A各地紹介



  1. Madrid[マドリッド]
  2. 1995年02月20日(月)


Kotiraha nandaka sukkari atatakaku narimasita. Nihon no kikouha ikagade syouka. Watasino jyugyoumo oto 2kagetsu sorega owattara kikokudesu. Nandaka nagaiyouna mijikai youna...
(K.A.、1999年04月12日投稿)

−グラナダ、スペイン−
私が滞在していたのは、スペインのグラナダというアンダルシア地方のちいさな町でした。今通っている学校の先生に最近聞いた話によると、外国人にとって一番すみやすいのはグラナダだと彼は言っていました。アンダルシア地方というのはスペインの南にあって、日本人が想像する「スペイン」に一番近い地域でしょう。青い空、白い壁の家、明るい人々。スペイン文化とイスラム文化の混ざり合った地、グラナダはそんなところでした。迷子になっても(スペインにいても方向音痴を発揮してしまった私でした。)街の人は親切に道を教えてくれるし。夜遅くに一人で歩いても何の危険もありませんでした。でも、ジプシーの人たちとは生活の区域がまったく違っていて、そこに不用心に入ってしまうと身包みはがされて帰ってくるという話です。きっとその地域の生活習慣というかそういうものに順応する事が大切なんでしょう。スペインの他の地域ではもっと危険な事もたくさんあるみたいです。人を見たら泥棒と思え!って心持ちでいないといけないような所もあるみたいです。
 グラナダ大学の外国人コースにいたのですが、クラスは一緒に行った学校のメンバーを3クラスに分けて授業を受けていました。1日3時間の語学の授業と1時間の歴史文化の授業でした。歴史の授業だけは皆いっしょに受けていたのですが、なぜかそのクラスのマリ・カルメンというこてこてスペイン人といった名前の先生に私の名前を覚えられてしまい、たいしてスペイン語も出来ないのに(もちろん歴史の授業といえどもすべてスペイン語で行われるのです)「K.A.、今のを日本語に訳して皆に説明して」などと御無体な事を言われて結構冷や汗ものの日々でした。でも、学校はまだよかった。周りは皆日本人だもの。問題はホームステイ先の家にいるとき。私がいた家は、40代くらいのお母さんと12歳の娘の2人家族。ステイをしているのは私1人。アメリカなんかは善意でホームステイを受け入れるという噂ですが、スペインではホームステイは立派なビジネスなのです。だから、当たり外れも大きい。幸い私の家はかなり良い方でした。それでも、大学で一通り習った文法の知識など何の役にもたたず、初めてのその家に行ったときはおばさんが何を言っているのかさっぱりわからなくて学校で少し英語を勉強している娘が英語で通訳してくれた。しかし、彼女の英語力も、私の英語力も素晴らしく低かったので、なかなかひどいものでした。日記を毎日つけていたのですが、今読み返すと泣き言ばっかり。「後何週間で日本に帰れる」とか、「全然言葉が通じない」とか。でも、4週間くらいのホームステイも半分くらい過ぎた頃にはずいぶん生活にも慣れて、相変わらず言葉は通じなかったけど、身振り手振りで笑いをとってみたり関西人の(誰が?)本領発揮といった感じでした。ただ一つ、他の人と違う事をしたといえば、スペインに留学をした人が一番の思い出とするBar(日本の居酒屋とディスコと足して二で割ったようなお店。昼間は喫茶店のようです。)での夜遊びをあまりしなかった事です。
さっきも書きましたが、私のいた家は私を入れて三人家族、学校の授業は午後の部だったので皆は授業が終わるとすぐにBarに行きます。家では私が学校から帰ると「キミが帰ってきたから夕食にしょう。」といった具合に夕食を待っていてくれるので皆と一緒に夜遊びに行けなかった。その頃は日本人の友達といっしょに飲み歩くより家にいた方が勉強になるから別に不満は全く無かったのですが、よく考えてみれば明るいスペイン人の事、Barでスペイン人と友達になるといった手もあったなあと思う今日このごろです。でも、当時の語学力じゃまともに会話できなかっただろうけど。(今もたいして進歩はしてないけど。)うーん、たいして参考になるようなことがないなあ。こんなにいっぱい書いてしまったけど、内容がないよー。(あっ、おやじギャグ。)
(K.A.、199年0月日投稿)