順帝紀



孝順皇帝は諱を保という。(※謚法に曰く。慈和遍服(慈しみ和らぎ、
遍く服す。)を順という。 伏侯の古今注に曰く。保の字は守るという
意味である。)安帝の子である。母の李氏は閻皇后の為に殺された。
永寧元年(120)、皇太子に立てられた。
延光三年(124)、安帝の乳母の王聖・大長秋の江京・中常侍の樊豊ら
が太子の乳母の王男・廚監(厨房長)の[丙おおざと]吉(へいきつ)を
讒言して死に追いやると、太子は度々その為に嘆いてため息を吐いた。
(※前書に曰く。長秋は皇后の官である。元は秦の官の将行であり、景帝
が名を大長秋と改めた。ある時は中人(宦官)を用い、ある時は士人を
用いる。秩禄は二千石である。 中興より常に宦者を用いた。)
王聖らは後難を懼れ、遂に樊豊・江京とともに言い掛かりを付け、太子
を陥れた。太子は罪に問われ、廃されて済陰王とされた。
翌年三月、安帝が崩御すると、北郷侯が立てられたが、済陰王は廃嫡されて
いた事から、昇殿して自身で梓宮(天子の棺)に臨む事を許されず、悲しみ
嘆いて食事を摂らず、内外の諸官でこれを哀れに思わぬ者は無かった。
北郷侯が死去すると、車騎将軍の閻顕及び江京は、中常侍の劉安・陳達
らと太后に、喪を秘して発せず、改めて諸国の王子を召し寄せるように
建白し、宮門を閉ざして兵を駐屯させ、自ら身を守った。
十一月丁巳、京師及び十六の郡国で地震が起こった。
この夜、中黄門の孫程ら十九人が協力して江京・劉安・陳達らを斬り、
徳陽殿の西鍾の下に済陰王を迎え、皇帝の位に即けた。(※十九人は
孫程伝に見える。 漢官儀に曰く。崇賢門内に徳陽殿がある。)
(帝は)年十一であった。
近臣・尚書以下は輦(御車)に従って南宮に到った。
(帝は)雲台に登り、百官を召集した。尚書令の劉光らは上奏して言った。
「孝安皇帝は聖徳があり、明哲で優れた御性質であられましたが、早くに
天下を棄てられました。陛下は正嫡であり、まさに宗廟を奉じるべきで
ございましたが、姦臣がともが言い掛かりを付け、遂に陛下を藩国に龍潜
(天子となるべき人間が位に即かずにいる事)させ、群臣は遠近ともに
失望せぬ者はございませんでした。(※(帝は)太子から廃されて王と
なった。故に藩国に龍潜したというのである。)天命は不変であり、
北郷侯は長く生きされませんでしたが、漢の徳は盛明であり、福祚(幸い)
は甚だ明らかでございます。近臣は策を建て、左右は扶翼し、内外は心を
同じくし、神明(人の心)を和合させております。陛下は践祚され、鴻緒
(国家統治の大業)を奉じて郊廟の主となり、祖宗の無窮の功を受け
継がれ、上はまさに天の心に合い、下は民の望みに適っておられます。
しかし、即位の慌ただしさから、典章(制度文物)は多くを欠いており
ます。願わくば、礼儀を整え調べ、分別して具に上奏したいと存じます。」
(帝は)制詔を下して許可した。
公卿・百官を召し、虎賁・羽林の士を南・北宮の諸門に駐屯させた。
(※漢官儀に曰く。書は『虎賁三百人』と称している。その意味は
猛々しく怒り、虎の如くに奔走するという事である。孝武帝の建元三年
(BC138)に初めて期門(帝の前後を守る近衛兵)を置き、平帝の
元始元年(AD1)に名を虎賁郎と改めた。また曰く。武帝の太初元年
(BC104)に初めて建章営騎(近衛兵)を置き、後に名を羽林と
改めた。天に羽林の星がある事から、それを取って名付けたのである。
また、従軍して戦死した兵士の子孫を養って羽林官とし、五兵(五種の
武器。諸説ある。)を教え、羽林孤児と名付けた。光武帝の中興の時、
征伐の兵士で労苦した者をこれに任じた。故に羽林士というのである。)
閻顕兄弟は帝が擁立されたと聞き、兵を率いて北宮に入り、尚書の郭鎮
と刃を交え、(郭鎮は)遂に閻顕の弟の衛尉の閻景を斬った。
戊午に使者を遣わして宮殿に入らせ、璽綬を奪い取って手に入れた。
嘉徳殿に幸すると、侍御史を遣わし、節を持って閻顕及びその弟の城門
校尉の閻耀・執金吾の閻晏を捕らえさせ、ともに獄に下して誅殺した。
己未に門を開いて兵の駐留を止めた。
壬戌に司隸校尉に詔を下して言った。「閻顕・江京の近親は当然誅に伏す
べきであるが、その他の者は努めて刑罰を緩くする事を優先せよ。」
壬申に高廟に謁した。
癸酉に光武廟に謁した。
乙亥に益州刺史に詔を下し、子午道を廃止し、褒斜路を開通させた。
(※子午道は平帝の時に王莽が開通した道である。三秦記に曰く。子午
とは長安の正南という事である。山の名を秦領谷といい、一名を樊川と
いう。褒斜は漢中の谷の名である。南谷の名を褒、北谷の名を斜という。
全長七百里である。)
己卯に少帝を諸王の礼によって葬った。司空の劉授を免官した。(※
東観記に曰く。悪逆な人間に迎合し、人物でない者を召し寄せた事を
理由に、策詔により罷免された。)
公卿以下に各々差のある銭・穀物を賜った。
十二月甲申、少府の河南の陶敦を司空とした。(※陶敦は字を文理と
いう。京県の人である。)
郡国の太守・国相の政治を行って一年に満たない者に、全て孝廉の吏を
推薦する事を許した。(※漢の法では、政治を行って一年が満了して
初めて推薦を許した。今、帝が新たに即位したので、恩恵を施し、一年
に満たない者にも人物の推薦を許したのである。)
癸卯に尚書は上奏を行い、有司に命令を下し、延光三年(124)九月
丁酉の皇太子を済陰王とする詔書を回収して返還させるように願い出、
上奏は許可された。
京師に疫病が大流行した。
辛亥に公卿・郡太守・国相に詔を下し、賢良・方正、よく直言・極諫
できる者各々一人を推薦させた。
尚書令以下で輦が南宮に幸すのに従った者は皆、秩禄を増やされ、各々
差のある布を賜った。