そこにユートピアは現されていたか?
『おたく:人格=空間=都市』
の凱旋展示を見てきました。

text : 岡野勇

2005/03/01


 恵比寿ガーデンプレイスの東京写真美術館で行われている『第9回ヴェネチアビエンナーレ建築展日本館展示 おたく:人格=空間=都市』の凱旋展示を見てきました。

 「何それ?」という方に。↓こういうものです。(このサイトに来る人で今更「何それ?」な人はたぶんいないと思いますけど…)
公式サイト
http://www.jpf.go.jp/venezia-biennale/otaku/j/


 あ、正式タイトルでは「おたく」とひらがな表記ですが、「文章にした時にはカタカナで置いた方が読みやすく思える」という僕の考え方で、以下の文章では「オタク」とカタカナ表記してあります。


 相当に見たかったものなんですけど、さすがにイタリアまで行けるわけもなく。
 旅費とか以前に僕の場合は、おそらく飛行機での長距離移動が精神的に耐えられそうにないんで。

 で、実際に見るとなんちゅーか「北海道展を札幌で開催するようなもの」というか、複雑な物があります。(^^;;
 そのへんはまあ、本拠地の人間としては当然の感覚として致し方なしですか。
 別の言い方すると「そこで表現されている秋葉原など」に対して、それほど違和感がないわけですよ。
 「全く知らない人が勝手な思いこみで作っちゃったモノ」であったりしたなら、その違和感ってのは必ず生じていたと思うのだけど、そういうモノがほとんど無い。
 「空間概念圧縮装置」とかSFマシンがあって(笑)、オタクとそれを巡る「環境」というものを圧縮したら、たぶん間違いなくああなる。
 その意味で「あれはやはり上手く表していた」のだと感じました。

 同時に、アレをイタリアで見せられた外国の人たちには、相当にインパクトだろうなあ…とは思いましたね。
 解説では「イコン」という言葉が使われていますが、わかりやすく書けば「おたくと、オタクをとりまく秋葉原という街や、コミケなどの環境そのものを、凝縮・カリカチュアしたかたちで概念として描き、再現であり表現をしている…」という展示です。
 主な中心として据えられているのはここ数年の秋葉原文化ですが、改めてあの街の特殊性というかな。「世界に類がない街である」ということを再認識させられました。


 ただ、個人的にはそこで表現されている物に対して疑問を全く感じなかった…ってワケでもなくて。
 それは「あれはオタクを間違っている!」とか展示内容そのものの出来についてではなく、そこに持ち込まれている「理由」のような物に対し、オタクとしての僕ってのはやはり違和感を感じてしまった。
 それは以前の『オタク危機』でも書いたような、「こういうものが“オタク”というものであるとされ始めてしまっていることに対する違和感」に近いんですが。
 というのも、「“事実”を知っている者として見た場合、アレは相当に秋葉原に幻想を投影しすぎてやしないか?」と。


 これを強く感じた部分が僕は2つありました。
 1つは「レンタルケースの再現」。
 ケースのナンバーシールデザインとか、あれのモチーフはたぶん間違いなくラジオ会館7階のボークス「お宝クラブ」のケースです。僕も時々行きますが。
 で、これの

 ●中に入っている物に付けられている値段があまりにもファンタジー。
 ●レンタルケースという物を取り上げた理由である「ケース契約者であるオタク自身の部屋やパーソナルが、小さなケースという空間に再現されている」という考え方自体が間違っている。
(昨年先行して発売されたフィギュア付きのカタログでは「個々のケースは、一つ一つがミニチュアな個人商店であると同時に、出店者の趣味を濃縮させた個室でもある」と記されています。)

 前者に関しては本物のレンタルケースを何件か見て回ればわかりますが、「あの中に飾ってある多くの物について、実際にあの値で出されているようなことはまずあり得ない」。
 ありゃ、レンタルケースというものが出現した初期の初期頃の「いらないものを処分で売っていた人のケース」で付けられていたような値段です。(GFF『ディープストライカー』が“箱無し”とはいえ5000円…? ガチャポンが100円〜300円?)
 で、「それがなんで今はあり得ないか?」といえば簡単で、それが後者への否定であり違和感なんですけど、「今レンタルケースを契約して使っているのはオタクでも何でもない、ただの転売屋がほとんど」だからです。
 それゆえ前者のような「ファンタジーとも言える良心的な価格」なんてものは存在していないし、「契約しているオタク自身の部屋が持ち込まれているわけでも、趣味性が反映されている小さな空間でも無い」わけです。だって契約しているのはオタクじゃないですから。
 つまりレンタルケースは、確かに登場時には「オタク的側面が強かった」ものですが、アッという間(それはもうたった3ヶ月とかそこいらで)、「ソレ自体はオタク的な物ではなく、あくまでオタクをターゲットにした物」になったわけです。
 店側の労力はほとんど必要ナシに放っておいても金が入ってくるので、最近は秋葉原でやたらと増えているレンタルケースですが、正直僕はこれを「オタク文化に密接な物でも、文化の表れ」だとも思っていない。
 あえて言うなら「オタク文化に寄生しようとしている存在」だと思っているし、実はあの存在自体はオタクでも何でもない。それが僕の考え方。そしてそれは正解だと思っています。
 しかし「秋葉原に増加している」という現実はあるわけで、その現実部分に過剰なファンタジーと解釈を持ち込みすぎていやしないか? と。

 ※ただ、これを「レンタルケースという物の再現・表現・イコン」ではなく、「小さく凝縮されたオタク個々の部屋などのパーソナルスペースについてのイコン化」という解釈をするのであれば、あれは素晴らしいアイデアであり表現であるとは思っています。しかしその場合、あの「値札」はいらないだろとは思いますが。


 もう1つはものすごく根本的なことであり、前述の評価とは矛盾したことに聞こえるかも知れないんだけど…

 「秋葉原を過剰に評価してやしないか?」ということです。

 もしかすると前にも書いたかも知れないのだけど、僕、最近よく言われるような「秋葉原はオタクの聖地」って言い方・言葉には疑問を通り越して、むしろ否定的なんですよ。
 そりゃ僕自身、週に2回くらいは行くし買い物することも多いけど、でもソレって別に「ここが僕の聖地だから!」だとかそういうのではない。
 ミもフタもないこと書くけど「家から近いから」なんです。ものすごく簡単な理由。
 家が近いし、僕の趣味に即した店があるからよく行くってだけ。
 で、近いゆえに家電の街→ゲームの街→パソコンの街→オタクホビーの街の変遷を生で見、体験してきた。
 それゆえに思ってしまうのだけど、

「現在の秋葉原はオタクホビーの街ですから、オタクの聖地です」

 ってのは、言葉や概念として根本的におかしくないか? と。

 あの街のメインストリームってのは数年スパンで完全に変わる。
 別の言い方すると、現在メインであるオタクホビーなんてのも、あとしばらくすればメインではなくなり、まず間違いなくその多くの店は消えていきます。
 メインである物が数年で変化し消えてゆくことが宿命付けられている。
 それが秋葉原の歴史が見せてきたあの街の本質なのだけど、そう考えたときに「あらかじめ消えゆくことが前提にされている聖地」ってのはホントに“聖地”なのか? と。それが聖地という概念で成立し得るのか? と。
 もし、秋葉原に最近(特にここ5・6年以内に)行き始めたような人で「5年後も10年後も今のままである。それゆえあそこはオタクの聖地である」と本気で思っている人がいるなら、僕はあまりにも秋葉原について不勉強だと思うし、変な言い方すると「アキバ素人」だとしか思いません。

 また、根本的なこと書くけど、あの街は「一番売れる物を集めただけの場所」であって、あそこが発信した物ってのはほぼ無い。
 「秋葉原に集うオタク層を中心にして広がっていった物」ってのはあるけど、あの街が生んだ物ってのはない。

 現在…特に90年代後半から今までのオタク文化において、秋葉原という街が特殊であり大きな位置づけや役割を持ってきたのはわかります。
 また、今回の展示のプロジェクトリーダーとも言える建築家・森川嘉一郎氏の提示した「趣都」という「来る人たちの趣味性によって街の在り方そのものを変質させてきた、世界でも類を見ない街」という概念自体は間違っていないと思いますし、それは否定しません。
 けど、それが「オタクの中心であり象徴である」かのようにイコン化してしまうってのはどうなのだろう? と。
 イコン化された展示物としては圧倒的にスゴイと思う。けど、それとこの僕が感じた疑問は「別の問題」です。

 で、僕が何に疑問を持ったのか? は考えるにおそらく簡単なことだと思います。
 なんかここに僕は「オタク」というものが完全に消費物であり、商品(買えるなり何なり出来る“物”)についてのコトである…とすり替えられてしまったような気がしてならなかったわけです。
 悪い受け止め方をしてしまえば、最近の「物をいっぱい買っているのがオタク」的な時代性を象徴しているというか。
 別の言い方すると、僕はあそこを「オタクの聖地だ」と言っている“自称:オタク”の人たちって、以前僕が書いた「ライト層」だけだと思ってます。そして、本質や原典にまで目や知識が行かないのが、僕が書いたライト層の本質であるわけですから、そう考えた時にあの街を「オタクの聖地」だと括ってしまうことは、やはり「オタクの本質」からズレている。
 そのことを見せられたような気がして、僕は疑問を禁じ得なかった。

 以前にも書いたようにオタクというのはすでに細分化しています。
 細分化した先の特撮ファンだとか、それも「円谷にこそオレの魂がある!」だとか、アニメでも「『おねがいティーチャー』最高!」だとか、そういう細分化したそれぞれについては聖地とされている場は存在しています。
 けど「オタク」という(本来のオタクからライト層まで全て含めた)全体像にしてしまった時、そこにいる者達共通の聖地なんてのはあり得ない。
 だって、そもそもの考え方などがバラバラになりすぎたゆえの細分化ですから。
 だから僕は、オタクという集団にとっての聖地なんてのはギリシャ語の「どこにもない場所」。集団の共同幻想が生み出す“場”という「実在しない物の中」にしか存在していないと思ってます。
 つまり「ユートピア」。「架空の理想郷」ですね。

 この部分をすっ飛ばしたのか、わかった上で突き抜けたのか?
 「なんだ。間違ってるじゃん。やっぱ知らないヤツが作ったカンチガイだった」で済ませられるなら、むしろ簡単なんです。
 けど「間違ってはいない」。
 これが見た僕が困惑し考えてしまった最大の理由で…。
 あの場で凝縮されて表現された「秋葉原という聖地」に、僕が「過剰なファンタジー」とすら感じたのもこういう理由です。


 ただ、「なら、オタクという考え方や、その存在の概念そのものなんてものを目に見える物として表現できるのか?」と考えたときに、それは相当に難しいというのもわかるわけで…
(同時に、これについてはいくつか展示されていたフィギュアであるとか同人誌という物が、それを表す“鍵”に成りうるとは思いましたが。つまりあれらをキーに、文脈を提示すればそれは「知らない人」を相手にしても可能ではないか? と。)

 あとまあ、「あくまで“建築展”ですから!」という前提を考えたときに、あの表現はその意味では正しいよな…ってのもわかるものではあるんですけどね。

 批判的なことも書いてしまいましたが、しかしこの“建築展である”という前提(建築物という表現手段でソレを表すという条件)において、あれを見せ切ったというはやはり大きく評価されるべきだと思いますし。
 概念ではなく、現象としての「秋葉原文化」を具現化するなら、あれは見事な表現であったと思います。(秋葉原の変遷を表した建築モデルの表現なんかは感動すらしましたよ。)
 「アニメ」という大きなウェイトを占めるアイテムについても、作品そのものを並べるわけに行きませんから(それに意味がないしね)、「大量の関連グッズとしてのポスターや、ソフト販売告知ポスターを吊し、床にも一面貼られている」というアイデアで表したことには感服すらしました。

 また、前述したような「ファンタジー」と言うことがわかった上でアレを表現したというのであれば、それこそあの展示は、森川氏にとっての理想郷を作り上げたというか、僕らにとっての「ユートピア(架空の理想郷)」をカタチとして表したと言えるわけで、そう考えるとやっぱ「スゴイ」し、見る価値があるものだと思います。
 というか、こういう批判めいたことも含めて「見た側。特にオタクを自称している人間に対して考えさせるトリガーとしての存在」としては、十分に意味のあるものであるなあと。


 同時にやはり、見もしないで安易に(よくありがちな、なんでも「またオタクをバカに・カンチガイしているのか?!」的な批判やら、拒絶をしているライト層ってのに対し、「あ〜あ…」というか、「オタクという当事者があれに興味を示さないというのはどうよ?!」とも思うわけです。


 どうでもいいんだけど、前記のレンタルケース。
 その中の一つに、早くも先日のワンフェスで売られていた『ワンダとリセットのおしゃれ泥棒』が入っていて…
 んで、どう考えてもイタリア展示の時にコレが入っていたわけもないんで、
「なんだよ! イタリアで展示された物そのままの展示じゃないのかよ?!」
 とか、「本場展示よりもプラスされた物を見た喜びを逆ギレで感じる」というのも一興だと。(笑


【了】


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