家族で俳句を楽しむ
私は素人ながらに俳句を楽しんでいる。
特に専門的に習ったことはなく、時折歳時記を読み、気が向いたら作る程度である。
日本人は小学校で必ず俳句を習い、長年にわたって俳句に触れることになるのだが、通常は俳句を作ってみようとは思わない。それが何かのきっかけで始めるのである。
私の場合は、結婚直後に妻と年賀状に俳句を並べて書いてみよう、ということになって、遊び心で始めた。詠んでいるうちにだんだんおもしろくなり、子供も加わって次第に賑やかになった。専門家から見れば荒削りだが、楽しむことが目的なので細かいことは気にしていない。それが俳句を続けるコツでもある。
ここで、俳句の一通りの基本を説明しよう。
俳句には2つの約束事がある。
1つは、5・7・5の17字でできていること。これを定型という。
もう1つは、季節を表す言葉(季語)があること。
定型は、5・7・5の日本語におさめることにより俳句独特のリズムを作り出している。
作者の詠むリズムが読者にそのまま伝わることが大切である。
時には17より多い字余りや、少ない字足らずもあるが、できるだけ17字におさまるのがいい。
季語とは季節を表す言葉であり、一句に一個あればいい。季語は俳句の中心になり、季語により読者はこの句の季節を感じ取る。季節を表す季語はいくつもあるが、自分が感動するもっとも適した季語を使うこと。
定型と季語が俳句の基本になっているのは、日本語の端的な美しさと奥深さに加え、日本に美しい四季があることと大いに関係があるように思われる。
ところで、俳句は「切れ字」というのがある。
これは文字どおり句を切るための字で、「や、かな、けり」が代表的。
俳句の途中に使えば句を2つに切ることになり、句の終わりに使えば1句をきりっと終らせることになる。多くの俳句を読んでいくうちにその意味が次第に分かってくる。
切れ字は日本人ならではのもので、慣れない人には使いにくいし、日本人でも使いにくいものである。
俳句の最も大切な姿勢は「写生」である。
写生とは見たものをそのまま詠むこと。
俳句に写生をとり入れたのは正岡子規である。
写生においては、技巧を凝らさないこと、難しい言葉を使わないこと、自分の一番感動したことを淡々と素直に詠むことが大切である。
読者は作者の置かれた情景を思い浮かべながら、作者の心境を想像する。自分に作者と似た経験があればそれに重ねて思い浮かべる。作者はこういう情景で、おそらくこういう心境でこの句を詠んだのだろうな、と想像しながら読む。想像力の豊かな人ほど俳句を鑑賞できる。従って俳句は高尚な知的ゲームといえる。いかようにでも解釈される俳句ほど親しみが持て、多くの人に長く親しまれる。そういう意味で、日常よくある単純な光景がいい材料になる。
俳句を作る時に配慮するもう1つの点は「切り捨てること」である。
不要な表現を捨て、思いきって言いたいことだけに絞る。それにより詠み手の感動がいきいきと読者に伝わり、句に余韻が生じる。いかにも言葉の少ないことを美しいと考える日本人ならではである。
俳句の一般的な解説はこれくらいにして、これまで年賀状に載せた家族俳句数点を以下に紹介する。
しもばしらふむ足元にメロディオン
これは娘が11歳のときのものである。
朝、学校に通う時に道端の霜柱を子供たちが面白がって踏んで歩く。霜柱を崩す音がいくつか重なってメロディとなって聞こえる。娘は丁度、学校でメロディオンを習っていたときで、家でも練習していた。この句は霜柱を踏む音がメロディオンに似ていることを詠っている。登校時の子供の姿が目に浮かぶ。
冬の夜羽痛めた鳩さまよひて
12月上旬のある寒い夜中に、息子が「外でクウクウと変な音がする」と言うので行ってみると鳩がうろうろ動き回っている。捕まえてみると羽に血がついている。おそらく帰りそびれて巣を探しているうちに羽が何かにぶつかって傷ついたのだろう。というのは、事情のわかる者の解釈だが、誰にでも似たような経験があって、特に子供時代には動物を可愛がった体験があるものと思う。息子が中学生の時の句である。さまよひて、で終っているので余韻を感じさせる。
北風を行く街々にシクラメン
妻の詠んだ歌。
クリスマス前の時期である。シクラメンの暖かくて柔らかい花がどのお店の前にも並んでいる。赤、ピンク、紫、白。鉢に入った色とりどりの花である。
夕方近くの寒い商店街を襟を立てて進んでいく。歌が流れ、寒風と賑やかさが同居している。
二人してかえで踏む音古都の道
これも妻のもの。11月の下旬に京都に行った。紅葉がきれいだった。街外れの小路に枯れ葉が落ちて、それを踏むとかさかさと音がする。50歳近くなって、そういう雰囲気の中を夫婦で歩きながらしんみりした、というのは私の読者としての印象だが、さて妻はどういう心境で詠んだのか、聞いてみたことはない。
あどけなく結ぶ手ゆるむ沈丁花
沈丁花の花芽をじっと見つめていたら、それが赤ん坊の手のように見える。冬の陽を浴びて次第に開きかけているものもある。花が開いて咲くまではあと3ヶ月もある。それなのに、もうその準備に入っている。こんな小さな植物にも春を待ち望む心が宿っているのかと思えばいとおしくなる。なお、これは擬人法といって、花の芽を人間の手になぞらえている。
葉がポトリ小枝の子雀顔キョトン
最近、私はますます単純な句調になりつつある。
これは、小春日の昼下がりに雀の子がきて枝を動き回っていたときのこと。つついたわけでもあるまいが落ちかけていた葉っぱが一枚落ちてしまった。ポトっと音がしたような気がし、一瞬、雀がおやっとした表情を見せた。といってもすべてこれは作者の想像。叙情的な状況を表している。ポトリは擬音語。キョトンは擬態語。
俳句は、まず作ってみることである。そして、出来るだけ機会を見つけて多くの俳句に接する。そうすると、次第に俳句というのものがわかってくる。それを続けているとだんだん自分の句風ができて楽しくなってくる。