荀爽伝



荀爽は字を慈明という。一名を[言胥](しょ)といった。幼い頃から学問を
好み、年十二でよく春秋・論語に通じていた。
太尉の杜喬は荀爽を見て「人の師となる事ができよう。」と称えた。
荀爽は終始経書に没頭し、祝い事や弔問にも赴かず、召しにも応じなかった。
潁川の人々はこの為に「荀氏の八龍の中で慈明に並ぶ者は無い。」と語り
合った。 
延熹九年(166)太常の趙典が荀爽を至孝に挙げ、郎中に任命された。
その対策(試験に対する解答)として適宜の策を述べて言った。「臣は、
師から『漢は火徳であり、火は木に生じ、木が火によって盛んになるのは、
その徳が孝であるからであり、その象は周易の離の卦にある。』と聞いて
おります。(※火は木の子である。夏は火の位にある。木は夏になると
盛んに生い茂る。故に火は木に孝なのである。)そもそも(離の卦は)地
に在っては火、天に在っては日でございます。(※易の離の卦に曰く。離
は火であり、日である。)天に在る者はその精(陽の気)を用い、地に在る
者はその形を用います。夏は火徳が盛んとなり、その精は天に在り、温暖
の気が百木を養います。これは孝でございます。冬の時には弱まり、その
形は地に在り、酷烈の気が山林を焼きます。これは不孝でございます。故
に漢の制度では天下に孝経を読誦させ、吏を選んで孝廉に挙げるのでござい
ます。(※平帝の時、王莽は書八篇を作って子孫を戒め、学官に教授させ、
役人でよく書を読誦する者は孝経に親しんだ。)そもそも親の喪に哀を
尽くす事が最高の孝でございます。今、公卿及び二千石は(親の)三年の
喪の為に直ちに職を去る事は許されておりませんが、それは実に孝を尊ぶ
道を増し、火徳に適う物ではございません。昔、孝文皇帝は労謙(骨折り
努めて遜る事)され、行いは倹約過ぎる程でございました。(※易の謙の
卦の九三の爻に曰く。労謙する君子は終りを良くする。吉である。)故に
遺詔により(服喪に)日を以て月に代えられたのでございます。これは
当時そのようにすべきであったからであり、万世にこれを貫くべき物では
ございません。古今の制度は変更されて参りましたが、諒闇(天子が喪に
服する期間)の礼は未だ改められず、天下にその親を忘れぬ事を示して
おります。今、公卿・群寮は皆政治による教化を行い、民に仰ぎ見られて
おりますが、父母の喪に駆けつける事は許されておりません。そもそも
仁義の行いは上より始め、敦厚の俗は下がそれに応じる物でございます。
伝に『喪祭の礼が欠ければ人臣の恩は薄くなり、死に背を向け生を忘れる
者が多くなる。』と申します。また、曾子は『人はなかなか自らの心を
尽くす事が無い。あるとしたら親の喪であろう。』と言っております。
(※この事は論語に見える。)春秋の伝にも『上の為す所に民は帰す。』
とございます。(※左伝の臧武仲の言葉である。襄・二十一)通常、上
の為さぬ所を民が為す事がある為に刑罰を加えます。もし、上の為す所
ならば、民もまたこれを為します。どうしてこれに誅罰を加える事が
できるでしょうか。昔、丞相の[擢(左無)]方進(てきほうしん)は宰相
の位に在り、敢えて制度を越えず、母が死ぬと三十六日で喪を終えました。
(※前書に曰く。テキ方進は丞相であったが、後母が死ぬと服喪三十六日
で身を起こして政務を執り行い、『敢えて国制を越えず。』と言った。)
そもそも礼を失う源は上から始まります。昔は大喪(親の喪)の三年間は
その門に声を掛けませんでした。(※公羊伝の文である。宣・元 何休の
注に曰く。孝子の恩を奪うのを憚る為である。)これは国の徳を高め、
世俗の礼を厚くして教化を篤くする為の道でございます。事が乱れたなら
正すべきであり、過ちは改める事を憚ってはなりません。天下の一般の喪
は旧礼の如くにすべきでございます。(※礼記に曰く。三年の喪は天下の
通喪である。)臣はまた、夫婦があってその後に父子があり、父子があって
その後に君臣があり、君臣があってその後に上下があり、上下があって
その後に礼義があると聞いております。礼義が備わって初めて人は心を
磨く事を知ります。(※この言葉は易の序卦に見える。)夫婦は人倫の
始まりであり、王化の大本でございます。故に文王は易を作り、上経に
乾・坤を首とし、下経に咸・恒を首としたのでございます。(※易は乾
・坤から離に至るまでが上経、咸・恒から未済に至るまでが下経である。)
孔子は『天は尊く地は卑しく、乾坤は定る。』と言っております。(※易
の繋辞の言葉である。)夫婦の道は所謂順でございます。堯典に『二女を
[女為][シ内](ぎぜい=舜の居所)に釐降(りこう=支度を整えて臣下に
皇女を嫁がせる事)させ、虞(舜)の嬪とした。』と申します。降は下す
事、嬪は夫人でございます。これは、帝堯の娘と雖も虞に降嫁したなら、
礼を屈して謙り努めて妻としての道を修めたという事でございます。易
にも『帝乙は妹を帰す。幸いを以てす。元吉である。』と申します。(※
易の泰の卦の六五の爻の言葉である。王輔嗣(王弼)の注に曰く。婦人が
嫁ぐ事を帰という。泰は陰陽が交わり通じる時であり、女が尊い位にあり、
中道を行って道に従い、身を低くして次位に甘んじるのである。帝乙が妹
を嫁がせたのは実にその義に合っている。 史記を調べると、紂の父の名
は帝乙であるが、この文は帝乙を湯としている。湯の名は天乙である。)
婦人が嫁ぐ事を帰といい、湯は娶礼を以てその妹を諸侯に嫁がせたという
事でございます。春秋の義においては、周王の姫が斉に嫁す時、魯を主人
役として、天子の尊さを諸侯に加えませんでした。(※公羊伝に曰く。夏
の単伯は王姫を迎えた。単伯とは何者か。我が国(魯)の大夫で、天子に
命を受けた者である。何故迎えさせたと言わないのか。天子が召してこれ
を迎えさせたからである。迎えたとはどういう事か。我が国に主人役を
させたのである。どうして我が国に主人役をさせたのか。天子が諸侯に娘
を嫁がせる場合には、必ず同姓の諸侯を主人役とするのである。荘・元 
何休の注に曰く。自ら主人とならないのは身分が釣り合わないからである。)