僕の好きな人


 世の中なんてものは所詮、名を揚げたいだの、金儲けをしたいだの、他人の歓心を買たいだの、人の機嫌を悪くしないようにしようだの、誰々を追いこしてやろうとか、追いこされないようにしようとかいうことにとかく頭を働かせているのが常である。

 こんなのが世間だと思っているから好いた好かれただの、私ゃあの人でなけりゃいやでござんすなんていうのは、これが世の中の常と言ったって、小説じゃあるまいし、馬鹿馬鹿しくなってしまう。もっともこういうことをくだらないと思ってもしょうがない。この辺に人間の心の面白味なんてものが有るのかもしらん。

 ところで僕の好きな人ということになると、これはやはりまず女の人ということになる。好きといったって度胸がすわっていないから、別れるなんのってことには少しもならない。くだらないとか、面倒だとかいったってやっぱしそこは人情のおもむく処でしょうがない。

 女の人を別にして考えてみれば自然、男ということになる。男ということになるとこちらの好き嫌いの情がはっきりしてくる。それで今迄にもこの人はいい人だ、好きだと思ってその人の書いたものや、伝記などを少しばかり読んでみたこともある。読んでいる時はまじめに読んでいるから、なる程いい人だ、と思いながら読んでいる。こんな立派な人はちょっといないだろうと思っている。ところがこんな気持ちはなんというか、「人類は確実に滅亡すると確信しながら、人類は永遠に生き続けるだろう」と信じているようなものである。時期が来ると、何が主張だ、くだらないと思うようになってしまう様な気がする。また、悪い奴だと思っても直接頭でもたたかれたのでなければ、そういつまでも悪い奴だと思っていることもなかろう。そんな気がする。要するに僕が好きだと思うのは、人そのものというより、人がかもし出す一種の人情のようなものである。

 この前金沢先生が話しておられたが、アインシュタインは死ぬまで量子力学を信じなかったという。彼によって完成されたともいうべき古典力学があまりにも美しかったからだという。これなどはあたかもしっとり落ち着いた優雅な大和ナデシコにぞっこん惚れ込んでしまい、後で色目を使って現れた体格豊かなブロンド美人には目もくれないという感じを与えて大変好もしい気持ちになる。(『基礎科学科自治会報8』 1966 より)

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