袁紹伝



袁紹は字を本初という。汝南汝陽の人である。司徒袁湯の孫で、父の袁成
は五官中郎将であった。(※袁山松の書に曰く。袁紹は司空袁逢の庶子で
ある。家を出て伯父の袁成の後を継いだ。 魏書もまた同様である。
英雄記に曰く。袁成は字を文開という。梁冀と誼を通じ、梁冀はその言う
事に従わない事が無かった。京師の諺に「うまく行かない事があったら
文開を訪ねよ。」と言った。(集解は銭大マの説を引き、華[山喬]の書
は袁成が左中郎将あったとし、三国志の注に見えるとする。袁安伝は
左中郎将とする。)
(袁成は)意気盛んで交わりを結ぶ事を好み、大将軍の梁冀以下、これを
好ましく思わない者はなかった。(原文は「紹壯健好交結」殿本の考証の
何[火卓]の説により袁成に改めた。)
袁紹は若くして郎となり、濮陽県長に任命されたが、母の喪によって官
を去った。
三年の(母の服喪の)礼が終わると、幼時に父(袁成)を亡くした事に
感じ、また父の喪に服した。(※英雄記に曰く。袁紹は合わせて六年の
間家にいた。)服喪が終わって洛陽に移り住んだ。
袁紹は容貌に威厳があり、士を愛して名声のある人間を大事にした。(※
英雄記に曰く。袁紹は妄りに賓客と付き合わず、海内に名の知られた人物
でなければ会おうとしなかった。また遊侠を好み、張孟卓(張バク)・
何伯求(何[禺頁])・呉子卿・許子遠(許攸)らとはそれぞれ奔走の友と
なった。)
袁氏は既に何代にも渡って朝廷の高官を務め、賓客たちの心を寄せる所で
あり、加えて袁紹は心を傾けて謙った態度をとったので、争ってその屋敷
に赴こうとしない者は無かった。貴賤を問わずに行動をともにして対等の
礼を行ったので、貴人の車も身分の低い者の車も道にひしめき合った。
内官(宦官)たちはこれを憎み、中常侍の趙忠は宮中で、「袁本初は
居ながらにして名声を得、好んで死士を養っている。この小僧が終いに
何をしでかすつもりか分ったものではない。」と言った。
叔父の太傅の袁隗はこれを聞くと、袁紹を呼び出し、趙忠の言葉を告げて
責めたが、袁紹は結局態度を改めなかった。
後に大将軍の何進の掾に召され、侍御史・虎賁中郎将となった。
中平五年(188)、初めて西園の八校尉が置かれ、袁紹は佐軍校尉と
なった。(※楽資の山陽公載記に曰く。小黄門の蹇碩を上軍校尉、虎賁
中郎将の袁紹を中軍校尉、屯騎校尉鮑鴻を下軍校尉、議郎の曹操を典軍
校尉、趙融を助軍左校尉、馮芳を助軍右校尉、諫議大夫の夏牟を左校尉、
淳于瓊を右校尉とした。この八人を西園の軍と呼び、皆蹇碩の統率下に
置かれた。 ここに佐軍というのはこの文と同じではない。(集解は
洪頤[火亘]の説を引き、何進伝は袁紹を中軍校尉とし、蓋勲伝・五行志
は佐軍校尉に作るとする。沈家本は、注に引く山陽公載記は中軍校尉に
作り、献帝紀の注もまた同じく、魏志もまた中軍校尉に作るとする。
時に上軍・下軍があり、中軍とするのが妥当だと思われる。また、何進伝
は淳于瓊を佐軍校尉とする。)
霊帝が崩御すると、袁紹は何進に勧め、董卓らの軍隊を徴集し、何太后
に迫って諸々の宦官を誅滅させ、自分を司隷校尉にするように言った。
その事は何進伝に見える。
董卓が兵を率いて到着すると騎都尉の太山の鮑信は袁紹に説き、「董卓は
強力な軍隊を擁し、異心を抱いております。今早く対策を講じなければ、
必ずや董卓に制せられる事になりましょう。到着したばかりで疲労して
いるうちに襲えば、董卓を虜にする事ができます。」と言った。(※魏書
に曰く。鮑信は太山平陽の人である。(原文は陽平。洪亮吉は、魏志鮑勲
伝は平陽に作るとする。これにより改めた。)若くから非常に節度があり、
心が広く人を愛し、沈毅で謀り事に巧みであった。袁紹に(董卓の危険を)
説いたが容れられなかったので、軍を率いて郷里に帰った。)
だが、袁紹は董卓を恐れて敢えて行動を起こさなかった。
しばらくして、董卓は会議を開いて廃立を行おうとし、袁紹に「天下の主
は賢明でなくてはならない。霊帝を思い出す度に人は怒りと怨みを覚える
のだ。その点、董侯(陳留王劉協)なら良かろうかと思う。今まさにこれ
を立てるべきであろう。」と言った。
袁紹は「今上陛下は年はお若いが、未だ天下に良からぬ事があったとも
聞きません。もし公が礼に反して情に任せ、嫡子を廃して庶子を立てれば、
おそらく他の者も黙ってはおりますまい。」と言った。
董卓は剣に手を掛け、「小僧め、よくもほざいたな。天下の事は儂の手中
にあるのだ。儂がそうしたいと思っておるのに、誰が敢えて逆らおうと
言うのか。」と袁紹を怒鳴りつけた。
袁紹は跪き、「これは国家の大事です。願わくば、太傅(袁隗)と外に
出てこれを話し合いたいと思います。」と言った。
董卓がまた「劉氏の種は残す価値が無いのだ。」と言うと、袁紹はさっと
顔色を変え、「天下に力のある者はどうして董公だけでしょうか。」と
言い、刀を横たえて長揖(略式の礼)をして真っ直ぐに出ていった。(※
英雄記に曰く。袁紹は董卓に略式の礼をして去っていったので、座中の者
は驚き呆れた。董卓は(洛陽に)来たばかりで、初めて袁紹の家門の大きさ
を知り、敢えて危害を加えようとしなかった。)
袁紹は節を上東門に掛け、冀州に逃亡した。(※上東門は洛陽の東側の
最北の門である。山陽公載記に曰く。、董卓は袁紹が節を棄てたので、
第一の羽根飾りを赤い羽根飾りに改めた。)
董卓は賞金を懸けて袁紹を追求しようとした。
侍中の周[王必]と城門校尉の伍瓊は董卓の信任を得ていた。伍瓊らは密か
に袁紹の為を思って董卓に説き、「廃立は大事であり、常人の考え及ぶ所
ではございません。袁紹は大礼に通じておらず、恐ろしくなって逃げて
行ったのであり、他意がある訳ではないでしょう。今、賞金を懸けて
追い詰めては、成り行き上反乱を起こすに違いありません。袁氏は四世に
渡って恩恵を施しており、食客や昔の部下の役人は天下に沢山おります。
もし豪傑を養い、仲間を集めれば、英雄たちはこれを機に事を起こす
でしょう。そうすれば、山東は公の土地ではなくなります。許して一郡
の太守になさるのに越した事はございません。袁紹は罪を免れた事を
喜び、きっと心配なさるような事は行わないでしょう。」と言った。
董卓は尤もだと思い、袁紹に渤海太守の職を授け、[亢おおざと]郷侯
に封じた。(※前書に曰く。潁川に周の承林侯の国があった。元帝は
元始二年(AD2)に名を[亢おおざと]と改めた。)
袁紹はなお兼司隷校尉を称した。
初平元年(190)、袁紹は遂に勃海で兵を起こし、従弟の後将軍の袁術
・冀州牧の韓馥・豫州刺史の孔[イ由]・<亠兌>州刺史の劉岱・陳留太守
の張[しんにゅう貌](ちょうばく)・広陵太守の張超・河内太守の王匡・
山陽太守の袁遺・東郡太守の橋瑁・済北相の鮑信らとともに立ち上がり、
各々兵数万を擁し、董卓を討つ事を名分とした。(※韓馥は字を文節と
いう。潁川の人である。英雄記に曰く。孔[イ由]は字を公緒という。陳留
の人である。王匡は字を公節という。泰山の人である。袁遺は字を伯業と
いう。袁紹の従弟である。袁術は字を公路という。汝南汝陽の人である。
橋瑁は字を元[王韋]という。橋玄の族子である。以前、<亠兌>州刺史と
して大変威信があり、人々に恩恵を施した。魏氏春秋に曰く。劉岱は橋瑁
を憎んで殺した。)
袁紹は王匡と河内に駐屯した。孔[イ由]は潁川に、韓馥は[業おおざと]に、
その他の軍は皆、酸棗に駐屯した。
諸侯は長く盟約を結ぶ事とし、袁紹を推して盟主とした。袁紹は自ら
車騎将軍兼司隷校尉を称した。
董卓は袁紹が山東で兵を起こした事を聞き、袁紹の叔父の袁隗及び京師
にいた一族を悉く滅ぼした。(※献帝春秋に曰く。太傅の袁隗・太僕の
袁基・袁術の母の兄が殺された。董卓はさらに司隷(校尉)の宣[王番]に
命じて家族を悉く収監し、母及び姉妹・乳飲み子に至るまで五十余人
が獄に下されて死んだ。董卓の別伝によれば、死体は悉く青城門外の
東都門の内に埋め、(罪状を)書き付けた。また、盗み取る者が現れない
ように、死体を[眉おおざと]に送って隠したという。)
董卓は大鴻臚の韓融・少府の陰脩・執金吾の胡母班・将作大匠の呉脩・
越騎校尉の王[壊【左王】]を遣わし、袁紹らの諸軍を解散させようと
したが、袁紹は王匡に胡母班・王[壊【左王】]・呉脩らを殺させた。(※
海内先賢伝に曰く。韓融は字を元長という。潁川の人である。楚国先賢伝
に曰く。陰脩は字を元基という。南陽新野の人である。漢末名士録に曰く。
胡母班は字を季友という。(三国志魏書の注は季友を季皮に作り、風俗通
の巻三は胡母季皮に作る。今考えるに季皮が正しいと思われる。)泰山の
人である。その名は八廚に見える。謝承の書に曰く。胡母班は王匡の妹の
夫であった。王匡は袁紹の意を受け、胡母班を捕らえて獄に繋ぎ、殺して
軍への見せしめにしようとした。胡母班が王匡に渡した手紙の要略にいう。
「貴方は私を獄に繋ぎ、罪を言い立てようとしておりますが、これは何と
甚だしく道義に悖るやり方でしょうか。私は董卓に何のゆかりも義理も
ありませんのに、どうして悪事をともに行ったりしましょうか。貴方は
虎狼のように口を広げ、長蛇のように毒を吐き、董卓を憂う余りに見当
違いに怒りをぶつけたのです。何と酷い事でしょうか。死は人の憂う所
であり、恥ずべきは狂った人間に殺される事です。もし亡者に魂があれば、
貴方を皇天に訴えるでしょう。婚姻は禍福の発端であると申しますが、
今日この事がはっきりしました。以前は(お互いの間に)礼がありました
が、今は血で報いようとしています。亡人(私)の二女は貴方の姪に当る
のです。私の身が滅んだ後、慎んで私の屍を見せないで下さい。」王匡は
手紙を受け取ると、胡母班の二人の子を抱いて大声で泣いた。胡母班は
遂に獄死した。)
袁術はまた陰脩を殺したが、一人韓融だけが名声と人徳のお陰で免れる
事ができた。