陳球伝



陳球は字を伯真という。下[丕おおざと]淮浦の人である。その家は代々名
を知られていた。(※謝承の書に曰く。祖父の陳屯は令名があった。)
父の陳ヒは広漢太守であった。
陳球は若くして儒学を広く学び、律令に通じていた。
陽嘉年間に孝廉に挙げられ、次第に昇進して繁陽県令となった。(※繁陽
は魏郡の県である。)
時に魏郡太守が県にそれとなく賄賂を納めるように求めたが、陳球は
与えなかった。
太守は怒って、督郵(郡の行政監察官)を鞭打って陳球を辞めさせようと
したが、督郵は承知せずに言った。「魏郡の十五城では、繁陽だけが立派
な政治が行われております。今、命を受けてこれを辞めさせたなら、天下
に取り沙汰される事になりましょう。」
そこで、太守は取り止めとした。
陳球はまた公府に召され、高第(試験の上位成績者)に挙げられ、侍御史
に任命された。
当時、桂陽の黠賊(かつぞく=悪賢い賊)の李研らが群れ集まって略奪を
働き、荊州で好き放題に暴れ回っていたが、州郡は弱腰で取り締まる事が
できずにいた。
太尉の楊秉は上表を行って陳球を零陵太守とした。陳球が着任して計略
を用いると、一ヶ月の間に賊は散り散りになり姿を消した。
しかし、州の兵士の朱蓋らが桂陽の賊の胡蘭ら数万人と反乱を起こし、
零陵に矛先を向け、攻め掛かってきた。(張[王番]の漢記は朱益に作る。)
桂陽は土地が低く湿地帯で、木を組み合わせて城を作っていた為、守りを
固める事はできず、軍中は驚き怖れた。
掾史(属官)が家に人を遣わして家族を避難させるように勧めると、陳球
は怒って、「太守は国の虎符を分け持ち、一郡を守る任を受けているのだ。
(※文帝の初に郡の太守に銅の虎符(割り符)を分かち与えた。)
どうして妻子を顧みて国威の重さを損なったりしようか。またそれを
口にする者は斬る。」と言った。
そこで、役人・老人・若者を悉く城の中に入れてともに城を守り、大木
に弦を張って弓に、矛に羽根を付けて矢とし、機(弓の発射装置)を
引いて、遠く千余歩の距離まで飛ばし、多くの敵を殺傷した。
賊がまた川をせき止めて城に水を注ぎ込むと、陳球は直ちに地形を利用
して流れ出た水の向きを変え、賊を水浸しにした。
互いに防ぎ合う事十余日、敵を下せずにいると、そこへ中郎将の度尚が
救援の兵を率いてやって来た。陳球は士卒を募って、度尚とともに敵を
破り、朱蓋らを斬った。
朝廷は銭五十万を賜り、子一人を郎とした。
陳球は魏郡太守に職を移った。
召還されて将作大匠に任命され、桓帝の園陵(陵墓)を作ったが、巨万
(一億)以上の銭を節約した。
南陽太守に職を移ると、豪族の罪を調べ上げた為、勢力のある家の譏り
を受け、召還されて廷尉に出頭し、有罪とされた。
恩赦に遭って家に帰った。
また召されて廷尉に任命された。