見えない自分の心を見る


 小学四・五年生の頃ラジオの落語が好きで毎週その時間が待ち遠しかった記憶があります。おそらく当時は金馬、痴楽、志ん生など人を笑わせる名人が出演しており僕もいつのまにか好きにさせられたのでしょう。しかし、どんな噺の何が面白かったのかはすっかり忘れています。たまに落語と思って聞き始めたのが浪花節でがっかりしたことなどは覚えています。そのせいかどうかは分かりませんが、今でも愛用の魔法瓶に熱燗を詰めてぶらりと浅草に出かけ、演芸ホール(寄席)で半日のんびりするのが楽しみです。寿輔(好きな噺家)が高座に顔を出すとそれだけでなぜか笑いがこみ上げてきます。「寝床」や「そこつ長屋」など馴染みの噺を聴いていると熱燗のせいでぼんやりした頭(もともと?)で明治や江戸の頃の人たちはどんな心持ちで寄席に集まってきたのかなと妙なことが気に掛かったりします。

 好きになる、考える、記憶するといった能力は人が生きていく為にはなくてはならないものです。そして、いろんな好きになるなり方、いろんな覚え方があることも普段の生活でよく経験するところです。「知らないうちに」誰かを好きになっていたり、すっかり忘れていた事を何かのきっかけで「突然」思い出す事があります。一番よく知っているはずの自分自身の心の中で起こっている事なのにどうしてそうなるのかよく解りません。なぜでしょう。

 『サブリミナル・マインド』(中公新書)は見えない自分の心を見たい人の為に道案内を引き受けてくれます。この本は駒場の名演者下條信輔さんの「人間行動学基礎論」と「認知神経科学」が基になっており、講義で語りかける口調が生きています。下條さんの提唱するセントラルドグマ(中心教義)は次の通りです。「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいない」手短に言い換えると「潜在的な認知過程が存在する」もっと短くすると「暗黙知がある」。このセントラルドグマを明らかにしていく過程で、自分自身にもよく見えない(意識にのぼらない)自分の心のしくみが解明され、さらにそれは新たな人間観、人間像を創り出す手掛かりになると著者は考えています。

 序「私の中の見知らぬ私」に始まって、各章にはそれぞれ一見奇妙に思える表題が付いています。分割脳と多重人格をあつかった第三講「もうひとりの私」、記憶障害の研究から明らかになった記憶システムに関する第五講「忘れたが覚えている」、マインドコントロールを問題にした第七講「操られる好みと自由」、自由意志論と機械的決定論の対立を論じた第九講「私の中の悪魔」など九つの話からなっています。どの話も動物実験や人を被験者とした実験、特に脳損傷患者の症例から明らかになった多くの事実が基礎になっています。「つり橋実験」というのが紹介されています。つり橋のそばに美人の女性実験者が待機していて男性がつり橋を渡っている時(強い恐怖状態にある)に誘いをかけます。男性は何でもないときに誘われた時よりも強く女性に惹かれるというのです。僕も被験者になってみたい実験ですが年齢制限があり失格。極度の緊張(生理的興奮状態)がロマンスの出発点となることは納得できます。ところで一目惚れの潜在的認知過程はどうなんでしょう。

 本書には多種多様の実験例が次々と紹介されていて少し頭が疲れてしまいます(信輔師匠の身振りを交えた話を直接うかがいたいものです)。読み進んでいくと自分の心、自分の意志って何だろうと段々あやふやな気分にさせられますが、著者は最後に「すべての発見や創造は、自覚できず明文化できない暗黙の知なしにはあり得ません」と暗黙知の重要性を認めることでよりよく生きるための知恵が得られることを強調しています。

 下條さんは四月からカリフォルニアのカルテック(多摩テックに似ていますがこちらは知の遊園地)に移られると聞いています。ご活躍をお祈りします。(『教養学部報』1997 より)

                         

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