趙岐は字を[分おおざと]卿(ひんけい)という。京兆長陵の人である。 初名を嘉といい、御史台で生まれたので字を台卿といったが、後に難を 避けて自ら名と字を改め、本土を忘れない事を示した。(※その祖父が 御史であったので、御史台で生まれたのである。(岐は岐山。ヒンは 周王朝の遠祖公劉が建国した国である。)) 趙岐は若くして経書に明るく才芸があり、扶風の馬融の兄の娘を娶った。 馬融は外戚の裕福な家であったが、趙岐は常にこれを卑しみ、馬融と顔を 合わせようとしなかった。(※三輔決録注に曰く。趙岐は馬敦の娘宗姜を 娶って妻とした。馬敦の兄(馬厳)の子の馬融はかつて趙岐の家に来た際、 多くの賓客を従え、従妹と酒宴を開いて音楽を演奏させ、日が暮れると 帰って行ったが、その途中でやっと「趙処士はどこにいたのか。」と 尋ねた。趙岐もまた節義に厳しく、その従妹の為に馬融に屈さず、友人に 手紙を送って「馬季長(馬融)は当世に名を知られた人物だが、士人の 節義を持っていない。三輔の高士は未だかつて衣の裾でその門の塵を払った 事が無い。(その門を通らない。)」と言った。趙岐はかつて(馬融の 注釈した)周官を読み、二カ所意味が通っていなかったので、一度だけ 赴いてこれを直した。趙岐が馬融を卑しんでいたのはこの通りであった。) 州郡に仕え、廉直さにより悪を憎んで畏れ憚られた。 年三十余で重い病気に罹り、七年の間病床に在った。(太平御覧は年四十 余とする。) 趙岐は突然の死に備え、兄の子に命じて言った。「大丈夫が世に生まれな がら、世に隠れては箕山の操も無く、仕えては伊尹・呂尚の功績も無い。 (※易に曰く。逃れれば亨る。君子は小人を遠ざける。 箕山は許由の 隠棲した場所である。)天は我とともに在らず、また何を言おうか。お前 は一つの丸石を儂の墓の前に立て、こう刻んでくれ。『漢に逸人あり。 姓は趙、名は嘉。志がありながら時が無かったのは天命であり、どうする 事ができたであろうか。』とな。」 その後、病は癒えた。 永興二年(154)、召されて司空掾となり、二千石(太守)が親の喪に 服す為に官を去る事が許されるように意見を述べ、朝廷はこれに従った。 その後、大将軍の梁冀に召され、その為に得失を述べ、賢者を求める策を 進言したが、梁冀は容れなかった。 やがて理劇(煩雑な職務に堪える者)に挙げられ、皮氏県長(皮氏県は 河東郡に属す。)となった。(※三輔決録に曰く。趙岐は県長となると、 豪族を抑えて姦賊を討ち、大いに学校を起こした。) 河東太守の劉祐が郡を去ると、中常侍の左[小官]の兄の左勝がこれに 代わった。趙岐は宦官(の身内の下役となる事)を恥じかつ怒り、その 日のうちに西に帰った。京兆尹の延篤がまた功曹とした。 これより前、中常侍の唐衡の兄の唐[王玄]が京兆の虎牙都尉であった。 唐[王玄]は徳によらずに推薦されたので、郡人は皆これを軽侮した。 趙岐及び従兄の趙襲もまた度々非難の書を奉り、唐[王玄]は深く憎んだ。 (※決録注に曰く。趙襲は字を元嗣という。これ以前、杜伯度・崔子玉は 草書に巧みである事により前代に称えられていたが、趙襲は羅暉とともに 書が下手で張伯英(張芝)に笑われていた。張伯英は非常に自尊心が高く、 朱賜に書を与えて「上は崔・杜と比べて足らず、下は羅・趙と比べて余り ある。」と言った。) 延熹元年(158)、唐[王玄]が京兆尹となると、趙岐は禍が及ぶのを 懼れ、従子の趙[晋戈](ちょうせん)と難を避けて逃げ出した。 唐[王玄]は果たして趙岐の家人や一族を捕らえ、法を重くして陥れ、悉く 殺した。(※決録注に曰く。趙岐の長兄の趙磐は州の都官従事であったが 早くに死んだ。次兄の趙無忌は字を世卿といい、河東従事に配属されて いたが、唐[王玄]の為に殺された。) 趙岐は結局四方に難を逃れ、江淮・海岱(東海から泰山までの地。青州。) の地を隈無く逃げ回り、自ら姓名を伏せ、北海市中で餅を売り歩いた。 時に安丘の孫嵩は年二十余であったが、市中を回っていた際に趙岐を見て 非常の人であると思い、車を止めて呼びかけ同乗させた。趙岐が懼れて 顔色を失っていると、孫嵩は帷を下ろし、騎馬に通行人を遠ざけさせ、 密かに趙岐に「貴方は餅売りではないとお見受けした。また、互いの事を 尋ねた時に顔色が変わった。(私に)重い恨みがあるのでなければ、亡命 しているのでしょう。私北海の孫賓石は一族百人、人を助ける力があり ます。」と言った。趙岐は普段から孫嵩の名を聞いており、その場で事実 を告げ、遂にともにその家に帰った。 孫嵩は先に家に入ると、母に「外出の途中で死友(極めて親しい友人)を 得ました。」と告げ、迎え入れて座敷に上げ、食事を振る舞い、大いに 楽しんだ。 孫嵩は趙岐を複壁(二重になった壁)の中に匿い、数年の間に趙岐は厄屯歌 二十三章を作った。 後に唐一族が滅ぼされると、恩赦により外に出る事ができた。三府はこれ を聞いて、同時に召し寄せた。 九年(166)、司徒の胡広の招聘に応じた。 南匈奴・烏桓・鮮卑が背いて反乱を起こすと、公卿は趙岐を推薦し、抜擢 を受け、并州刺史に任命された。 趙岐は辺境防備の策を上奏しようと思っていたが、未だ上奏に及ばぬうち に党人の事件により免官され、そこで禦寇論を選定した。(※決録注に 曰く。この時、綱維(国家の大綱)は緩み、宦官が権を専らにしていた。 趙岐は前代の連珠の書(章帝の時に班固・賈逵らが詔を受けて作った文章) に擬して四十章を著し、これを献上したが、宮中に留められ、外に出され なかった。) 霊帝の初にまたに党人として十余年の間禁錮された。 中平元年(184)、四方の兵が起こると、(朝廷は)詔により元刺史・ 二千石で文武の才と働きのある者を選ばせ、趙岐を召して議郎に任命した。 車騎将軍の張温が関中に西征する際、願い出て長史に任命し、別隊として 安定に駐屯させた。 大将軍の何進は趙岐を推薦して敦煌太守とした。赴任して襄武(※襄武県 は隴西郡に属す。)に至った時、趙岐は新たに任命された諸郡の太守数人 とともに、賊の辺章らに捕らえられた。 賊は脅迫して帥としようとしたが、趙岐は偽りを言って逃れる事ができ、 所在を転々として長安に帰り着いた。(※決録注に曰く。趙岐は帰途、陳倉 に至ると、また乱兵に遭遇し、裸になってやっと逃れる事ができ、十二日間 草の中に物も食べずに身を潜めた。) 献帝が西に遷都すると、また議郎に任命され、やがて太僕に昇進した。 李[イ寉]が政権を握ると、太傅の馬日[石單](ばじつてい)に天下を慰撫 させ、趙岐を副使とした。 馬日[石單]は出立して洛陽に至ると、上表を行い、趙岐を別に遣わして 国命を宣揚させる事とした。 行く先々の郡県で、民衆は皆「今日、また御使者の車馬を見られるとは。」 と言って喜んだ。 この時、袁紹・曹操は公孫[王贊]と冀州を争っていた。袁紹及び曹操は 趙岐が来ると聞き、ともに自ら兵を率いて数百里の先に奉迎した。 趙岐は深く天子の恩徳と、戦を止めて民を安んじるべきであるという道理 を述べ、また公孫[王贊]に書を送って利害を説いた。 袁紹らは各々兵を率いて去り、趙岐と期日を定めて洛陽に会して車駕を 奉迎する事を約束した。 趙岐は南の陳留に着くと、重い病に罹った。二年が経過したが、約束した 者たちは遂にやって来なかった。 興平元年(194)、(朝廷は)詔書により趙岐を召還した。 帝は洛陽に帰る事になり、先に衛将軍の董承を遣わして宮殿を修理させた。 趙岐は董承に「今、海内は分裂崩壊しておりますが、ただ荊州だけは州土 も広く土地柄も良く、西は巴蜀に通じ、南は交阯と接しており、穀物は ただ一州豊かに実り、兵も人も他州と違って損なわれておりません。私は 寿命が迫っておりますが、なお国家に報いる事を思っております。自ら 牛車に乗り、南に向かって劉表を説得し、自身で兵を率いて上洛して朝廷 を守らせ、将軍と心を同じくして力を併せ、ともに王室を助けたいと存じ ます。これぞ主上を安んじ、人を救う策でございます。」と言った。 董承はそこで上表を行い、趙岐を荊州に遣わして租糧(年貢米)を督促 させた。 趙岐がやって来ると、劉表は即座に兵を遣わして洛陽に上らせ、宮殿の 修理を助け、軍資の輸送は前後に絶える事は無かった。 時に孫嵩もまた劉表に身を寄せていたが、劉表は礼遇していなかった。 趙岐はそこで、孫嵩の行いの手厚さと義理堅さを称え、ともに青州刺史と するように上奏した。趙岐は老病により、遂に荊州に留まった。 曹操は時に司空に任命されると、趙岐を自分の代わりに推薦した。 光禄勲の桓典・少府の孔融も上書して趙岐を推薦したので、使者を遣わして 太常に任命した。 趙岐は年九十余で、建安六年(201)に死んだ。 先に自ら寿蔵(生前に作る墓)を作り、季札・子産・晏嬰・叔向の四像 を描いて賓位(客の座る位置)に置き、また自らの像を描いて主位(主人 の座る位置)に置き、皆賛と頌を作った。(※寿蔵は墓穴である。寿と 称すのはその久遠の意味を取ったからであり、寿宮・寿器の類と同様で ある。墓は今(唐代)、荊州の古郢城の中にある。) その子に命じて「儂が死んだ日には墓の中に砂を集めて床を作り、布簟 (竹の筵に布を被せた物か。)を敷いて白衣を着せ、その上に散髪(冠 を脱いだ状態を指すか。)して一枚の布で覆い、その日のうちに墓に 下ろし、下ろし終わったらすぐに穴を塞ぐように。」と言った。 趙岐の著述は多く、孟子章句・三輔決録を著して当時に伝えられた。 決録の序に曰く。「三輔は本来雍州の地で、代々公卿・吏・二千石及び 高貲(富豪)を移して皆諸陵に奉仕させた。五方の文物が混じり合い、 一定の風俗は無く、ただ詩の秦・[幽(幺→豕)](ひん=ヒン卿のヒンに 同じ。)にのみ繋がる物ではない。その士は高を好んで義を重んじ、名声 と美行において尊ばれる。その気風が失われたなら、たちまち権力を指向 し、ただ利のみを追求するようになるであろう。余は不才を以て西土に 生まれたが、耳はよく聞こえたので故老の言を聞き、目はよく見えたので 衣冠(役人)の輩を見、心はよく人を識別できたのでその賢愚を観察した。 余はかつて冬の日に黄髪の士を夢に見た。(集解は恵棟の説を引き、太平 御覧には『冬の日に』の下に『夜、物思いに耽ってまだ考えがまとまらぬ うちにふと寝てしまった。』とあり、『黄髪の士』は『黄髪の老人』と なっているとする。)(その老人は)姓を玄、名を明、字を子真といった。 余と向かい合って話すと、その言葉は必ず当を得ており、可否の間に迷う 事が無かった。(集解は恵棟の説を引き、太平御覧には『当を得ており、』 の下に『余はこの人に子真の人物評の奥義を授かった。』とあるとする。) (余は)筆を取る者にこれを書くように命じた。(その人物評は)近くは 建武以来、この今に至るまでの物であったが、その人は既に亡くなって おり、(余が自らその人物評を)書かねばならない。玉石朱紫(優劣と 善悪)はこれにより定まる。故にこれを決録という。」 賛に曰く。呉翁(呉祐)は温かい愛情を備えていたが、その義は堅く 烈しかった。(※義によって梁冀に逆らって李固の事を争った事をいう。) 延篤・史弼は人を養い、風は和らぎ恩が結ばれた。梁氏の手先は重刑に 処され、誣告を行う者たちは身を潜めていなくなった。 子幹(盧植)は文武の才を兼ね備え、逢掖の衣を着けて戦に臨んだ。(※ 礼記に曰く。孔子は言った。「私は若い頃魯におり、逢掖の衣を身に着けて いた。」鄭玄の注に曰く。逢は大と同じである。大掖の衣(袂の大きな衣) は君子の道芸ある者の着る物である。伝える所では本来「縫掖」に作って いたが、意味は互いに通じる。) ヒン卿(趙岐)は国境を出て、朝威を宣揚する事を専らとした。(※左伝 に曰く。大夫が国境を出たなら、社稷に利益がある限り、命を専らにして も構わない。(左伝ではなく、公羊伝荘公十九年の語である。))