ての車)・朱班輪
(朱の車輪)・青蓋・金華(金の花飾り)・蚤(爪の飾り)を用いる。)
その日に皇帝の位に即いた。時に年十五であった。
太后はなお臨朝した。(※東観記に曰く。太后は却非殿で政治を執った。)
秋七月乙卯に孝質皇帝を静陵に埋葬した。(※静陵は洛陽の東南三十里に
ある。陵の高さは五丈五尺。周囲は百三十八歩である。)
斉王劉喜が死去した。
辛巳に高廟・光武廟に参詣した。(殿本の考証は何[火卓]の説を引き、
光武廟の上には「壬午に」があったのはないかとする。)
丙戌に詔を下して言った。「孝廉・廉吏は皆まさに城を治めて民を養い、
悪を禁じて善を奨めるべきである。徳化の根本は常に必ずこれによるので
ある。詔書は頻りに下され、その内容は明かで真心のこもった物であった
が、どこも慣れ侮って結局それを実行するのを怠けていた。選挙(人材の
推薦)はその趣旨に背き、害は人民に及んでいる。近頃は規律を頗る厳しく
しているが、それでもなお改めない者がいる。今、淮夷は未だ滅びず、
軍隊が度々出動している。(※本初元年に廬江の賊が[目于]台(くい)を
攻め、広陵の賊の張晏らが江都県長を殺した。[目于]台・江都はともに
淮に近い。故に淮夷と言ったのである。時に中郎将の滕撫が度々これを
撃ち破ったが、残りの軍はまだ滅びていなかった。)人民は疲れ果て、
徴発に苦しんでいる。朕が望むのは、役人たちが疲れた我が民に恵みを
与え、貪欲さと汚れを除き清める事であり、それによって民の幸いを願う
のである。秩禄が百石に満ち、十歳以上で優れた才能や行いのある者には
(官吏に)推薦される資格を与えよ。賄賂を受け取った役人の子孫は推薦
の対象となる事を許さず、邪な偽りによる頼み事の源を塞ぎ止めよ。清廉
潔白で道義を守る者にその操を明らかにできるようにせよ。各々清廉に
職務に務めよ。この後の事を見守るであろう。」
九月戊戌に皇祖の河間孝王を追尊して孝穆皇帝と諡し、夫人の趙氏に孝穆
皇后と諡した。また、皇考(亡父)の蠡吾侯に孝崇皇帝と諡した。
冬十月甲午に皇母のエン氏を尊んで孝崇博園貴人とした。(※博は元は
漢の蠡吾県の地であった。帝が父を追尊して孝崇皇帝と諡した後、その
陵を博陵と名付け、園廟を置いていた。故に博園というのである。貴人
は位は皇后に次ぎ、金印を用い、紫綬を帯びる。)
建和元年(147)の春正月辛亥朔日に日食が起こった。
三公・九卿・校尉に詔を下し、各々得失を述べさせた。
戊午に天下に大赦を行った。役人に更労(交替で休みを取る事)一年を
賜り、男子には各々爵位を二級、父の後を継ぐ者者及び三老・孝悌・力田
には各々三級を賜り、寡夫・寡婦・孤児・身寄りの無い老人・重病人・
貧困で自ら生活できない者には各々粟五斛、貞婦には各々帛三匹を賜り、
災害によって(作物の)十分の四以上が被害を受けた者からは田租を
取り立てぬようにさせ、それに満たない者は実情を調べて田租を免除
した。
二月、荊・揚二州の人間が多数餓死したので、四府の掾を遣わして、各地
を回って金品を施させた。
沛国から[言焦]に黄龍が現れたという報告があった。
夏四月庚寅に京師に地震が起こった。
大将軍・公卿・校尉に詔を下し、賢良・方正、よく直言・極諫できる者
各々一人を推薦させた。
また、列侯・将・大夫・御史・謁者・千石・六百石・博士・議郎・郎官に
詔を下し、各々封事(意見書)を述べ、得失を指摘させた。(※将は五官
・左右・虎賁・羽林の中郎将を、大夫は光禄大夫・太中大夫・中散大夫・
諫議大夫をいう。博士は古今に通じる事を職務とし、秩禄は比六百石で
ある。郎官は三つの中郎将の下の属官(中郎・侍郎・郎中)をいう。)
また、大将軍・公卿・郡国に詔を下し、至孝・篤行の士各々一人を推薦
させた。
壬辰に州郡に詔を下し、長吏を脅迫して駆逐する事を禁じ、長吏で三十万
銭以上の賄賂を受け取り、罪に問われていない者がいれば、刺史・二千石
(太守)は放置の罪とし、勝手に仮の印綬を貸し借りする者があれば、
殺人と同じく(斬罪に処して)死体を棄市する事とした。
丙午に詔を下し、郡国で牢に繋がれている囚人の死罪一等を減じて
鞭打ちを免除した。ただ謀反・大逆の罪を犯した者にはこの詔書を適用
しなかった。
また詔を下して言った。「近頃、陵墓を起工したが、長期に渡り労役が
広く課せられており、労役を課せられた刑徒たちは特に苦しんでいる。
この頃は雨が降らず、密雲(厚く重なった雲)はまた散ってしまった。
もしかすると、これが原因かも知れない。刑徒の陵墓を作っている者は
各々刑六ヶ月を減ぜよ。」(※受刑者は静陵を作っていたのである。)
この月に阜陵王(阜陵は九江郡)の劉代の兄の勃遒亭侯(遒亭は[シ豕]郡
に属す。)の劉便を阜陵王とした。(※劉便は光武帝の玄孫で、阜陵王の
劉恢の子である。順帝が陽喜年間に勃遒亭侯に封じ、今封地を改めたので
ある。本伝(阜陵王質伝)は劉便親に作り、紀・伝は同一でない。どちら
かが誤りであろう。)
六つの郡国で地が裂け、水が涌いて井戸が溢れた。(※続漢志に曰く。
水が溢れて城の役所・家屋を破壊して人の命を奪った。時に梁太后が
摂政であったが、兄の梁冀が強引に李固・杜喬を殺したせいであろう。)
芝草が中黄蔵府に生えた。(※漢官儀に曰く。中黄蔵府は中央の銭・絹・
金銀・その他の財物を司る。)
太尉の胡広が辞職し、大司農の杜喬を太尉とした。(杜喬伝は、光禄勲
となり、建和元年に胡広に代わって太尉となったとする。袁宏の漢紀も
また光禄勲の杜喬が胡広に代わって太尉となったとする。)
秋七月に渤海王の劉鴻が死去した。(※劉鴻は章帝の曾孫で、楽安王の
劉寵の子である。質帝の父に当たり、梁太后が封地を勃海に改めたので
ある。)
(八月)乙未に皇后の梁氏を立てた。
九月丁卯に京師に地震が起こった。
太尉の杜喬を免官した。
冬十月に司徒の趙戒を太尉、司空の袁湯を司徒、前太尉の胡広を司空と
した。(※趙戒は字を志伯という。蜀郡の人である。)
十一月に済陰に己氏に五色の大鳥が現れたという報告があった。 (※
続漢志に曰く。時の人々はこれを鳳凰とした。政治は既に衰え崩れ、梁冀
が権力を専らにしており、禍に羽が生えたようであった。己氏県は済陰郡
に属す。)
戊午に天下の罪人の死罪一等を減じて辺境を守らせた。
清河の劉文が謀反を起こして国相の謝ロを殺し、清河王の劉蒜(りゅう
さん)を立てて天子としようとしたが、事が露見して誅に伏した。
(原本は謝ロを射ロとするが、清河王伝により改めた。)
劉蒜はそれに連座して尉氏侯に降格され、桂陽に流されて自殺した。
(※尉氏県は陳留郡に属す。)
前太尉の李固・杜喬が獄に下されて死んだ。(※続漢志に曰く。順帝の
末の京都(京師)の童謡に曰く。「弦(弓のつる)のように真っ直ぐな
者は道端に死に、鉤のように曲った者は却って侯に封じられた。」鉤の
ように曲った者というのは梁冀・胡広を指し、弦のように真っ直ぐな者
というのは李固らを指す。)
陳留の盗賊の李堅が自ら皇帝を称して誅に伏した。(※東観記に曰く。
(誅殺されたのは)江舎及び李堅である。)
二年(148)、春正月甲子に帝は元服を加えた。(李慈銘は通鑑目録
により甲子は朔日であるとし、甲子の下に朔の字が抜けているのでは
ないかとする。)
庚子に天下に大赦を行った。
河間・勃海の二王にそれぞれ黄金百斤を賜り、彭城王を初めとする諸国
の王には各々五十斤を賜った。(※河間王は劉建、勃海王は劉[小里]、
彭城王は劉定である。)
公主・大将軍・三公・特進・公・中二千石・二千石・将・大夫・郎・吏・
従官・四姓(樊氏・郭氏・陰氏・馬氏)及び梁氏・ケ氏の小侯・大夫以下
に各々差のある絹を賜った。年が八十以上の者には米・酒・肉を賜り、
九十以上の者にはさらに絹二匹・綿三斤を加えた。
三月戊辰に帝は皇太后に従い、大将軍の梁冀の府に幸した。
白馬の羌が広漢属国に侵入して長吏を殺した。益州刺史が板楯の蛮族を
率いてこれを討って破った。(※板楯は西南の蛮族の呼び名である。)
夏四月丙子に帝の弟の劉碩を平原王とした。(原本は劉顧に作る。河間王
開伝は帝の兄の都郷侯の劉碩とし、孝崇エン王后紀は帝の弟の平原王石と
する。校補は侯康の説を引き、劉顧は劉碩とするのが正しく、劉顧は形が
近い事による誤りであり、劉石は音が近い事による誤りであるとし、帝の
弟とするのが正しく、桓帝は蠡吾侯の長子で兄がいるはずが無いとする。)
孝崇皇帝(劉翼)を祀り、孝崇皇夫人の馬氏を貴んで孝崇園貴人とした。
大司農の帑藏(金蔵)に嘉禾(立派な稲穂)が生えた。(※説文に曰く。
帑は金・布を蓄える役所である。)
五月癸丑に北宮の掖廷(正殿の脇にある御殿)の中の徳陽殿及び左の掖門
(正門の脇の小門)で火災が起こった。帝は車に乗って避難し、南宮に
幸した。
六月に清河を改めて甘陵とし、安平王の劉得の子の経侯の劉理を立てて
甘陵王とした。
秋七月に京師に大水が発生した。
河東から木々の枝が繋がっているという報告があった。
冬十月に長平(汝南郡)の陳景が自ら黄帝の子と称して官を設置した。
また南頓(汝南郡)の管伯もまた真人と称してともに挙兵を図ったが、
それぞれ誅に伏した。
三年(149)の春三月甲申に彭城王の劉定が死去した。
夏四月丁卯晦日に日食が起こった。(※続漢志に曰く。日食は東井(星の
名)の二十三度の方角で起こった。東井は法を司る星である。梁太后が法
を曲げて公卿を殺し、天の法を犯した為である。)
五月乙亥に詔を下して言った。「そもそも天は多くの民を生んだが、互い
にうまくやって行く事ができなかった為、君を立ててこれを治めさせた。
君道(君の守る道)が下の心と一致すれば幸いは上においても明かとなり、
諸事がその秩序を失った時は咎徴(災いの徴)が形となって現れると聞く。
(※以上はほぼ成帝の詔の言葉である。)この頃は日食により陽光が損な
われ、世は暗くなった。朕はまさに懼れ、深く思い悩んで心が落ち着く
暇も無い。伝にも『日食には徳を修め、月食には刑を修めよ。』という
ではないか。(※公羊伝の文である。(集解は蘇輿の説を引き、公羊伝
にこの文は無く、管子の文であるとする。)昔、孝章皇帝は前世の
禁徙(投獄された者と流刑に処された)者を憐れまれた。故に建初の初
に恩沢を施し、流刑者は元の郡に帰らせ、財産を没収され奴隷に落とさ
れた者は労役を免じて庶民としたのである。朕は先帝の徳政に努めないで
いられようか。永建元年より今年まで、諸々の悪事を行った者の親族で
連座した者及び吏民の死罪を減じて辺境に流刑とされた者は悉く本郡に
帰すように。ただ財産を没収され奴隷とされた者はこの命令には該当
しない。」
六月庚子に大将軍・三公・特進・侯に詔を下し、卿・校尉とともに賢良・
方正、よく直言・極諫できる者各々一人を推薦させた。
乙卯に憲陵(順帝の陵)の廟の建物が震動した。
秋七月庚申に廉県に肉が降った。(※続漢志に曰く。肉は羊の肺に似て、
ある物は手くらいの大きさがあった。五行伝によれば、法律を棄て、功臣
を逐った時は羊の禍があり、同時に赤<生目>赤祥(火気に関する凶兆)
があるという。当時、梁太后が摂政となり、兄の梁冀が専権を振るい、
強引に李固・杜喬を殺した。天下はこれを冤罪とした。廉県は北地郡に
属す。)
八月乙丑に天市に彗星が流れた。(※前書に曰く。旗星の中の四星を
名付けて天市という。)
京師に大水が発生した。
九月乙卯に地震が起こった。
庚寅にまた地震が起こった。
詔を下し、死罪以下の罪人及び逃亡者に各々差のある銭で罪を贖わせた。
五つの郡国で山崩れが起こった。
冬十月に太尉の趙戒を免官した。司徒の袁湯を太尉、大司農の河内の
張[音欠]を司徒とした。(※張[音欠]は字を敬譲という。)
十一月甲申に詔を下して言った。「朕は政治を執りながら道に外れ、災い
が頻りに起こって三光(日月星)は明らかでなく陰陽は乱れている。寝る
に寝られず、目覚めてはため息を吐き、頭を病んでいるかのようである。
今、京師の廝舎(身分の低い使用人の住居)には死者が互いに重なり
合っているが、千百に上る郡県の至る所にこのような光景が見られる。
これは周が文徳により野ざらしの屍を無くした義に甚だ背く物である。
家の者がいても貧しくて葬儀を行う事ができない場合は、ただちに一人に
つき三千銭、喪主に布三匹を与えよ。もし親族がいなければ、官の余りの
地に埋葬する事を許し、姓名を表記して祠祭を設けよ。また労役刑に
処された者の作部(土木・建設の部署)にある者で病に罹った者は医薬を
与え、死亡した者は厚く埋葬せよ。民で自ら生計を立てられない者及び
流民には定めに従って穀物を支給せよ。州郡の検察を行う者は努めて恩
による施しを心掛け、我が民を安んじよ。」