伏皇后紀



献帝の伏皇后は諱を寿という。瑯邪東武の人で、大司徒の伏湛の八世の孫
である。
父の伏完は落ち着いた思慮深い人柄で大きな度量があり、不其侯の爵位を
継ぎ、桓帝の娘の陽安公主を娶り、侍中となった。(※不其県は瑯邪郡に、
陽安県は汝南郡に属す。(陽安公主は順帝の長女で、名を華という。
記述には相違がある。桓帝の養女であろうか。)
初平元年(190)、天子が西の長安に遷るのに従った。この時、伏氏は
後宮に入って貴人となった。
興平二年(195)に皇后に立てられた。
伏完は執金吾に職を移った。
帝はそれから間もなく東に帰ろうとしたが、李[イ寉]・郭がその後を
追って、一行を曹陽に破った。
そこで、帝は密かに夜中に黄河を渡って逃げた。(※水経にいう銅翁仲
の沈んだ所が、献帝が東遷の際に渡河した場所である。)
六宮(皇后)らは皆、徒歩で陣営を出た。(※周礼に曰く。王后は六宮の
人間を率いる。鄭玄の注に曰く。六宮の人間とは、夫人以下の皇后の六宮
に分居する者たちの事である。)
皇后は手に絹数匹を持っていたが、董承は符節令(割符を司る官。少府に
属す。)の孫徽に命じて刀で脅してこれを奪わせた。(御覧の引く華[山喬]
の後漢書は徽を微に作り、袁宏の漢紀は孫儼に作る。)
孫徽は皇后の側にいた侍女を殺し、その血が皇后の衣に飛び散った。
安邑に到着した時には、皇后の御服は穴が開いてぼろぼろになっており、
棗・粟しか食べる物が無かった。
建安元年(196)、帝は伏完を輔国将軍・儀同三司とした。
伏完は曹操に政権がある事から、自分が帝の縁戚の地位にいる事を疎んじ、
印綬を返上して中散大夫に任命され、やがて屯騎校尉に職を移った。
伏完は建安十四年(209)に死去し、子の伏典が後を継いだ。
帝は許に都を置いてから、ただ位を守るだけであった。
宿衛の兵や侍者で、曹氏の古馴染みや姻戚でない者は無かった。
議郎の趙彦はかつて帝の為に処世の策を進言したが、曹操はこれを憎んで
趙彦を殺した。その他にも朝廷の内外で多くの者が誅殺された。
後に曹操が用事で宮殿に入って帝に見えた時、帝はその憤りを抑えられず
に言った。「貴公がもし朕をよく補佐するつもりなら大切にして欲しい。
もしそうでないのなら情けを掛けて朕を退位させて欲しい。」
曹操はこれを聞いて顔色を失い、跪いて帝を仰ぎ見て退出を求めた。
古いしきたりでは、三公が兵を率いて天子に見える場合は、虎賁に刀を
持たせて間に挟ませる事となっていたのである。
曹操は退出して左右を振り返ったが、汗が着物の背ににじんでいた。
これより後、曹操は敢えてまた帝に見えようとしなかった。
帝はまた董承の娘を望んで貴人としていた。
曹操が董承を誅殺した際、貴人の身柄を要求してこれを殺そうとした。
帝は貴人が身籠もっている事を理由に、何度も許しを請うたが、助ける事
はできなかった。
伏皇后はこれより懼れを抱き、父の伏完に手紙を書いて、曹操の残忍な
脅迫の様を伝え、密かに曹操を除く事を図らせようとしたが、伏完は
敢えて事を起こそうとしなかった。
十九年(214)、その事が露見した。曹操は大いに怒り、帝に迫って
皇后を廃し、仮に策詔を作って言った。「皇后の伏寿は卑賤の身から最も
尊い身分に登り、椒房(皇后の宮)にある事二十年に渡っている。(※
漢官儀に曰く。皇后の宮を椒房というのは壁に山椒の実を埋めた事から
取られている。)しかし、任・[女以]の徽音(立派な教え)・美徳も無く、
身を慎み己を修める福徳も無く、密かに嫉妬を抱き、悪事を企んでいた。
(※大任は文王の母、大[女以]は武王の母である。)これでは天命を承り、
祖宗を奉じる事はできない。今、御史大夫の[希おおざと]慮(ちりょ)に
節を持たせ、策詔により皇后の璽綬を返上させた上、中宮を退去させ、
他の館に移す。(※蔡<巛邑>の獨断に曰く。皇后は赤綬・玉璽を帯びる。
続漢志に曰く。天子は黄赤の綬(ひも)・四色の綾絹を帯びる。その色は
黄・赤・縹(薄い藍色)・紺である。また淳黄(混じり気の無い黄色)の
圭(珠)を帯びる。その綬の長さは二丈九尺九寸で五百本の組み紐である。)
ああ、傷ましいかな。伏寿よりこれを取り上げる事となった。まだ裁きが
行われない間に幸多らん事を。」
また、尚書令の華[音欠]をチ慮の副使とし、兵を率いて宮殿に入り、皇后
を捕えさせようとした。(※漢志に曰く。華[音欠]は字を子魚という。
平原高唐の人である。荀ケに代わって尚書令となった。チ慮は字を鴻預
という。山陽高平の人である。)
皇后は部屋の戸を閉めて壁の中に隠れたが、華[音欠]は近づいて皇后を
引きずり出した。
時に帝は外殿にいてチ慮を座に引見していた。
皇后は髪を振り乱し、裸足で歩きながら、帝に別れを告げ、「もう二度と
一緒に過ごす事はできないのでしょうか。」と言った。
帝は「私もまた、いつまで命が保てるか分らないのだ。」と答え、振り
返ってチ慮に「どうして天下にこのような事があるのだ。」と言った。
遂に皇后は連行されて暴室(宮女の独房)に下され、幽閉のうちに死んだ。
生まれた二皇子はそれぞれ酖毒で殺された。
皇后は位に在る事二十年であった。
兄弟及び宗族の死者は百余人に上り、母の劉盈(陽安公主)ら十九人は
[シ豕]郡に配流された。