ヘルプ!
時々、ビートルズの「ヘルプ!」を聴きたくなることがあります。そんな時は本棚の奥からビートルズの曲を集めた8トラック・カートリッジテープを取り出します。このテープを手に入れたのは三十年近く前のことです。当時、ぼくはアメリカ東海岸ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学でポスドクとして働いていました(ポスドクとは正式にはポストドクターといい博士号取得後の任期付きの研究職です)。アメリカで生活をはじめてみると車がないととても不便だと分かり急いで免許を取得、新聞広告で見つけた中古車を確か千六百ドルで購入しました。その車に8トラックの装置が付属していたので何か聴いてみようと近くのレコード店で買った最初のテープに「ヘルプ!」が入っていました。休日、ハイウエーを走りながら大音量でよく聴いていました。
現在は車の運転はしていません。何となく気分が落ち込んだ時など自宅で夜遅くオンザロックを片手に聴いています。「ヘルプ!」の歌詞の中に「できることなら助けて下さい。ぼくは沈んだ気分なのです」(片岡義男訳)という部分があります。この曲を聴き、時には口ずさんだりしているとなんだか気分がちょっと軽くなるような気がします。物事をつい深刻に考えてしまう癖のあるぼくには有り難い一曲です。
編集委員の和田元先生からこの本(『抑うつの臨床心理学』東京大学出版会)の書評を頼まれた時、題名から連想したのは北杜夫が自分の躁うつ病をテーマに書いた愉快なエッセーのことでした。面白い内容を期待して読み始めたのですが、ぼくにとっては面白いとはほど遠い内容だということがすぐに分かりました。本論の十三篇の論文に入る前に「本書は日本の心理学者が中心となって書かれた実証的な抑うつ研究の書としては最初の本」であり「世界の新しい動向を日本の心理学者や心理学専攻の学生に伝える」ことを目的とすると宣言してあります。
引き受けたからには読まなければと意を決し分からないところは読み飛ばしながら読み進みました。第一章と第二章は序論に当てられ抑うつの概念とその測定法が述べられています。「うつ病というと、気分が落ち込んだ状態をイメージすることも多いかもしれないが、興味や喜びの喪失もうつ病の重要な症状である」とあります。そんな気分になるのはしょっちゅうです。ぼくはうつ病なのかなと不安になってしまいます。第三章から第八章はうつ病の基礎研究に当てられています。この中でよく分からないながら面白いと感じたのは抑うつ症状発症の仕組みに関する理論です。学習性無力感理論、絶望感理論、ぼくにははじめてお目にかかる理論です。うつ病に有効な治療法として認められている認知行動療法についても詳しく解説されています。第九章から第十三章は臨床への実践研究です。大学生を研究対象とした第十一章を見てみます。これまでの種々の調査で「大学生は抑うつになりやすい時期である」ことが明らかになったと結論しています。予防することが求められますがどのように予防するかが問題です。その為には、はっきりうつ病の診断基準を満たす学生だけでなく基準には満たない程度の抑うつ状態(閾値下抑うつ)の学生にも予防手段を講じる必要があること、それを実現する場として大学の学生相談所の役割の重要性を指摘しています。
編者の一人、心理・教育学部会の丹野義彦先生は本書の終わりで「かっての安全で繁栄した日本は一九九〇年代を境として大きく変わってしまった。かっての安全で元気な日本を取り戻すことはできるのだろうか。日本の社会が取り組むべき最優先課題のひとつが抑うつや自殺の問題である」と問題提起し、心理学的側面からの研究の重要性を主張しています。
ぼくは「ヘルプ!この本を理解するには誰かの手助けが必要だ」と感じながら読み終わりました。各章の最後には沢山の参考文献が載っています。心理学、特に臨床心理学を専門にしたいと考えている人にとっては役に立つ本であることは間違いありません。(『教養学部報』2006 より)