伏湛伝



伏湛は字を恵公という。琅邪東武の人である。九世の祖の伏勝は字を子賤
という。所謂済南の伏生(秦の博士。漢の時代に今文尚書を伝えた。)
である。
伏湛の高祖父の伏孺は武帝の時に東武に赴いて学問を教授し、それにより
(東武に)居住した。父の伏理は当世の名儒であり、詩を以て成帝に授け、
高密の太傅となり、別に自ら学に名を付けた。(※太傅は高密王の劉ェの
傅である。劉ェは武帝の玄孫の広陵王の劉胥の後裔である。前書の儒林伝
に曰く。伏理は字を君游という。(集解は恵棟の説を引き、前書は
[游【左無】]君に作るとする。)匡衡に詩を教授され、これにより斉詩
には匡伏の学が生まれた。故に別に自ら学に名を付けたというのである。)
伏湛は父母によく仕え、兄弟によく親しみ、若くして父の学業を伝え、
数百人に教授した。
成帝の時、父の職により博士の弟子となった。
五度職を移り、王莽の時に繍衣執法となり、大悪人を取り締まらせ、
後隊の属正に職を移った。(※武帝は繍衣御史を置き、王莽は御史を
改めて執法とした。故に繍衣執法というのである。王莽は河内を後隊
と改称した。)
更始帝が立つと、(伏湛を)平原太守とした。時に慌ただしく兵乱が
起こり、天下は驚き乱れたが、伏湛は一人平然とし、教授が行われぬ
事は無かった。
(伏湛は)妻子に「一体、一穀が実らなければ、国の君は食膳を取り
下げるものだ。(※礼記に曰く。穀物が実らなければ、君の膳に肺を
祭らない。)今、民は皆餓えており、どうして私一人腹一杯食べられ
ようか。」と言い、ともに粗米を食べ、悉く俸禄を分かって郷里の人々
に施し、他の土地から身を寄せる者は百余家に上った。(※九章算術
に曰く。粟五十に対し、糲はおよそ三十である。一斛の粟で六斗の糲
を得る。)
時に門下督は普段から気力があり、伏湛の為に兵を起こそうと謀った
が、伏湛は彼が民を惑わす事を憎み、即座に捕らえて斬り、首を城郭
を巡って人々に示し、ここにおいて吏民は(伏湛を)信服し、郡内は
平穏となった。
平原一帯は伏湛が保全したのであった。
光武帝は即位すると、伏湛が名儒・旧臣である事を知り、朝廷の官職を
主任させようとし、召し寄せて尚書に任命し、旧制を司り定めさせた。
時に大司徒のケ禹は関中に西征しており、帝は伏湛の才が宰相の任に
堪えると考え、司直に任命し、大司徒の事務を代行させた。
車駕は征伐に出る度に常に留守を守り、諸官を統率した。
建武三年、遂にケ禹に代わって大司徒となり、陽都侯に封じられた。
(※陽都県は城陽国に属す。)
時に彭寵が漁陽に反乱を起こし、帝は自らこれを征討しようとした。
伏湛は上疏して諫めて言った。「臣は、文王は命を受けて五国を征伐
した際、必ず先にこれを同姓に相談し、その後に群臣に諮り、さらに
蓍亀(めどぎと亀の甲羅)により占い、そうして行事を定め、故に
謀り事は上手く行き、占えば吉と出、戦えば勝利したと聞いております。
(※五国は西伯(文王)が命を受けて伐った犬夷・密須・耆・[于おおざと]
・崇である。この事は史記に見える。書に曰く。謀は卿士に及び、謀は
卜筮に及ぶ。また曰く。文王は卜を用い、よく安んじてこの命を受けた。)
その詩に『帝は文王に言った。汝の友邦に諮り、汝の兄弟と力を合わせ、
汝の鉤援(鉤梯子)を以て、汝の臨衝(臨車(雲梯)と衝車)とともに、
崇の城を伐て。』と申します。(※詩の大雅の言葉である。崇侯は紂を
唆して無道を行わせ、故にこれを伐ったのである。)崇の国城が守りを
固めますと、先に退いて後に伐ちましたが、これは人命を重んじた所以
であり、時を待って後に動き、故に天下を三分してその二を有するよう
になったのでございます。(※左氏伝に曰く。文王は崇の徳の乱れて
いる事を聞いてこれを伐ち、軍は三十日しても降伏しなかった。退いて
政治を修め、またこれを伐つと、古い砦をそのまま用いただけで降伏
した。僖・十九)陛下は大乱の極みを受け、命を受けて帝となられ、
祖宗を再興して明らかにし、出入りする事四年、檀郷を滅ぼし、五校を
制し、銅馬を降し、赤眉を破り、ケ奉の輩を誅し、功をお立てにならぬ
事がございませんでした。(檀郷・五校・銅馬・赤眉は反乱軍の名)
今、京師は財が乏しく、物資は不足し、未だよく近くの者を服従させる
事ができないのに、先に辺外の事を目標とされております。また、漁陽
の地は北狄に非常に近く、黠虜(悪賢い敵)は切羽詰まれば、必ずその
助けを求めます。また、今通過した県邑は最も窮乏しております。麦を
植える家は多くが城郭に在り、官兵が来たと聞けば、必ずこれを先に
刈り入れる事でしょう。大軍が遠く二千余里を行けば、兵馬は疲労し、
兵糧の輸送は難渋致します。今、<亠兌>・豫・青・冀州は中国の枢要
の地ですが、寇賊が好き放題に暴れ回り、未だ教化に従うに至っており
ません。漁陽以東は本来辺塞として敵に備えておりましたが、地は外部
の夷に接し、貢物と税は僅かであり、平和な時でもなお内郡に頼って
おり、まして今は荒れ果てており、どうして先に(征圧を)図るに足る
でしょうか。それなのに、陛下は近きを捨て遠きに努め、易きを捨て
難きを求め、四方は疑い怪しみ、人民は恐懼しておりますが、これは
実に臣の惑う所でございます。また、願わくば遠くは文王の兵を重ん
じて広く諮った事を御覧になり、近くは征伐の前後の宜しきをお考えに
なり、有司に下問して愚誠を尽くさせ、その優れた所を採り、これを
聖慮に選び入れ、中土(中華の地)を憂え思われません事を。」
帝はその上奏を見て、遂に親征を止めた。
時に賊の徐異卿ら一万余人が富平に拠っていたが、続けてこれを攻め
たが下す事ができなかった。(※徐異卿は獲索の賊帥の徐少の事である。
(集解は恵棟の説を引き、獲索は富平に作るべきであるとする。)富平
県は平原郡に属す。)
賊はただ「願わくば、司徒の伏公に降伏したい。」とだけ言った。
帝は伏湛が青・徐州の人々の信望が厚い事を知り、(伏湛を)遣して
平原に行かせると、徐異卿らはその日のうちに投降し、洛陽に護送した。
(李慈銘は、光武帝紀には呉漢らは富平・獲索の賊を平原に撃ち、大い
にこれを破って降伏させたとあり、伏湛の事を言わないのは、おそらく
時に賊は既に降伏を請い、特に伏湛を遣わし、これを受けいれさせた
だけであり、この事は五年(29)の二月であるとする。)
伏湛は戦乱の慌ただしい最中にも必ず文徳に従って行動し、礼楽は政化
の第一であると考え、咄嗟の時にもなお違えてはならないと考えていた。
この年、郷飲酒の礼(周代、郷大夫が開く君主に推薦された人物の送別
の宴。または郷大夫が村人を集め、賢者を尊び老人を養う儀式を行う
酒盛り。)を行う事を上奏し、遂に施行された。
その冬、車駕は張歩を征討し、伏湛を留守居とした。
時に高廟に蒸祭を行い、河南尹・司隸校尉が廟内で争論したが、伏湛は
弾劾せず、連座して策詔により免官された。(※冬の祭りを蒸という。)
六年(30)(帝は)不其侯に移封し、食邑を三千六百戸とし、遣わ
して封国に赴かせた。(※不其県は琅邪郡に属す。)
後に南陽太守の杜詩が上疏して伏湛を推薦して言った。「臣は唐虞(堯・
舜)は股肱により安泰であり、文王は多士により安寧であり、これ故に
詩は『済済』と称え、書は『良きかな。』と言っているのでございます。
(※大雅の詩に『済済たる多士。』と言い、尚書に『股肱良きかな。』
と言う。)臣詩が密かに見ますに、元大司徒の陽都侯伏湛は束脩(男子
の服装を整える事。年十五をいう。)を行って以来、終ぞ過失を犯さず、
篤く道を信じて学問を好み、一命を捨て善道を守り、経は人の師となり、
行いは人の手本となりました。前に河内の朝歌に在り、また平原に居り
ましたが、吏民は彼を畏愛し、則って(その行いに)倣いました。(※
王莽は河内を改めて後隊とした。伏湛が後隊属正であった事をいう。)
時の反覆に遭い、兵難が身近に迫っても、節を守って身を堅く持し、
奪う事のできぬ志がございました。陛下は深くその能力をお知りになり、
宰相の重任を以て顕かにされ、群賢・人民は徳義を仰ぎ敬っておりました。
僅かな過ちにより退けられ、久しく用いられず、識者の惜しむ所となり、
儒士は心を痛め、臣は密かにこれを傷んでおります。伏湛は容貌は堂々
とし、国の光輝であり、智略謀慮は朝廷の淵藪(宝庫)でございます。
髫髮(ちょうはつ=幼年)より志を磨き、白首(老年)に至っても
衰えておりません。(※[土卑]蒼に曰く。髫は髦(垂れ髪)である。
髫髮は童子の垂髮をいう。)実は王室を相導くに足り、名は遠方の人間
に明示するに十分でございます。古は諸侯より選び抜いて公卿とし、
これ故に四方は首を回し、京師を仰ぎ敬ったのでございます。(※左伝
に曰く。鄭の武公・荘公は平王の卿士である。隠・三 東観記に曰く。
杜詩は上書し、『武公・荘公が蕃屏を研ぎ磨いた所以は、忠信を勧め、
四方の諸侯に皆楽しんで首を回して京師を仰ぎ敬わせる為でござい
ます。』と言った。)柱石の臣は輔弼の職に居り、禁門(宮門)に
出入りし、欠を補い拾遺(君主の言行の不完全な所を探し出して諫める
事)すべきでございます。(※柱石は棟梁(棟木)を受ける物である。
前書に曰く。田延年は『将軍は国家の柱石である。』と言った。
尚書大伝に曰く。古は天子には必ず四隣(四人の補佐役)があり、前
を疑、後を承、左を輔、右を弼という。天子から質問があり答える事
が無ければ、これを疑に責め、記すべき事を記さなければ、これを承
に責め、正すべき事を正さなければ、これを輔に責め、揚げるべき事
を揚げなければ、これを弼に責める。)臣詩は愚かにして、宰相の才
を知るには十分ではございませんが、密かに区々たる(一途な)思い
を懐き、敢えて自ら尽くさずにおられましょうか。臣は前に侍御史と
なり、封事(意見書)を奉りましたが、伏湛は公正かつ清廉で下の者
を愛し、好悪は明かで、累世儒学を修め、素より名信を持し、経に
明らかに行いは修まり、国政に通達し、最も近侍して左右に納言
(天子に言葉を取り次ぐ事)するべきであり、旧制では九州には五人
の尚書を置く事とされており、今一郡に二人の尚書がおり、伏湛に
代えるべきであると申しましたが、頗る執事(担当)の者の謗る所と
なりました。(※おそらく旧制では九州がともに五人を選んで尚書に
任じていた。当時、一郡から二人が選ばれており、故に伏湛をその一人
に交代させようとしたのである。)ただ、臣詩は恩を蒙る事深く厚く、
申し上げる所に実際に国に対して益があれば、死すとも恨む事は無く、
故にまた職務を越え、罪を犯して奏聞致すのでございます。」
十三年(37)の夏、(帝は伏湛を)召し寄せ、尚書に命じて官吏の
任命の日を選ばせた。
未だ位に就かぬうち、讌見(天子の暇な折に目通りする事)の際に暑気
に中たり、病により死んだ。
秘器を賜り、帝自ら弔い祀り、使者を遣わして棺を送り墓を作らせた。
二子があり、伏隆、伏翕(ふくきゅう)といった。
伏翕は爵位を継いだ。
伏翕が死ぬと、子の伏光が後を継いだ。
伏光が死ぬと、子の伏晨が後を継いだ。(※東観記に曰く。伏晨は高平
公主を娶った。)
伏晨は謙虚で身を慎み博く人を愛し、学問を好む事最も篤く、孫娘を順帝
の貴人とし、朝請(諸侯の天子への目通りの儀式)を奉じ、位は特進と
された。
死ぬと、子の伏無忌が後を継ぎ、また家学を伝え、博物多識であった。
順帝の時、侍中・屯騎校尉となった。
永和元年(136)(帝は)伏無忌と議郎の黄景に詔を下し、中書の
五経・諸子百家・芸術の書を校定させた。(※中書は内中(後宮)の
書である。芸文志に曰く。諸子は合わせて百八十九家である。 百家
というのは、その凡その数を挙げたのである。芸は書・数・射・御を
いい、術は医・方・卜・筮をいう。)
元嘉年間、桓帝はまた伏無忌と黄景・崔寔らに詔を下し、ともに漢記を
撰集させた。
また、自ら古今の事柄を採集し、重要な事柄のみを選定し、伏侯注と
名付けた。(※その書は、上は黄帝より始まり、下は漢の質帝までで
終わる。全部で八巻あり、今(唐代)も読まれている。)
伏無忌が死ぬと、子の伏質が後を継ぎ、官は大司農に至った。
伏質が死ぬと、子の伏完が後を継ぎ、桓帝の娘の陽安長公主を娶った。
娘は孝献皇后となった。曹操は皇后を殺すと、伏氏を誅殺し、国は
除かれた。
初め、伏生より後、代々経学を伝え、無欲かつ安静で人と競い合う事も
無く、故に東州は名付けて伏不鬥と言ったという。

後漢書巻五十六 列伝四十六