袁安は字を邵公という。汝南汝陽の人である。(集解は恵棟の説を引き、 袁宏の漢紀は汝南宛の人とするという。) 祖父の袁良は孟氏易を習い、平帝の時に明経に挙げられ、太子舎人となった。 (※孟喜は字を長卿という。東海の人である。易に明るく、丞相掾となった 事は前書に見える。続漢志に曰く。太子舎人は俸禄二百石で、定員は無い。) 官は建武の初めに成武県令に至った。 袁安は若くして袁良の学問を伝授された。その性格は謹厳で重々しく威厳が あり、郷里の人々に敬われた。 初め、県の功曹となり、檄(報告書)を奉じて従事に届けた。(※続漢志 に曰く。県の功曹は主に功労ある者を選んで職に就ける事を職務とした。 州刺史にはそれぞれ従事がいた。) 従事は袁安に県令に書を提出するように頼んだ。袁安は「公事を報告する 為に早馬がございます。私的な頼み事は功曹の扱う所ではございません。」 と言って断り、引き受けようとしなかった。従事はびっくりして取り止め にした。 後に孝廉に挙げられ、陰平県長・任城県令に配属された。(※汝南先賢伝 に曰く。時に大雪が降って、一丈余の高さに積もった。洛陽令(殿本の 考証は孫礦の説を引き、汝陽令に作るべきであるとする。正しいか。)が 自ら出動して町の様子を調ると、人家は皆雪をどけて家から出ていた。 中には食を求める者もいた。袁安の家の門の前に来ると、誰も道に出て いる者がいなかった。令は袁安が既に死んでしまったと思い、人に雪を どけさせて中に入ると、袁安が倒れ伏しているのを発見した。令が「何故 外に出ないのか。」と問うと、袁安は「大雪が降って、人は皆飢えて おります。人に厄介をかけたくなかったのです。」と答えた。令は賢人 だと思い、孝廉に挙げた。) 行く先々で官吏・民衆は袁安を畏れ、また敬愛した。 永平十三年(70)、楚王の劉英が叛逆を企み、事は郡に下されて何度も 取り調べられた。 翌年、三府は袁安がよく煩瑣な裁判を処理すると言って推薦し、楚郡太守 に任命した。 この時、劉英の自白により連座または獄に繋がれた者は数千人であった。 顕宗(明帝)の怒りは甚だしく、役人は取り調べを厳しくしたので、拷問 の痛みに堪えかねて、無実の罪を自白して刑死した者は大変多かった。 袁安は郡に着くと、役所には入らず、先に牢獄を訪れて取り調べを行い、 明かな証拠の無い者を一人ずつ書き記して出獄させた。府丞・掾史は皆、 叩頭して「謀反人に味方する者は法により同罪とされます。出してはいけ ません。」と反対した。袁安は「もし、間違いがあれば、儂自らその罪に 服し、そなたらに罪が及ばぬようにしよう。」と言って、遂に罪人の選別 を行い、具にこれを上奏した。 帝は心に感じ悟る所があって許可を与え、四百余家が出獄する事ができた。 一年余りして、召還されて河南尹となった。袁安の政治は厳正で公明と 謳われていたが、臧罪(贈収賄の罪)で取り調べを受けた人間は一人も いなかった。袁安は常日頃、「凡そ学問を行っている者は、高い所では 宰相を望み、低い所では牧・太守を望むものである。聖世(優れた天子 が治める世)に人を牢に繋ぐのは、儂には忍びないのだ。」と言っていた。 これを聞いた者は皆、感激して自ら励み勉めるようになった。 在職十年で京師は粛然となり、袁安の名は朝廷に重きを為した。 建初八年(83)に太僕に職を移った。