『ハウルの動く城』を観てきました。

text : 岡野勇

2005/01/15


 年も明け、先週で煮詰まっていた『オタク大賞』も終わったちゅーことでダラけております。
 次の仕事見つけねば…
 ちょっと今年は本業に身を入れたいのココロ。

 んでそんな中。やっとこさ今頃『ハウルの動く城』を観てきました。
 やっとこさ。ホントに今更なんですけど。

 なんか頭の中がうまくまとまりきってないんで、みょうちくりんな感想ですが…



 バッシングしてる人たちが何に対して文句を言ってるのかは(とにかく事前情報を見聞きしたくなかったんで、そういうのあまり僕見てないんですが)わかりやすかったですね。

 以前、リュック・ベッソンの『レオン(初期公開版)』と『完全版』について友人と論争になったんですが、まあそれに近いんじゃないかと。
 僕にとって『初期公開版』って、「ベッソンの最高傑作。これこそ映画!!」と思った映画です。
 同時に『完全版』は「映画のなんたるかも見失った語るに値しない、二度と観たくもない駄作。ベッソンはもう終わった!!」とすら思った、『初期』と正反対の評価の映画。
 この僕のジャッジラインは何だったか? というと「観る側に委ねている部分があるかどうか?」でした。
 『初期』は不親切な映画です。公開当時大ヒットはしたけど、「なんで彼が殺し屋になったのか?」を始め、いくつかの“レオン自身の物語”についてが、(断片的な言葉で何かあったように語られているけど)全く説明されていない。
 「マチルダとの出会いで彼が変わっていく」課程は描かれていますが、彼のドラマってのはほぼ描いていない。
 で、逆に「観る側にソレを想像させ、委ねている部分こそ映画なんではないか?」と。
 ああ、スゲエなと思ったわけです。(あまりの感動に、公開時に8回くらい観に行ったんですが。)

 しかし反面『完全版』は、その僕が最も評価した部分を全部説明してしまった。
 当たり前だけど「委ねられてこちらが想像した“なんか漠然としているけど、思い描いてしまったものすごいドラマ”」をソレは超えていません。
(『エヴァ』劇場版と同じです。あんな状態で受け手のイマジネーションを超えた物を見せることは、オリジナルを作った本人ですら不可能です。)

 僕は本気でガッカリして、もうボロカスでした。

 が、友人は全く逆の評価だった。早い話「全部説明されているから『完全版』の方がわかりやすくていい。単純に観て誰でも話がわかり楽しめるのだから、こちらの方が優れている」。
 その意見が間違ってるとは思っていません。
 ちなみに彼はプロデューサーやってるんですが、見事にPと作家の「物の考え方」で別れてしまった評価のように思えます。



 『ハウル』に話を戻しますが、結局あれをバッシングしている人ってのは「その意図的にそぎ落としてしまっている部分」(それは主に様々な部分への“解説”“説明”“観客にとってわかりやすい理由”)が描かれていないことが釈然としないんでしょう。
 「ふつうドラマだったらソレを説明するのに、なんでこんな不親切なの?!」みたいな。
(「つじつま合っていない」は、そもそも宮崎映画ってのはすべからくそういう物であるので、「今更ナニ言ってんの?」としか思いませんが。)

 ただこれは「その人が映画における物語の見せ方・感じさせ方」を、どういう物であると考えているか? で全く異なってしまう部分であり、「そういう見方だから間違っている」わけでもないので致し方ないというか。
 冷めた書き方してしまえば「今回の宮崎は、そういう人にとって合う物ではなかった」としか書きようがありません。


 んで、僕は? というと、なんだろう。とにかく上手く言葉が見つからないもどかしさが自分の中でモノスゴイんですが、簡潔に書くと「肯定」です。はい。それもモノスゴク。
 なんかね、ホントに久々にスッキリした気分で映画を見終わりました。
 いや、あれでスッキリって、我ながら偏屈だなとは思うけど。
 でも、見終わった直後の気分を表す一番近い言葉がそれだったんだよなあ。
 心地良く劇場を出たというか。

 どうして? と、聞かれると、ほとんどが(僕的には極力理由にしたくない)「感情的・感覚的」なものだったりするんで、アタマの中の整理が付いていないこともあり、言葉が上手く見つからないという、余計にもどかしくてループに陥ってるんですが。
 『レオン』について感じたのと同様、僕はもう「そういう描いていない、観る側に委ねることで成立させた」ことをとにかく評価しました。
 いや、評価じゃないな。
 「誰が何言おうと僕は肯定だ」ってのに近いんだけど。
 評価はその後だったんだ。
 観たとき真っ先にとにかく受けたのは、ガツンと頭やられた感じ。

 だから「アレはどういう意味だったの?」とか聞かれても答えられない。それは僕の中で委ねられた物として想像したり「何となく感じた物」であるわけですから、前記の「『エヴァ』のラストをもう誰も超えることが出来ない」のと同じで、僕の頭の中に生まれたソレを超えることってのは、宮崎監督すら出来ない。

 よく「100人がピカソを見たら、100人のピカソが生まれる」と言いますけど、それと全く同じで、1万人が『ハウル』を観たら1万通りの話と解釈が生まれる。
 客の中に生み出させられたのは、作った本人すら超えられない映画。これってある意味「この世の中で最強の映画」ですよ。


 そういう「説明描写・セリフを徹底的に省き、観る側に委ねる」という方法論自体は、映画…特にアートシアターにかかるような小品映画では珍しくはありません。(マスの客を相手にするハリウッドメジャーではまずお目にかかれない手法ですが。)
 この方法は、一見「作り手だけがわかっていればいいわけだから楽なのだろう」と思われているのか、『ハウル』についても「宮崎作品の中でも手抜き」的な受け止め方をした人もいるようなんですが、実際の映画の方法論としてはむしろ逆です。
 省いた上で「観た側の想像力を喚起させ、委ねる」以上、省く反面ソレを生み出す演出や技術・作劇術が必要になる。
 演出力や物語という物がガッチリ裏付けされていない限り「完全に失敗する」という、楽どころか、とてつもなくハードルの高い手法です。
 日本の若い映画監督がアート系作品でよく同様のことをやりますが、それらのほとんどが失敗しているのは、この「技術力の裏付け」が無いままに行っているためです。そのため出来上がった物は「ただの自己満足。作り手だけがわかっている作品」になってしまう…と。

 全く系統は異なりますが、僕の中で同じくらいハイレベルな技術だと思ったのは『ギャラクシーエンジェル』第3期・第4期です。「あそこまで投げっぱなしの作品を作るなんて、作ってるヤツはバカなんじゃないか?」なんてのはホントにシロウト考えでしかありません。あそこまで「意味」を徹底してそぎ落とすってのはムチャクチャ大変なんですよ。それゆえあの作品を僕は「投げっぱなしを芸、秘術にまでした作品」として高く評価しています。

 『ハウル』についても、そういった説明のなさや描写の欠如を「手抜きだと批判する」人がいますが、手抜きどころかあそこまで意図的にそぎ落とすのは並大抵じゃありません。
 手抜き・技術不足ってレベルであの描写不足が発生しているなら、他の部分ではそこかしこに説明的な部分が消え残ります。技術不足でやるってのはそういうことが必ず発生する。
 しかし『ハウル』には消し残しすらありません。断定系で書きますが、ありゃもう完全に計算尽くです。
 どういう作業だったのかはわかりませんが、脚本第1稿くらいでは諸も諸入れてあった物を、第2稿、あるいは絵コンテ化の段階あたりで、最小限の描写を残しそぎ落としていったのではないか? と思います。
(はじめからあそこまでそぎ落としきった脚本が書けたら、本物の天才ですよ。)


 で、まだ技術や方法論が固まっていない若い人がコレやるならわかるんですよ。
 けど、60近くの…通常なら「新しい方法論なんか出来ない」年齢に達し、もう評価なんてのも固まっちゃってるし今更危険を冒すこともない人が、コレやるのか?! と。


 また、あそこまでソリッドに諸々そぎ落としてしまった結果、毎度おなじみの「説教臭さ」も消えた(ように見える)のも、観た後の気分の良さに繋がりました。
 (ように見える)と書いたのは、だって、冷静に読み解けばそこかしこにソレはやはり入っちゃってるわけですよ。戦争に対してあそこまで突き放して描いたことや、そもそもあの方法論も含めてだけど。
 毒だって相変わらずです。
 でも、これまでのように直球で「自然破壊イクナイ!!」などと言ってきた諸作品について、僕が「面白かったのだけど…」と感じつつもそういう部分に対してなんかスッキリしないまま映画館を後にしてきたのは事実です。
 こちらが考える前に答を見せられた…というかな。
 そんな気分がどうしてもあった。
 けど今回は、答を見せないでこちらに考えさせたという部分で、むしろスッキリした気分でした。


 このソリッドをソリッドたらしてめている最大の要素が「キャラクター達の考えていることも動機も説明されない」ことに尽きると思います。
 このために人によってはダメなんでしょう。

 確かに僕等が観ている多くの作品(映画もドラマもアニメも小説も。それは宮崎監督の過去の作品も全て)は、
「この人とこの人がこういう考えでこう動き、こういう物語が展開して、こういう結末を迎えました」
 がわかりやすいものであるのがほとんどです。

 しかし『ハウル』では
「この人とこの人が出会って、こういう物語展開をしました」
 しか用意していない。

 また、驚いたのは「主人公が主人公にされていないこと」。
 これはホントに驚いた。
 ハウルとソフィーの話であるにもかかわらず、映画はソフィーの視点でのみ進行し、ハウルについて…それはハウルが何から逃げ続け、何と、何で戦い続けていたのか? などを一切描いていない。
 ハウルの物語なのに、ハウルについて描かれていない。
 だから(前述の「観る側に委ねる」の部分で)、ハウルという青年をどういう人物だと思ったか? ってだけでも、映画の印象が全然変わっちゃう。


 こういった作りから「子供にわかりづらいのではないか?」という感想も目にしたのだけど、ホントにそうかなあ?
 僕自身、幼児向け番組のシナリオ書いたことあるけど、彼らの想像力ってのはかなりなものなワケで「これは子供にわかる・わからない」の線引きって、大人が思ってるのと相当にズレている。
 へたすりゃ、宮崎さんが意図的に作った、そういう「見る側に委ねさせるためのブランク」を、子供の方が大人の客よりも勝手に話を作って埋めちゃってるんじゃなかろうか?
(子供レベルでそれをなすには十分な情報は入っていたわけだし。)



 肯定否定とりざたされたキャスティングについても、僕は基本的にジブリの「声優を使わずに俳優を使う」ってのは大嫌いなんだけど、今回だけは許せました。
 許せたと言うより納得した、かな。
 木村拓哉のハウルは、別に悪いとも思わなかったし、むしろいいんではないの? と。
 んで、倍賞千恵子のソフィー。
 これは、よくこのキャスティングに気がついたというか…
 「ベテランの声優を使えばいい」って人もいるのだろうけど、正直僕は「声優でベテランでも、アレがやれる人っているのか?」ってのはかなり疑問です。
 子供(少女)声と、大人(それは老人でも)の声を演じ分けることが出来る方はいます。けどたぶん、直球な演じわけでソフィーをやられたらたぶん僕はものすごく萎えたと思う。
 「スゲエ!」と感じたのは、設定的には老女のままなんだけど、演出イメージでソフィーの外見が少女にされている場面。
 ああいう場面などで、そういう演じわけのものすごく微妙な部分…というより「老女の声と少女の声を同時に出せる」を、あそこまで自然の声で出来ちゃう人って、日本で何人いるのよ?! と。
 声優だけではなく、ジブリの好きな俳優で探したって「そう何人もいないだろう」と思いました。
 どういう経緯で倍賞千恵子という存在に行き着いた・気がついたのかが興味深いんですが、よく見つけたものだと。

(余談ですが、年末にある方から聞いた感想で面白かったのが
「ソフィーが、ハウルを気にかけて階段の下から上を見るシーンが何回あるけど、アレってさ…『寅さん』で、さくらがとらやの茶の間から、帰ってきて部屋にいる寅を気にかけるのと同じ構図なんだよね。もしかしてそれで倍賞千恵子だったのかなあ…?」)



 また、久々に恋愛映画としても評価した映画でした。
 だって、老女と青年の恋愛物ですよ。
 相当におかしな話ではあるし、直球で受け止めちゃうと相当に「どうよ?」なものです。(というか、冷静に考えるとこの映画って「老女達が一人の美青年を奪い合ってる話」なんだよなあ…)

 だって最後までソフィーの呪いは解けていない。
 映画の後も、ソフィーは老女のままハウルと付き合ってくんですよ。
 あの「魔法で老女になってます」なんて、「老女の中の少女性」を描くためだけの言い訳でしかないでしょ。
(ちなみに「老女の中の少女性」自体は、様々な作品でも描かれています。中森明夫が80年代に書いた小説『おしゃれ泥棒』では、おしゃれ泥棒が最後に狙う「究極のかわいいもの」は、巣鴨に集まるおばあちゃん達でした。)

 それでも恋の盲目に陥っているハウルには「かわいらしい女性」なんだろうけど、他の人から見たらたぶんソフィーはおばあちゃんのまま。
 下世話な話だけど、キスくらいは出来るかも知れないけどさ。それ以上はできんでしょ。
 なので、「純愛映画ってのはこういうもんでしょ」みたいのも強かったなあ。

 なんか最近流行ってる臭い「気軽に寝てくれる相手はいるんだけど、誰もホントに自分を愛してくれないの。わたしをわかって!」みたいな自分に酔いまくりの腐りまくった物で「純愛ブーム」だとかホザいている連中には、「ケツの穴でも舐めやがれ」とか思ったですよ。


 なんというかなあ。
 ものすごく簡単に書くと、今回の映画って宮崎監督が「最高の包装紙と箱を作って、最高のプレゼントケースを作りました。中に何が入っているかはあなたが考えてください」をやったのに近いんじゃないかなあと。

 ああ、やっぱうまくまとまらないや。
 半年経って見なおしたら全然違う印象かも知れないし。(^^;;)

 でも、「これやっちゃった宮崎さんが、この後作るなら何やるんだろう?」みたいな、ホント、10数年ぶりに「この監督の次回作が観たい」と思ったですよ。

 とりあえず、もう1回観に行きたいなあと。


【了】


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