第五倫伝



第五倫は字を伯魚という。京兆長陵の人である。その先祖は斉の田氏の
一族であった。(※史記に曰く。陳の公子完は斉に亡命し、陳の字から
田氏を称した。応劭の注に曰く。初めて田から採った野菜を食べ、姓を
田氏に改めたのである。)
田氏の一族は園陵に移された者が多く、故にその順序を氏としたので
ある。
第五倫は若くから意志が固く義行があった。王莽の末に盗賊が起こると、
一族・郷里の人間は争ってその下に身を寄せた。
第五倫はそこで、堅固な地に拠って砦を築き、賊が来ると、その部下を
励まして奮い立たせ、強弓を目一杯に引き絞り、(敵を威嚇して)これ
を防いだ。
銅馬・赤眉の仲間の前後数十に上る者たちは皆これを攻め下す事ができ
なかった。(※東観記に曰く。時に米一石が一万銭に高騰し、人々は
食らい合ったが、第五倫は一人、父を失った兄の子・外孫を引き取って
養い、食糧を分かってともに食べ、互いに命を守り合い、郷里はこれを
立派な事だとした。)
第五倫は初め、一営の長として郡尹の鮮于褒の下に赴いた。(※風俗通に
曰く。武王は箕子を朝鮮に封じ、その子は朝鮮に領地を与えられ、これに
より氏とした。)鮮于褒は会うと、これを立派な人物だと思い役人とした。
後に鮮于褒が事件に連座して高唐県令に左遷されると、郡を去るに臨んで
第五倫の臂を握って別れを告げ、「知り合うのが遅かったのが恨めしい。」
と言った。(※高唐県は平原郡に属す。東観記に曰く。第五倫が荷を担い、
歩いてこれを訪問すると、鮮于褒は十余日の間そこに留め、第五倫を連れて
座敷に上げ、妻子に出て来て対面させ、その世話を頼んだ。)
第五倫は後に郷の嗇夫(しょくふ=雑役を担当する役人。)となり、労役
・租税を公平にし、怨恨を処理し、人々の歓心を得た。
だが、長く仕えても栄達する事はないと考え、遂に家族を率いて河東に
行き、姓名を変え王伯斉と称した。(集解は恵棟の説を引き、袁宏の漢紀
は王伯春に作るとする。)
塩を運んで太原・上党を往来し、通った所はすぐに痕跡を消して立ち去り、
道中は道士であると名乗り、親しい友人・昔馴染みの人間でその居所を
知る者は無かった。
数年後、鮮于褒がこれを京兆尹の閻興に推薦すると、閻興はすぐに第五倫
を召して主簿とした。
時に長安の鋳銭の多くは紛い物であり、第五倫を督鋳銭掾に配属し、長安
の市を統轄させた。(※東観記に曰く。時に長安の市はまだ秩序が無く、
また鋳銭の官は悪人の集まりであり、きちんとこれを治める事ができる者
はいなかった。閻興は第五倫を督鋳銭掾に配属し、長安の市を統轄させた。
その後、小人たちが事を争うと、皆「第五掾が公平な裁きを行えば、市に
悪事は無くなる。」と言った。)
第五倫は銓衡(計り)を均等にして斗斛(ます)を正し、市には権力者
に阿り法を枉げる人間はいなくなり、人々は喜んで心服した。
第五倫は詔書を読む度に常にため息を吐き、「これは聖主である。一度
見えれば、(我が道は?)決まろう。」と言った。
同輩たちはこれを笑い、「君は将に事を説いても受け入れられないのに、
どうして万乗(天子)を動かす事ができよう。」と言った。(※華[山喬]
の書に曰く。蓋延は鮮于褒に代わり馮翊太守となったが、法に背く事が
多く、第五倫は度々強く諫めた。蓋延はこれを恨みに思い、その為に
第五倫は昇進できず、推薦を得られなかった。 将は州将の事をいう。)
第五倫は「未だ自分を知る者に巡り会わないのは、道を同じくする者が
いないだけである。」と答えた。
建武二十七年(51)、孝廉に挙げられ、淮陽国の医工長に補任され、
王に従って国に赴いた。
光武帝はこれを召して謁見すると、非常に優れた人物であるとした。
二十九年(53)、王に従って京師に上ると、属官を従えて謁見する事
を許された。帝が政事を問うと、第五倫は政治の道を答え、帝は大いに
喜んだ。
翌日、また特に召されて入朝し、語り合って夕刻に至った。帝が戯れに
第五倫に「卿は役人となり、妻の父を鞭打ち、従兄の食事を自分より
多くしなかったというが、これは本当の事か。」と尋ねると、第五倫
は「臣は三度妻を娶りましたが、皆父はおりませんでした。若い頃から
飢餓・戦乱に遭いましたが、本当に敢えて妄りに人より多くの物を
食べた事はございません。」と答えた。(※華[山喬]の書に曰く。帝
はまた「卿が市の掾であった時、母に一箱の餅を贈った者がおり、卿
は外から来てこれを見て、その母の箱を奪い、口の中に餅を探したと
聞いているが、本当か。」と尋ねた。第五倫は「真にそのような事は
ございません。多くの者が臣が愚かで道理に暗いと思っている為、
このような話が生まれたのでしょう。』と答えた。)帝は大いに笑った。
第五倫が退出すると、(帝は)詔により扶夷県長とし、まだ着任せぬ
うちに追って会稽太守に任命した。(※扶夷県は零陵郡に属す。)
二千石の身分になったとは言え、自ら馬草を刈って馬を養い、妻は飯を
炊いた。
俸禄を受け取るのは僅かに一月分の食糧に止め、残りは皆安い値段で
売り、民の貧困な者に与えた。
会稽の習俗は淫祀(祀るべきでない神を祀る事)が多く、卜筮を好んだ。
民は常に牛を祭神とし、人々の財産はこれにより乏しくなった。
自ら牛の肉を食べ、祠に供え物をしない者は、発病して死ぬ直前に牛の
ように啼くとされ、前後の郡将に敢えて禁じる者は無かった。
第五倫は着任すると、属県に書を回して人々に諭告させた。
巫祝(みこ)で鬼神に託け、偽りにより愚民を怖れさせる者があれば、
皆これを取り調べて罪を論じ、妄りに牛を屠る者があれば、役人はすぐ
に処罰を行った。
民は初め非常に恐れ、ある者は呪詛・妄言を行った。第五倫はこれを
ますます厳しく取り調べ、後には遂に断絶させ、人々は安心した。
永平五年(62)、法に触れて召還されると、老人・子供は車に取り
すがって馬を叩き、泣き叫びながらともにその後に従い、一日に僅か
数里しか進む事ができなかった。
第五倫はそこで偽って亭舍に留まり、密かに船に乗って去った。人々
はこれを知り、またその後を追った。
廷尉に出頭するに及んで、吏民の上書を行い宮門の前に立つ者は千余人
に上った。
この時、顕宗(明帝)は丁度梁松の事件を取り調べており、また梁松
の為に訴えを起こす者が多かった。帝はこれを憂い、公車に詔を下し、
諸々の梁氏及び会稽太守の為に上書を行う者は、それ以上受理させな
かった。
帝が廷尉に赴き、囚徒の再審を行うと、罪を免じられて郷里に帰る事
ができた。第五倫は自ら耕作を行い、人と交際しなかった。
数年して宕渠県令に任命され、郷佐の玄賀を抜擢して名を明らかにし、
玄賀は後に九江・沛の二郡の太守となり、清廉さを称えられ、行く先々
で徳化が行われ、大司農で終わった。(宕渠県は巴郡に属す。)
第五倫は在職四年で、蜀郡太守に職を移った。蜀の地は肥沃で住民・
役人は豊かな財産を持ち、掾史で家財が千万に上る者が多かった。
皆、美しい車に乗り怒馬を駆り、財貨により自ら栄達した。(※怒馬は
馬の肉付きが良く血気盛んで、怒りを発しているかのような様をいう。)
第五倫は悉くその余財のある者を選んでこれを帰し、改めて孤独で貧しい
者、志と行いの優れた人物を選んで役人とした。
ここにおいて、争って財物を贈る行為は抑えられ無くなり、文官は再び
修め正された。推挙した役人の多くは九卿・二千石に至り、時の人は人
を見る目があるとした。
政務を行う事七年、粛宗(章帝)が初めて立つと、遠郡より抜擢を行い、
牟融に代わって司空となった。
帝は明徳太后の縁故により舅氏(母の兄弟)の馬廖を尊崇し、兄弟は
ともに要職にあった。
馬廖らは身を傾けて交わりを結び、冠蓋の士(高位高官)は争ってその
下に赴いた。第五倫は太后の一族が盛ん過ぎる事から、朝廷にその権力を
抑制・削減させようと思い、上疏して言った。「臣は、忠は隠し憚らず、
直は害を避けずと聞いております。愚かな執心を抑えられず、死を冒して
自ら上表致します。書に『臣が威を作る事、福を作る事無かれ。それは
汝の家に害を為し、汝の国に悪を為す事である。』(※尚書の洪範の言葉
である。)とあり、伝に『大夫は国外と交わり、束脩を贈る事無かれ。』
(※穀梁伝の文である。束は帛(絹)、脩は干し肉である。)とござい
ます。近くは、光烈皇后(光武帝の陰皇后)の兄弟の愛情は十分な物で
ございましたが、遂に陰就(皇后の弟)を国に帰らせ、陰興(皇后の弟)
の賓客を徒刑・禁錮に処されました。その後、梁・竇の二家が互いに法を
犯し、明帝が即位されると、遂にこれらの多くを誅殺されました。これ
より洛中にはまた権戚無く、書記(内々の文書?)・請託(権力者への
内々の頼み事)は一切断絶致しました。また諸々の外戚を諭し、『身を
苦しめて士を遇するのは、国の為に働くのには及ばない。盆を頭に載せて
天を望んでも、事は両立しないのだ。』と言われました。(※司馬遷の書
に曰く。『僕は頭に盆を載せていれば、天を望む事はできないと考えま
した。』)臣は常に五臓に刻みつけ、これを紳帯に書きつけております。
(※紳は大きな帯の事で、三尺程垂れ下がる物である。論語に曰く。子張
はこれを紳に書き記した。)しかし、今の論者はまた馬氏の為に言葉を
発しております。臣は密かに衛尉の馬廖は布三千匹、城門校尉の馬防は
銭三百万(汲本・殿本は二百万に作る。)を以て私的に三輔の衣冠(役人)
に施し、面識のある者も無い者も遂に施しを受けぬ者は無いと聞いて
おります。また、臘日(冬至の後の三度目の戌の日)にまたその洛中に
ある者に各々銭五千を贈り、越騎校尉の馬光は臘祭に羊三百頭、米四百斛、
肉五千斤を用いたと聞いております。臣はこれは経義に適わぬと愚考し、
恐惶して敢えてお耳に入れずにおりました。陛下の御心がこれに厚くされ
ようと望まれるなら、またこれを安んじる道を整えられますように。臣が
今これを言うのは、真心から上は陛下に忠を尽くし、下は后の家を全う
する事を望んでいるからでございます。僅かでもご省察頂けます事を。」
馬防が車騎将軍となり、まさに西羌に出征しようとした際、第五倫は
また上疏して言った。「臣は、貴戚は侯に封じてこれを豊かにするべき
であり、これを官職に任じるべきではないと愚考致します。と申します
のは、法律や規則により罪を正せば恩を損ない、私情により特別な処置
をすれば法に違うからでございます。臣は伏して、馬防殿がこの度西征
に向かわれると聞きました。臣は太后の恩仁、陛下の至孝を思い、思わぬ
所で僅かな過ちがあった場合、(馬防殿を)愛する事が難しくなる事を
懼れております。(※思わぬ所で僅かな過ちがあった場合、これを愛する
が故に罰しなければ、法を破る事になる事を恐れるという意味である。)
臣は、馬防殿は杜篤を請うて従事中郎とし、多くの金銭・布帛を賜ったと
聞いております。杜篤は郷里に退けられ、美陽に移り住み、妹が馬氏の妻
となり、この関係を恃みとし、諸方の県令がその不法に苦しみ、これを
捕らえて獄に繋ぎ罪を論じようと致しました。今、杜篤が馬防殿の所に
来た事につき、論者たちは皆疑念を抱いております。ましてこれを従事
とした事などは、議論は恐らく朝廷に及ぶ事でしょう。今、賢能の士を
選んでこれを補佐させ、また馬防殿に自ら人を請い、望みを損わせては
なりません。苟も胸に思う事がありながら、敢えて自らお耳に入れずに
おられましょうか。」
意見はともに省みられず、用いられなかった。
第五倫は厳しく一途な性格であったが、常に俗吏の過酷さを憎んでいた。
三公となるに及んで、帝が長者であり、度々善政を行った事から、上疏を
行ってその盛徳を称え、徳化を勧めて言った。「陛下はご即位なされ、
天然の徳を備え、穏やかな心をお持ちになり、ェ弘を以て下に臨まれて
おります。都に出入りする事四年、前年には刺史・二千石の貪欲かつ残忍
な者六人を誅殺されました。(※東観記に曰く。去年の誅に伏した者は
刺史一人、太守三人、死罪を減じられた者二人、合わせて六人である。)
これは皆明聖(天子)の鑑とする所であり、群下の及ぶ所ではござい
ません。しかし、詔書を下す度にェ和を示されても、政治の急は解けず、
努めて節倹を保たれても奢侈が止まないのは、世俗が乱れており、群下が
これに釣り合わぬ為でございます。光武帝は王莽の後を継ぎ、頗る厳猛を
以て政治を行われ、後代はこれにより遂に風化を成し遂げました。郡国の
挙げる所は概ね決められた仕事をするだけの俗吏が多く、特別に寛大で
広い人選を行い、上の求めに応じる者はおりません。陳留県令の劉豫、
冠軍県令(冠軍県は南陽郡に属す。)の駟協はともに酷薄な心を以て人に
臨み邑を治め、人を捕らえて殺す事に専念し、努めて厳しい政治で人を
苦しめ、吏民の愁いや怨みの的となり、これを憎まぬ者はおりませんが、
今の論者たちは却って有能であるとし、天の心に違い、経義を失し、実に
慎まずにはいられません。ただ劉豫・駟協を罪に問うだけでなく、推薦
した者もまた責めるべきでございましょう。努めて仁賢の人物を進めて
時政を任せれば、その数は数人に過ぎずとも、風俗は自ら徳化に向かい
ましょう。臣はかつて書を読み、秦が厳格な法の適用により滅び、また
自らの目で王莽もまた苛法により自滅するのを見ました。故に(臣は)
真心を尽くし、実にここに在るのでございます。また諸王・公主・貴戚は
驕奢で制度を逸脱し、京師は久しくこのような状態であると聞いており
ますが、これでは何を以て遠方に示す事ができましょう。昔の言葉に
『その身が正しからずば、命令するとも従わず。』と申します。(※論語
の孔子の言葉である。)身を以て教える時は人は従い、言葉を以て教える
時は人は争います。そもそも陰陽が和合すれば穀物は豊かに実り、君臣が
心を同じくすれば徳化が成ります。刺史・太守以下、京師に任命を受け、
また洛陽を通って出る者は、皆召見して広く四方に(その風評を)問い、
併せてその人物をご観察なさるのが宜しいでしょう。諸々の上書で言葉と
現実が一致していない事があれば、ただ返答して郷里に帰され、誤って
喜怒を加えられず、明を以て寛容であられますように。臣の意見は愚かで
採るに足らぬ物でございますが(敢えて申し上げます)。」
馬氏の一族が罪を得て帰国し、竇氏が初めて高い身分に上ると、第五倫
はまた上疏して言った。「臣は空虚な資質を以て補弼の任に当たるを
得ました。素より愚かで意気地が無い性質でありながら、位は尊く爵は
重く、大義に拘り心迫られ、自ら策(大いに励ます事)を思い、百死
に遭うとも敢えて地を選びは致しません。まして危言の世に遭っては尚更
でございます。(※論語に曰く。邦に道がある時は危言危行し、邦に道が
無い時は危行して言葉は従う。 時によって正しい言葉を吐き、正しい
行いをすれば、必ず危険に遭う。故にこの言葉より諭しているのである。)
今、百王の敗亡の後を受け、人は文巧(飾り偽る事)を貴び、悉く悪の道
に走り、正義を守る事ができる者はおりません。伏して虎賁中郎将の竇憲
殿を見ますに、椒房の肉親であり、禁兵を司り、省闥(宮中)に出入りし、
年は若く志は立派で、よく人に謙り善行を好み、これは実に士を好んで
交わりを結ぶ道でございます。(※后妃は山椒の実を壁に埋め、その繁栄
・多子にあやかる。故に椒房という。)しかし、貴戚の下に出入りする者
たちは、概ね罪人・禁錮を受けた人間が多く、特に倹約を守り、貧しさに
安んじる節操を持つ者は少なく、士大夫の志の無い者たちは更にともに
(己を?)売り込み、雲の如くにその門に集まっております。泡も多く
集まれば山を漂わせ、蚊も多く集まれば雷の如く大きな音を出します。
(※前書の中山靖王の言葉である。)これは思うに驕佚の生じる所で
ございます。三輔の議論を行う者は、貴戚により禁錮された者はまた貴戚
によりそれを濯がれ、悪酔いを醒ますのに酒を飲んだような物であると
言うに至っております。邪で人にへつらい権勢に付き従う輩は実に親近
すべきではございません。臣は愚かにも、陛下・中宮は厳しく竇憲殿ら
に門を閉じて自らを守り、妄りに士大夫と交際せぬようにお命じになり、
事を未然に防がれる事を願っております。形無き物を慮り、竇憲殿に長く
福禄を保たせ、君臣が交歓し、僅かな隙をも無くす事、これこそが臣の
至願でございます。」
第五倫は国に仕えて忠節を尽くし、言事がどっちつかずである事は
無かった。諸子はある時は諫止したが、すぐにこれを叱って追いやり、
吏民の上奏文及び願い事は、また併せて封をして奉った。その無私な事
はこの通りであった。
第五倫は性質は謹直であり、目立った所は少なく、位に在る間貞潔さを
以て称えられ、時の人はこれを前朝の貢禹に比した。(※前書に曰く。
貢禹は字を少翁という。琅邪の人である。経書に通じ、高潔な行いに
より名を知られていた。)一方、心の広さや穏やかさに欠け、威儀を
修めず、またこれにより軽んじられた。
ある者が第五倫に「公には私の心があるのですか。」と尋ねると、第五倫
は「昔、私に千里の馬をくれた人がいた。私は受け取らなかったが、三公
に選挙がある度に心はその人を忘れられずにいた。しかし、また遂に用い
られる事は無かった。私の兄の子がかつて病に罹り、一晩に十度も様子
を見に行き、やっと帰って安心して寝た。また私の子が病であった時、
見舞いはしなかったが、一晩中眠る事ができなかった。このような事で、
どうして私の心が無いなどと言えよう。」と答えた。
頻りに老病により上疏して引退を願った。
元和三年(86)、策罷(詔による免官)を賜り、二千石の俸禄を以て
その身を終え、加えて銭五十万、公宅一区を賜った。
第五倫は数年後に死んだ。時に年八十余であった。(帝は)詔を下し、
秘器・衣衾(遺体をくるむ衣と夜着)・銭・布を賜った。
少子の第五頡が後を継ぎ、桂陽・廬江・南陽太守を歴任し、行く先々で
称えられた。(刊誤は第五倫は未だかつて爵位が無く、ここに後を継ぐ
とするのはおかしいとする。)
順帝が太子を廃された時、第五頡は太中大夫であったが、太僕の来歴
らとともに宮殿の前に立って固く争った。(※樊豐らは讒言を行い、
帝を廃して済陰王とした。)
帝が即位すると、将作大匠に抜擢され、在官のまま死んだ。(※三輔
決録注に曰く。第五頡は字を子陵という。郡の功曹、州の従事となり、
公府は召し寄せて高第に挙げ、侍御史、南頓県令、桂陽・南陽・廬江
三郡の太守、諫議大夫となった。洛陽には主人がおらず、郷里には田宅
が無く、客は霊台(雲気を望む台)の中に泊まり、十日も食事を作らない
事もあった。司隸校尉の南陽の左雄・太史令の張衡・尚書の廬江の朱建・
孟興は皆、第五頡の昔馴染みであり、各々食物を贈ったが、第五頡は遂に
受け取らなかった。)
第五倫の曾孫は第五種という。