朝 と 夜
もう十年程前のことですが、夜、実験の結果をまとめていてノートにネズミと書こうとしたところ、ネズミの「ネ」の字が書けないことに気付きました。何だか変な感じなので、アイウエオ、カキクケコ・・・と順番に書いてみましたが、やはりうまく思い出せず、癪だからそのまま寝てしまいました。翌朝、目が覚めたら何ということなく「ネ」の字が思い浮びました。要するに度忘れですが、あまり慣れ親しんでいる文字を忘れたことでびっくりしたせいか、その時の事はよく憶えています。その後、なんとなく自己観察していると知っているはずの事を思い出せない感じは朝よりも夜に多いようです。少し趣がちがいますが、夜「これは面白い」などと思ったアイデアが朝になると案外つまらないものに見えたりする事が時々あります。こんな経験のせいか、夜はできるだけ面倒なことは考えないようにしています。もっとも、本音はゆっくりお酒を飲みたいだけかもしれませんが。
それにしても、朝と夜では頭の調子がかなり異なっているのは確かです。読書を例にとると、僕の場合、同じ一日の内でも、朝の通勤時は軽い雑学的読物、お昼は少し理屈ぼいもの、夜は人間くささの溢れた小説類といったふうに変化するようです。同じ様な事は食物の好みにも見られます。理屈をつけてみると、読書も食事もそれぞれ直接使う器官はちがうけれど、それを意欲するのは頭だということでしょうか。実際、頭の中には何か一日の雰囲気を造りだしている個所があるのではないかという気がします。この雰囲気というのは、自分が積極的につくりだすのではなく内から自然にでてくるもののようです。聴きたい音楽、身につけたい衣服も、一日の内で微妙に変ることがありそうです。人とのいさかいにしても朝から喧嘩しているのはきっとよほど深い訳でもあるのでしょうが、ちょっとした切っ掛けでかっかしたりするのは、断然、夜の方が多いんじゃないでしょうか。
友人の中には夕方になると、きまって飲みに行きたくなったり、麻雀をしたくなったりするのがいますが、おそらく誰でもその人特有の一日のパターンを持っていて生活の調子をとっているのではないかと思います。一見平凡に見える一日、自分自身の気分の変化をゆっくり観察してみるのも一興かもしれません。(『轍』1982 より)