ちょっと一言

その1−河合栄治郎−

 「本年の大学及び高等学校の入学志願者がその志望学科において示した傾向には社会の注目を惹くものがあった。すなわち大学においては法学部志願者が減じて経済学部のそれが増し、高等学校にあっては理科志願者が減じて文科の志願者が増したという現象が見られた。東京帝大についてみると経済学部はさき頃多数の有力教授を失いその創痍未だ癒えずと考えられて志願者が減じ充実した法学部への志願者が増しそうに想像されるのに、事実は反対の現象を示すというのには、そこに十分な理由がなければならぬわけである。いったい何がこういう意想外の現象を惹起したのであろうか」。これは昭和15年3月の読書新聞に当時京都帝大教授だった天野貞祐(昭和21年から2年間は第一高等学校、教養学部の前身、の校長)が「現代学生論」と題して発表した文章の冒頭の部分です。当時としては一見予想外に思える学生の志望傾向の原因について天野は学生が卒業後の生活、特に就職の便不便を第一に考えるようになったためと推測し、学生がこのような選択傾向を示すのは明治の頃の学生が天下国家の理念に生きたのとは異なり現代(今から約60年前ですが)では自然なことであると論じています。教養学部の科類選択は旧制高校の文科・理科を選ぶのにほぼ対応しています。皆さんは入学時の科類をどのように選択しましたか。そして、進学先をどのように決めようと考えていますか。

 この「現代学生論」が書かれた同じ時期、引用文中の「経済学部はさき頃多数の有力教授を失い」の有力教授の一人河合栄治郎は箱根の宿にこもって『学生に与う』を書き上げています。この本は昭和15年6月に出版され大変よく売れたそうです。皆さんは駒場での前期課程の試験、特にその成績に関しては進学振分けとの関係もあり強い関心を持っていることと思います。河合は試験に対する態度を三つに分類しています。その一つは「試験大事と心得て、朝から晩まで年がら年じゅう、試験のことのみ念頭において、そのために講義も聞くし参考書も読む。その代わり試験に必要がなければ、随意科目も聞かないし、本も読まないし、ましてなまじ教養など心がけると試験のためにならないと、怖じ気を震う一派である」とし、続けてこのような考えの「いわゆる秀才の中に、味も素気もない辛くも酸っぱくもない、面白味も可笑味もないのがある。こういうのから教師を採用するから、学問と教育が振るわないのである。彼らは学校を出て試験がなくなると、本も読まないし学問を弊履のごとく捨てる。功利的な性格だから、場合によると詐欺をするかもしれず賄賂もとるかもしれず、人を突き落とすかもしれない」と、厳しく批判しています。読んでいて耳が(?)痛くなります。おそらく彼の役人時代、学者時代を通して周りにこのように見える人がかなりいて強い怒りを感じていたのではないでしょうか。それでは試験にはどのような態度で臨むのがいいのでしょうか。この本は「カンニング」には触れていません。僕は「損だからカンニングはやめなさい」と言っていますが、河合ならなんと言ったでしょうか。彼はこの本を書いた4年後に53歳で逝去しています。『学生に与う』は現代教養文庫(社会思想社)の一冊として現在も読まれています。(1999年4月)


その2−顔−

 井の頭線の高井戸駅から学校に通っています。朝、アパートから駅までの道で多くの人とすれ違います。六・七十人くらいでしょうか。高井戸には大きなコンピュータ会社がありそこに出勤する人達です。何時の間にかその内の何人かの顔を覚えてしまいました。自分の顔よりも上手に似顔絵が描けるかもしれません。もちろん顔を記憶していること以外は他に何も知らないのですが、たまに何日か見かけないとどうしたのかなと気に掛かったり、顔を見かけて安心した気分になったりします。高井戸に住み始めて3年になりますが、大勢の内で何人かの顔だけがはっきり記憶に残っているのはなぜでしょう。何かきっかけがあったかなと思い返してみても別段思いあたりません。普段、人の顔や名前など覚えようとしてもなかなか覚えられないことが多いのに不思議な気がします。全くの偶然なのかもしれませんが、ひょっとして人それぞれに気に掛かる顔付きが決まっているのかもしれないなと思ってみたりします。そして、それはさらにひょっとすると一目惚れなどと関係しているかもしれないなと勝手なことを大学までの通勤途中、電車からぼんやり外を眺めながら考えることがあります。(2000年4月)


その3−麻生磯次−

 「大体私は校長だの学部長だのやる柄ではない。できることなら、そういう雑用から離れて、のんびりと暮らしたいのである。面倒な仕事にあくせくするよりも、書斎に閉じこもって、好きな本を読み勝手なことを書いている方が、遙かに賢明であり、また安全であることも知っている」。こんなことをぼやいているのは初代教養学部長矢内原忠雄の後を継いだ麻生磯次です。この文章は昭和27年1月発行の教養学部報「草創の礎は据えられた−学部長の独り言−」から取ったものです。麻生は第一高等学校(教養学部の前身)の校長も勤めており、昭和25年3月、一高が廃校になる時に正門に掛かっていた一高の門札を取り外した先生でもあります。現在はその後に東京大学教養学部の門標が埋め込まれています。

 麻生は大正3年に一高第一部甲類(英法科、文科一類がこれに近い)に入学しています。同級生のほとんどは法学部に進学しますが、彼は進学先を文学部の国文科にしました。なぜでしょう。彼は『私の履歴書』(日本経済新聞社)の中で次のように言っています。「自分のような小心で意気地のない者は、この生存競争のはげしい世の中にでてはたしてやっていけるだろうか、というような不安な気持ちになった。役人、銀行家、会社員、裁判官などと世の中に職業は多いが、どれもこれも私には不向きなような気がした」。そこで彼は特に好きというほどでもないけれど、たまたま国語の成績だけはよかったのでつい国文科に進んだというのです。80年以上も前の話ですが今でも似たようなことがあるかもしれません。麻生は国文学者として江戸文学、特に西鶴や芭蕉の研究で優れた業績を残しています。(2001年4月)


その4−太田宏次さん−

 教養学部が発足して三年目、昭和二十六年四月に松本深志高校から一人の生徒が理科J類に入学しました。太田宏次さんです。彼は高校では生物の微小な世界に魅入られ、ニンジンに含まれるカロチンについても研究したそうです。そんなこともあり、大学では生物・農学・医学関係に進学する理科K類を希望していました。それがなぜ理科J類に入学することになったのでしょう。

 入学試験が近づき願書に理科K類と記入して担任の先生に持っていったところ先生は「日本は戦争に負けて復興を急ぐ必要がある。それには工業立国しかない。君も工学部に行って将来の日本のために頑張れ」と言われたそうです。彼はなるほどと合点し、願書に万年筆でKと書いてあるのをカミソリで削ってJにしたのだそうです。この話は「わたしの道」(読売新聞)から取ったものです。太田さんは現在中部電力の会長です。

 太田さんは駒場時代は仲間と人生論や哲学などを語り合ったそうです。そして二年後、進学先として工学部の沢山ある学科の中から電気工学科を選びました。彼はこう言っています「当時、電気工学科は進学希望者が一番多くて、皆が希望するのならそこが一番いいのではないかと、漠然と考えていたんです」。確かに、昭和二十八年度の進学振分けでは電気工学科は定数四十五名に対し志望者が七十九名と工学部では最も人気のある学科でした。電気工学科は現在の振分け部門では電気系A(エネルギー・制御・環境)にあたります。ちなみに冶金学科も当時の人気学科の一つでしたが現在ではその名前はありません(マテリアル工学科がその流れを汲んでいます)。(2002年4月)


その5−迷う力−

 駒場キャンパスの東のはずれに南北に細長く伸びたへちま形の池があります。現在は立入禁止になっており、池があることを知らない人も多いと思います。僕は以前この池で友人のMさんからスルメイカを使ったザリガニ取りを習った楽しい思い出があります。本郷の「三四郎池」に対して「一二郎池」あるいは「美禰子池」と呼ばれています(構内のキャンパス案内図には「一二郎池」と記載)。「三四郎池」は漱石の小説にちなんだ俗称ですから三四郎が恋した「美禰子池」としたほうが趣があるのでは。そんなふうに感じるのは美禰子の姓が僕と同じ里見だからかもしれませんが。

 田舎の高等学校(熊本の第五高等学校)を卒業し東京の大学(東京帝国大学文科大学)に入学した三四郎は美禰子と出会い彼女が発した迷える子(ストレイ・シープ)という言葉に惑い、そして幸せな気持ちにもなっていきます。小説は原口さんが描いた美禰子の肖像画「森の女」の前で今度は三四郎が口の中でストレイ・シープと繰り返すところで終わります。東京に出てきた三四郎は広田先生、野々宮さん、与次郎などそれぞれ独特の個性を持った人達と巡り合い、新しい世界を知り、これまでに考えたことのない事柄に出会い、あれこれ迷うことを発見します。自分が迷羊だと自覚することは新たな出発点を見つけることなのかもしれません。(2003年10月)


その6−西村秀夫さん−

 皆さんが今読んでいる教養学部報が創刊されたのは昭和二十六年四月、教養学部が創設されて三年目の春のことです。生みの親は初代学部長矢内原忠雄です。矢内原は同じ時期に学生部教官室も設置しています。いずれも新大学制度の下、多数の学生(当時は四千名)を擁することとなった教養学部で教官と学生のコミュニケーションを図り、相互の信頼関係を築くことを目的としていました。進学情報センターの資料室には教養学部報の第一号が掲示してあり矢内原先生の創刊の辞「真理探求の精神をー教養学部の生命ー」を読むことが出来ます。同じ紙面の教官動静の欄には学生部の新任教官として早野雅三と西村秀夫が赴任したことが記されています。学生部教官室ではどんな仕事に取り組んだのでしょう。西村先生が教養学部報にお書きになった文章などを参考に紹介してみます。

 最初の頃は敗戦から間もない当時の経済状況もあり、学生のアルバイトに関する事が主要な仕事の一つだったようです。昭和三十年の秋、一つの事件が起こります。一人の東大生がある悩みを抱いて井の頭線に飛び込み自殺をしたのです。級友達は大きなショックを受けました。クラスの中にお互いの悩みを話し合える雰囲気があったなら自殺は防げたのではないか、そんな反省から週一回いろんな先生を招いてのクラス雑談会が生まれました。クラス雑談会は多くのクラスに拡がり、さらに自分達の経験を新入生にも伝えるようになります。それを手助けしたのが西村先生です。これが皆さんの多くが参加した学生オリエンテーションの始まりです。西村先生は昭和四十二年、新設された進学相談室の担当になります。彼は相談に訪れる学生に次のように尋ねるのが常だったそうです。「そんなにあなたは苦労してその学科に行きたいの?どうしてなの?」と。

 西村さんは昭和十一年第一高等学校(教養学部の前身)に入学、理学部化学科を卒業。しかし、専門の化学の道には進みませんでした。東大を退職後は身体障害者の自立支援の仕事をなさっています。多くの学生のよき相談相手だった西村さん自身は自分の進路をどのようにお決めになったのでしょう。駒場のよろず相談所としての役割をはたしてきた学生部教官室は東大紛争後の昭和四十四年の秋に廃止になりました。進学情報センターはその役割の一部を引き継いでいることになります。(2004年4月))


その7−夏目漱石−

 夏目漱石が建築家志望だったことを知っていますか。漱石は明治十七年十七歳で大学予備門(教養学部の前身である旧制第一高等学校の前身です)に入学します。同級生には伊予松山から出てきた正岡子規がいました。この頃の漱石は「英語と来たら大嫌いで手に取るのも厭な様な気がした」というくらいで勉強の方には身が入らず遊び暮らしていたようです。おまけに二年生の時に腹膜炎にかかり学年試験を受けることができませんでした。追試験を受ければ進級の可能性もあったのですが、ここでひと考え、自主留年(落第)して真面目に学業に専念しようと決心します。その後はうって変わって首席を通します。数学などもよくできたので、まわりの友人達も漱石は理科に進むだろうと予想していたそうです。実際、三年生になる時には専門を決める必要があり、彼は「此方が変人でも是非やって貰わなければならない仕事さえして居れば、自然と人が頭を下げて頼みに来るに違いない。そうすれば飯の喰外れはないから安心だ」との理由で建築科を選びます。しかし、留年したために同級生となった畏友米山保三郎が文学をやるように強く勧めた為、考え直し英文学を専攻することにしたのだそうです。この話は漱石全集の談話の項『落第』に載っています。

 余談ですが子規は大学には入学したものの病気のせいもあり明治二十五年に中退し、好きな俳句の道に専心します。子規の名に因んだ俳句雑誌『ホトトギス』に漱石の『吾輩は猫である』の第一回が掲載されたのは明治三十八年、今から百年前日露戦争中のことです。漱石の進路に大きな影響を与えた二人の友人、米山は明治三十年に急性腹膜炎で、子規は三十五年に肺結核で亡くなっています。(2005年4月)


その8−寺田寅彦−

 東京大学が創設されたのは明治十年四月十二日です。皆さんは教務課から配布された授業日程を見て、なぜ授業が始まった後に入学式があるのか不思議に思ったと思いますが、創立記念日に入学式を行うしきたりが守られているためなのです。長い歴史のある東京大学、これまでにどの位の数の先生が教鞭を執ったのかなと考えていたら、妙なことが気に掛かりました。「東京大学の先生の中でもっとも親しまれ人気のある先生は誰かな」。いろんな先生を思い浮かべ、寺田寅彦ではないかなと思い付きました。

 文人物理学者、寅彦の随筆は今も多くの人に愛読されているのではないでしょうか。ぼくが好きなのは『薮柑子集』の最初に収められている「団栗」です。明治三十四年二月三日、日曜日の午後、奥さんと小石川植物園に散歩に行った時のことが出てきます。奥さんは落葉の間に沢山の団栗がころがっているのを見つけます。妊娠中で肺を病んでいた奥さんは寅彦が身体を気遣って止めるのも聞かずどんどん団栗を拾い続けます。その様子を記述した文章が何ともいえません。奥さんは次の年に亡くなります。青年寅彦の寂しい気持ちが静かに伝わってくる名文です。公園や道端で思い掛けず団栗を見つけるとついこの文章を読み返したい気分になります。

 明治三十八年一月、『ホトトギス』誌上に漱石の「吾輩は猫である」が、続いて四月に「団栗」が掲載されました。漱石は寅彦の旧制第五高等学校時代の英語の先生、そして彼が生涯を通じてもっとも敬愛した先生でした。学生時代、たびたび漱石の下宿を訪れ俳人漱石に作ったばかりの俳句の添削をしてもらうのが楽しみだったようです。ところで文学に大いに興味を持っていた寅彦が物理学を専門に選んだのはなぜでしょう。それは五高時代に数学と物理を教わった田丸卓郎の影響です。彼は次のように書いています。「田丸先生の物理の講義を聴き、実験を見せられたりして居ると、どうしても性に合はぬ造船などよりも、物理の外に自分のやる学問はないといふ気がして来た」。寅彦の父は将来性を考え造船学を専門にすることを強く勧めていたのですがそれを説き伏せて物理学に鞍替えしたのです。旧制高等学校時代にすばらしい二人の恩師に出会ったことは寅彦にとって幸せだったと思います。二人の先生と親しくなったきっかけがいずれも試験に失敗した友人の救済を頼みにいったことだったというのも当時の学生の気風をうかがわせる面白いエピソードです。これらの話は矢島祐利著『寺田寅彦』に出ています。旧制高等学校は現在でいえばほぼ駒場の前期課程にあたります。(2006年4月)


その9−加藤周一さん−

 昨年十二月八日、九〇〇番教室で興味深い講演会が催されました。「老人と学生の未来ー戦争か平和か」、講師は評論家加藤周一です。聴いてみたいなと思っていたのですが同日同時刻に経済学部の平成二十年度の進学ガイダンスがあり、進学情報センター担当者としてはこちらを優先せざるをえませんでした。余談ですが経済学部では平成二十年度進学振分けから六十名の全科類進学枠が導入され、翌二十一年度からは金融学科が登場します。経済学部を進学先に考えている方、特に文科K類の皆さんは進学に際して十分注意を払ってください。

 加藤周一さんの話に戻ります。加藤さんは評論家、作家として有名ですが実は医学博士でもあります。昭和十一年旧制第一高等学校(教養学部の前身です)理科乙類(現在の理科K・L類がこれに近い)に入学。本郷にあった一高が駒場に移転してきたのは昭和十年の九月十四日ですから最初から駒場で学んだ初めての学生の一人です。彼は三年間の寮での共同生活でいろんな学友に巡り会います。「ある学生は学校の授業によく出席して、夜おそくまで勉学に励み、また別の学生は、授業にはほとんど出ず、昼間は自分の好みの本を読み、夜はおそくまで街に遊んでいた。ある者は突然ひとりで旅に出て、一週間も一〇日も姿をみせず、またある者は運動に凝ってふだんは何もほかのことをせず、試験のまえになると気狂いのように本を読んで成績がよかった」。そして彼自身に関しては次のように記しています。「駒場の三年間に私が経験したのは、寄宿寮の共同生活や何人かの教師たちとの接触ということだけではなかった。私はまた歌舞伎座を見物し、築地小劇場へ通った」。軍国主義の波が押し寄せていた時期ですが、彼の進路に大きな影響を与えたのは一高での友人や教師との交流、そして好きな芝居見物だったように思われます。ここで引用した文章は加藤周一著『羊の歌』(岩波新書)からのものです。駒場で学んだ大先輩、加藤さんの『羊の歌』とそれに続く『続羊の歌』読んでみませんか。ちなみに羊の歌としたのは加藤さんが大正八年ひつじ年生まれだからだそうです。(2007年4月)


その10−藤原正彦さん−

 ベストセラー『国家の品格』の著者、藤原正彦さんは皆さんも知っての通りお茶の水女子大学教授、本業は数学者です。昭和三十七年、理科一類に入学、進学先は理学部数学科、整数論が専門です。余談ですが藤原さんが数学科に進学した年、ぼくは理科二類に入学しました。同じ頃に駒場で学生生活を送ったというだけですが何となく親近感を覚えます。進学情報センターを担当していることもあり藤原さんはいつ頃数学者になろうと決めたのか知りたくなりました。

 昨年十一月、読売新聞朝刊の「時代の証言者」に藤原さんが登場「数学と品格」というテーマで二十五回にわたり自伝が連載されました。その中で「数学者になると決めたのは五年の時。一九五四年、小平邦彦先生が日本人で初めてフィールズ賞を受賞、華々しい話題になったのに刺激されたのです」と語っています。さらに続けて「六年の時、父が『大学案内』という本を買ってきて、東大理学部数学科の所を開き『この定員十五名が日本で一番頭のいいやつだ』と言った」それを聞いた藤原少年は即座に東大の数学科に行くことに決めたのだそうです。引用文中の父は新田次郎、また現在の数学科の定数は四十五名です。ぼくはこれを読んで「うん、こんな単純で面白い学生、今の駒場キャンパスにもいるんだろうな」と思いました。自分の才能を信じ、一度決めたら迷うことなく思った道を突き進む。羨ましい気がします。

 藤原さんの母親は藤原てい、『流れる星は生きている』の作者です。この小説、ぼくは以前文庫本で一気に読んだ記憶がありますが、には太平洋戦争の敗戦に伴い、母親と三人の子供達、その内の一人が当時三歳だった藤原さんです、が満州から日本へ一年余りをかけて必死の思いで引き揚げてくる様子が描かれています。この時の体験が藤原さんに大きな影響を与えているように思います。(2008年4月)

『教養学部報』より

戻る