レトロ選手紹介その3


ディック・ザ・ブルーザー
1929年生まれ 身長 185p
得意技 アトミックボムズアウェイ

「生傷男」の異名をとった稀代の悪役レスラー。 本名リチャード=アフィルス。 学生時代から喧嘩に明け暮れ、一時は用心棒をしていた。 クラッシャー=リソワスキーとの極道コンビで暴れ回り、 AWAタッグ王座に何度もついている。 力道山没後の日プロに初来日し、ジャイアント馬場を相手に反則の 限りを尽くし、観客を恐怖させた。 シカゴ地区の大ボスとして君臨、1991年に死去。

ザ・シーク
1929年生まれ 身長 183p
得意技 キャメルクラッチ

元祖アラビアの怪人。アラーへの祈りと火炎殺法でショーマン派 として人気を誇った。 アブドーラ・ザ・ブッチャーとのタッグで全日本プロレスの常連となり、 ザ・ファンクスらと死闘を繰り広げた。 デトロイト地区の興行権を買い取り、一時はプロモーターとしても手腕を ふるっていた。 甥のサブゥーをレスラーデビューさせ、1990年にはFMWに来日。 1998年、日本で引退。

ジョニー=バレンタイン
1929年生まれ 身長 190p
得意技 エルボードロップ

元世界王者、スタニスラウス=ズビスコにスカウトされプロレス入り。 NWA王者バディ=ロジャース、WWWF王者ブルーノ=サンマルチノ の好敵手として名を上げた。 1966年、旧東京プロレスにアントニオ猪木の対戦相手として初来日、 名勝負を残した。 その風貌の迫力から「妖鬼」とあだ名された。グレッグ=バレンタインの父親。 2001年、死去。

ボボ=ブラジル
1930年生まれ 身長 195p
得意技 ココバット

プロ野球選手出身。ココバット(ジャンプしての頭頂部へのヘッドバット) で多くの強豪を苦しめた。 NWA王者バディ=ロジャースを破ったが、黒人であるために クレームが付き王座を返上した。 日本プロレスに何度も来日し、ジャイアント馬場からインター王座を 奪っている。黒人レスラーの代表的存在で同朋の信望も厚かった。1998年、死去。

ザ・デストロイヤー
1931年生まれ 身長 183p
得意技 フィギュア4レッグロック

本名ディック=ベイヤー。 「白覆面の魔王」と呼ばれ、力道山の最大のライバルだった。 4の字固めを日本初公開し、一躍有名となる。 アメリカではWWA王座、AWA王座、日本ではアジアタッグなどを 獲得している。 バラエティ番組「噂のチャンネル」にレギュラー出演していたことでも有名。 1993年、全日本マットで引退。

フリッツ=フォン=エリック
1931年生まれ 身長 195p
得意技 アイアンクロー

必殺のアイアンクローでプロレス史に名を残した強豪レスラー。 その握力は150s以上ともいわれ、軟式野球のボールを軽くパンクさせた。 ジャイアント馬場のライバルとして日本プロレスに来日、「鉄の爪」の 威力を観衆に見せつけた。 ダラス地区のプロモーターとして一勢力を築いたが、6人の息子の 5人までに先立たれるという不幸にも遭った。 1997年、死去。

ドン=レオ=ジョナサン
1932年生まれ 身長 196p
得意技 ハイジャックバックブリーカー

「人間台風」と呼ばれた大型レスラー。力道山のインターヘビー級王座に 初挑戦し、その後の来日でもハイジャックバックブリーカーで対戦相手 を次々と失神させ、猛威を振るった。 隠れた実力者として知られ、最強のレスラーに挙げられることも多い。

ダニー=ホッジ
1932年生まれ 身長 183p
得意技 オクラホマクレイドルホールド

「怪鳥」の異名をとった往年の名レスラー。アマレスの五輪代表として、 メルボルン、ヘルシンキと2度オリンピックに出場し、両方で銀メダルを 取ったほどの実力者。ルー=テーズと親しかった関係からヘビー級王座には 挑戦せず、NWAジュニアヘビー級王者として通算12年も君臨した。 最強のジュニアヘビー級選手と呼ばれ、本気になったときの強さはテーズすら 恐れたほどである。 後にUWFインターの顧問を務めた。

バディ=キラー=オースチン
1933年生まれ 身長 188p
得意技 ドリルアホールパイルドライバー

パイルドライバーで二人の若手レスラーをリング上で死亡させたことで 知られる。 マイク=シャープと組んで力道山、豊登組からアジアタッグを 奪取。母国ではロスのWWAのシングル・タッグのベルトを獲得している。 「狂犬」と恐れられたラフファイターだったが、息子を事故で亡くしてからは 酒に溺れ、1981年、48歳で死去。

ヘイスタック=カルホーン
1934年生まれ 身長 183p
得意技 フライングソーセージ

250sを超える巨体で「お化けカボチャ」、「人間空母」の異名をとった。 体重300sのハッピー=ハンフリーとの巨漢対決は伝説になっている。 日本プロレスに来日し、力道山のインターヘビー級王座にも挑戦した。 その巨体で数々の逸話を残したが、晩年は150sまで体重が落ちた。 1989年に死去。ヘイスタック(干し草)の名が表すように農夫スタイルだった。