僕の仕事
生まれたばかりの二十日ネズミから取り出した未発達な脳を試験管に移し保温器の中で飼ってやると、試験管中の脳はあたかも生体内にあるかの様に発達を始めます。アメリカにいたころある知人に仕事の話をしていたら「それじゃそのネズミの脳が育つといったい何を考えるようになるんだろうね?」と問い返され、ちょっと困って「私の考えによれば、外に取り出され裸になった脳は身体の中にある場合とは異なり‥‥‥」とたどたどしく言いかけた時、彼の子供が急に騒ぎ出しその話はそれまでになりました。今でも時々その時のことを思い出し、どんなふうに答えたらいいのかななどと考えてみたりします。
昨年から今年にかけてこの試験管内の脳で行なわれる神経伝達物質の合成の様子を調べていて、最近どうにか論文にまとめ投稿しました。投稿後は雑誌のレフェリーの審査を待つことになります。つまり内容が不十分であればボツ、水準に達していると判断されれば掲載という訳です。投稿してすぐは何となくほっとした気持ちです。小学生のころ夏休みの宿題を母親に責付かれながらやり終えた時の気分に似ていないこともありません。実際、論文を書くペースは僕の場合は1年に1回というところですから。
雑誌の編集者から返事がくるまでは何となく落ち着かず心配なものです。大体自分から積極的に取りかかる時、例えば入学試験とか入社試験あるいは結婚の申し込み、その他馬券を買ったりバーゲンセールに行く場合でも、期待が大きければ大きい程、結果がでるまでは心配の度合いもそれだけ大変なものになります。逆に嫌々とか他人に勧められたからという場合は心配も少ないかわりワクワク、ドキドキする楽しみも小さいものになってしまいます。期待通りに事がはこんだ時には嬉しさがこみあげてくるのが一般でしょうが、論文の場合には簡単に採択と決まった場合(実際にはそんなことはあまりない訳ですが)むしろ拍子抜けした気分になり、いろいろコメントが付いてきた時の方がかえってはりあいがあったりするから妙なものです。好きでやっているといっても論文を書くのは仕事の一部ですから考えてみればいろんな気持ちが複雑にからまりあっているのでしょう。
試験管の中のネズミの気持はとてもわかりませんが、おかげで自分自身の気持については少しずつ解ってくる様な気がします。(『轍』1985 より)