「今、そこにあるオタクの危機」 第8回<終>

今、そこにあるオタクの危機

text : 岡野勇

2004/12/30


 長かったこのシリーズもやっとこさ最終回。

 前回書いた“萌え”の続きです。

 避難するだけだと何なので、僕なりの考えを書いておきます。
 この1・2年で幾人かの人が同様に「自分の考える“萌え”の定義」を発表しています。
 いくつかには目を通してきましたが、しかしそれらの多くは「難しく考えすぎている」ように思いました。
 もっと簡単なことなんじゃないか? と。
(文化人などで「あえて難しくして語る」がスタイルの人もいるわけですが。でもそれって「誰に向かって放ってるのか?」が僕にはよくわからないのだよなあ…。面白い物も多いですし参考にはなりますけど。)

 僕がオタク外の人に「“萌え”って何なの?」と聞かれたときに答えている「外部用にコンバートした説明」と「僕なりの“萌え”の定義」は

 「トキメキ」

 30代も後半になった中年男性が「トキメキ」って言葉を使うのは相当に抵抗があるんですけど(^^;;)、数年考えた結果この言葉に行き着きました。
 「何かを表現した言葉」「評価した言葉」「感じた言葉」というそれぞれの役割などを考えたときに、この「トキメキ」という一言はたぶん近いんではあるまいか? と。

 ここまでに書いてきたように、こういったことを「オタクではない人」にも伝えられなければ意味はないので、「オタクにしかわからない言葉・概念」というのは極力持ち込むべきではないだろうし、この一言は他者にわかりやすく、伝えやすい言葉であり概念ではないか? と。

 細かく説明するとこんな感じです。

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 オタク的な文化が生み出した物(作品やキャラクター“など”)に対して、トキメキを感じること。
 一般的なトキメキという感情が実に微妙で曖昧な状態であるのと同様、単純に「カワイイと感じること」である場合もあるし、「恋愛感情、あるいはそれに類する擬似的な感覚」を抱く場合もあるし、「なんかキュンと来る感覚」である場合もあるし、「性的欲求を喚起される気分」である場合もある…と。
 ただ、全く同じであれば何も違う言葉を用いるようになるには至らなかったわけで、厳密に言えば似て非なるものではある。
 その非なる部分を占めているのが「オタク的な文化が生み出した物に対して〜」という部分。
 オタク文化から生まれ、「オタクの持つ“後ろめたさ”がありきである」という部分をカバーするのにもイメージがマッチングし、かつ使いやすかったのがこの“萌え”という言い方である。
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 「それは違う!」とか脊髄反射批判しても意味がありません。
 『僕の考えるオタクの定義』で書いたように「これは僕が考えた末に行き着いた僕なりの主観としての答」ですから。

 ここまで堅苦しい言い方をするかどうかはその場次第ですが、ただ「それはトキメキですよ」で終わらせてしまってはまず相手が理解出来ない。(言葉をコンバートする意味がない)
 なので、「オタク県民ではない人に向けて伝える」ことを念頭に置いた場合、僕はこれくらいか、場合によってはこれ以上の説明を心がけています。その時何か手元にあればそういうものを交えて具体的に説明したり。
 ケースバイケースで、前提となる「オタクの“後ろめたさ”」や「オタク的な文化」についても文脈や例を加えることもあります。(後者は、若い人だとオタクじゃなくても『エヴァブーム』とかは知っているんでわかりやすかったりしますが、「オタクではないオッサン」達相手ではほぼ必須です。)
 具体的な例を挙げる場合は、「相手がわかっているもの」にコンバートして説明した方がわかりやすいのはもちろんです。
(もっとも今度は「それについて僕が少しなりとも知っていなくてはお話にならない」ので、お互いの知っている物についての共通項・妥協点を探るという作業が発生しますが。)

 相手によって異なりますが、場合によっては「えらい大変な作業」です。しょっちゅうやれることではないですね。
 が、このシリーズが書いてきたように、「その作業が成されてこなかった危険性」を感じてもいるので、これに限らず、僕は例えばフィギュアであるとか食玩であるとかアニメであるとかについても、打ち合わせ先など「オタクじゃない人、それを知らない・勘違いしている人が相手」の場合、オタク同士での話の数倍の労力と多くの説明を使ってます。
 ただし僕はオタクであるとか以前に、本来の性分が「果てしなく人間嫌いで、人付き合いもよろしくない」上、性格的に「ムダなことは何もしたくない」モノグサ人間なので、相手が「理解したいのだけどわからない」場合は労を惜しみませんけど、ある程度説明しても相手が全く「理解しようとしていない」のがわかった場合はそこで打ち切ります。
 だいぶん前にオタク系文化のなんだかについて、ある仕事会議の席で知人に説明するハメになりましたが、この時も彼は「いくら説明されても同じで間違いない」と思い込みが固まってしまっていた上に、「ただ議論がしたいだけ(理解したいと思っていない)」というのが見えたので、30分説明して止めました。
 「ただ議論がしたいだけ」の相手は楽しいかも知れませんが、僕にとってはまったくもって時間と労力の無駄です。
 反面、そのやりとりを隣でなにげに聞いていた傍観者の人たちからは「あー、わかった!」という反応でしたが。
 もちろんその場合、ただ打ち切っては相手が誤解したままですから「あなたは自分の知らない・理解出来ない意見を聞く気が全くない。ゆえに僕はこれ以上の説明をする気がない」ことは伝えます。

 こう考えると、大谷氏のように「すでに思い込みが固まってしまっている」ような人を相手にするのは相当に難しいわけで、いくら「それは間違っている」と否定しても、すでに聞く気がないのでたぶん理解出来ません。
 厄介ですなあ…
 なのでその意味でも、こういう他県民への伝達ってのは「初期段階で(相手の認識が固まってしまう前に)“わかっている人間”が伝える努力をすること」ってのは重要なわけです。



■おわりに。

 僕がたびたび書いてきた「危機感」ってのは、こういったことに直結してるんですよ。
 「そういう誤解が生じるのは当たり前でしかない」って書いたけど、場のあまりのライト化に不安感を持っていたら、案の定こういう状況が加速してきた。

 市場に金銭的貢献していそうに見えながら、そこに屑みたいな物を溢れさせることにも貢献しているただの消費者。
 自分たちがやっていることが何なのか? にも無自覚、本質や意味を考えることも出来ずに脊髄批判だけはいっぱしにしてきた結果、自分たちで自分たちの遊び場を壊し始めていることにすら気づかない。

 そして“後ろめたさ”というバックボーンゆえの理論武装も肯定もなく、それを伝えることも出来ない人が増大しているってのは、別の言い方すると「外部に対しても脆弱さだけが比較にならないほど大きくなっている」。
 特にこれは致命的だとも言えます。
 攻撃力を持つ必要性は感じませんが、最低限の防衛力もないとなるとちょっと違う。
 防御壁もなく、理論武装もなされていないわけですから、丸裸同然です。

 第1回目でも書きましたが、大谷氏をはじめとしたようなバッシングや誤解に対して、匿名掲示板などでの批判やら脊髄反射否定なんか「相手には何の効果も与えない」。
 それは「匿名掲示板での批判に意味があるか? 無いか?」って問題とは全く無関係です。
 仮にいくらこちらサイドが「意味がある」と思っても、相手がそう思っていなければそれは全く意味がない。その「間違ってる!」という批判に、そもそも目を通さないわけですから。
 それでも「そこに意味があるんだから!」なんてのは、本気で誤解を解きたいと思っての言とは思えない。ただの自己満足です。
 そして、僕が経験してきた限り、多くのマスコミは「注目はしているが、言論としての意味があると思っていない」。

 だから「本気で彼らのカンチガイや傍若無人な一方的なバッシングを批判・否定したいなら、相手の目に止まる形で行わないと意味がない」わけです。

 外部からバッシングが起きても、そこに対して「防御力や防衛能力がまるで無い」。
 近年の「伝えることをしないライト層」増加を眺めていて、僕がかなり怖かったのはこの部分です。
 僕の中で「ヌルい」ってのは相手に伝えることが出来ないことも含めているし、自己完結で終わっていることも含めている。
 今、市場にいる多くは外部に対してなんの抵抗手段も、存在を訴える言葉も理論武装も持ってないですよ。持っていてもそれはお話にならないくらい脆弱な物でしかない。
 でなけりゃいつまでたっても誤解されたまま。
 いくらオタクってのは“後ろめたい趣味である”ことが前提だとはいえ、だからといって「誤解されていい」ってのは違うでしょ。

 そして、そういった一部のマスコミに代表されるようなバッシングは、僕らが「好きだ」としているこの“場”そのものを解体させるだけの力があるという“事実”。
 だから「危機感」なんです。

 これが今の「オタクをとりまく場の状態」。
 ただ、みんな(それはオタクもライト層も)「亀裂が見えていないフリをしている」「表面からはまだ見えにくいので、気が付いていない」だけ。
 今回のシリーズで書いてきたライト層という存在が少数派だったら、たぶん大した問題じゃない。
 けど、「ヌルさ」でも触れたように、例えば夏ワンフェス以降の反応などはかなり広範囲・多数にわたって行われたこと。コミケも含めた「版権問題」だって、明確な物になり始めてからすでにかなり経つ。
 とてもじゃないけど、もうそろそろ問題が見えていないフリをすることにもムリがあるんじゃないか?
 いや、そもそもいくら見えていないフリをしたって、「それが無い」ってことにはならない。
 僕らを結びつけているのは、根拠のない、「見えないフリをし、語らないことで自分の考えも相手に伝えず、そして成立している」という偽りの共同幻想です。


 「オタク市場は2900億円」なのかもしれないけど、コレって例えるなら『ファイブスター物語』なんですよ。
 何百万・何千万部も売れている大ヒットコミック。数字だけ見たらムチャクチャな数字です。
 けど、オタクじゃない人は全くと言っていいほどこのマンガを存在すら知りません。
 2900億円に1円も荷担していない多くの人たちにしてみれば、やっぱ「オタクは社会的に違う人たち」だし、社会…特にこの国は「異質な存在」を嫌います。
 宮崎事件なんかが最たる物ですが、ああいう場合その矛先は“同じ趣味をやっているそういう人たち”全部に向けられる。
 「フィギュア萌え族」をブチ挙げた大谷氏なんか、もう向けたくてウズウズしてるのがよくわかる。
 「後ろめたさがある物」って、それがどんなものであっても、それは絶えず外の社会から潰される危機をはらんでいる。潰されずとも、言われない攻撃を受ける対象になりうる…かな。
 それがわかっている人たちは“オタクである”自分たちが「社会的に“一般的な趣味”ではないことを自覚している」わけですし、そこへの対応や対抗として 「伝える」 努力をしてきたわけです。
 その部分で実はオタクは、78年の『ヤマトブーム』以降社会と向かい合い、同時に対立してきたと言えなくもないんですが、それゆえ「対立の中で自分たちの居場所を確立するには過剰なまでの自己肯定・理論武装。そしてその中で見える“一般的レベルでは見えにくい視点や価値観の提示”を伝えるアビリティ」ってのが必要であったと。

 大谷氏などの型にはまったネガティブなオタク像における「オタクは社会と接していない」などの見方が的を外れているのはこういう部分で、その意味で実はオタクってのは「社会の中で自分の趣味がどう見られているか」に対し自覚している。
 社会に向き合わざるを得なかった趣味の人たち。
(その意味では、「社会からどう見られているか?」に対し無自覚なマスコミの方が、実は社会と向き合っていないとも思います。実際、報道の場にいた時にこういう空気は多々感じましたけど。)

 ポジティブな定義と“後ろめたさ”ってのは、ギリギリの二律背反の上で成立しているし、そこでしか成立ができない。
 “オタク”ってのはそこまで考えてこその自称であって、自称するにはそれなりに「社会に対する覚悟」が実は必要なわけです。
 「グッズを買い続ける覚悟」や「アニメを見続ける覚悟」があるからオタクです…などといったもの以前に、それが必要になる。
 少なくとも前述したようなヌルいレベルではとうてい及んでいないし、ものすごくハードルが高い。
 ありとあらゆる意味でハードルが高い自称なんですよ。
 だから僕自身「そこまで行き着けているのか?」と自問はあります。
 だいたい「自称するに恥じないであろう凄い人」達に、僕はたくさん会ってきましたし、その人達に比べたら「まだまだ」です。

 それらが無視され、脊髄反射的に「間違っている」的な烙印を押され、それでいて視点の進化や新たな価値観の提示があるわけでもない状況。
 そしてそういう層の増加に危機感を持つのは、僕の中では当たり前のことでしかなかった。
 この状況が進んだら、たぶん間違いなく僕らが今いるこの“オタク”って場は「どんどんつまらなくなっていく」。それも加速的に。

 『食玩テキスト』なんかも僕の中では今回書いたこういうことを含めていたんだけど、あそこで書いたことと同じで、「これだけ人数がいりゃ、全員が全員ステップアップすることなんか不可能」だし、わからないヤツには何をどう言ったってわからない。
 危機感が感じられないヤツにはどうやったって感じられない。
 ましてや現実的なこととして「総論として全体意識を持つ」なんて、これだけ人数が増えりゃもうムリです。
 でも本気でオタクを自称していて、この“場”が好きなら、もはや「ヌルいままで在り続けてOK」ってのは、いずれ自分が好きだと言ってる物を壊すだけという“歴史的に繰り返されてきた事実”だけはわかっといてもいいんじゃないか? と。
 少なくとも、「それでもヌルいままでOK」という人に、僕はそのジャンルへの愛情を感じませんが。

 「オタクになるか? ならないか?」じゃないんですよ。
 オタクなんてものすごく大雑把に言ってしまえば趣味の総合的な概念です。
 その概念で言えば、「オタクという人」は趣味人です。
 それゆえ、以前ちょこっと言葉だけ書きましたが「実力主義」「情熱主義」。趣味なんてのはそんなもの。この「情熱」には「対象への愛情」も含まれます。

 「総論としての意識」がすでに不可能であれば、それは個々の中で持ち得るしかありません。
 それが僕が提示した「個としての定義」です。
 もちろん趣味に対して趣味人がこれを持つ以上、前述の「情熱」があることは前提です。
 それが欠落している以上、僕にとってその人は趣味人ですらない。
 僕は「批判するにしろなんにしろ、対象への愛情も何もないヤツは、その対象に対するオタクではない」と思ってますから。(だって「趣味」なんですから、当然でしょ。対象に愛のない趣味なんてものがあり得るのか? と。)

 そして、すでに現時点で“場”に危機をもたらし、問題を発生させている行為のどこに“愛情”や“覚悟”があるのか? と。


 最後の最後に補足しておくと、オタクの定義にしろ“萌え”にしろ、何が何でも「自分の中で定義化をして、それの“濃い”と自己ジャッジした行動のみをしろ!!」だとか、そんなこと言う気は毛頭無いんですよ。
 「市場を否定しろ」でもありません。

 自分の中で定義と線引きは出来ている。
 それがわかった上で、「コレについてはヌルいジャッジの中で接した方が楽しいよね」みたいなのもあるわけで。
 僕だって、「コレはそれほどオタクだと思わない」とか「これはヌルいフィギュアだよなあ」とかいうジャッジはある。
 あるけど、それを踏まえた上でそれを楽しむものもある…ってのは線引きしています。
 第4回で書いた「ライトオタクと、ライト的視点」と同じです。
 オタクアビリティがたくなればなるほど、この「楽しみ方としてのライト視点」の持ち込み方にも幅が出来ますが、ヌルいまま・ライト層のまで逆を行うことは不可能です。

 市場だって、「スゴイ物がある市場」を僕は否定してませんし、消えて欲しくないと思っていますから。
「市場が成立してなきゃ、オタクとして存在できないのか?」
 と思いますが、
「スゴイ物が無くなった市場は、オタクにとって不幸以外の何物でもない」
 でしかないですよ。
 「ヌルいままでOK」ってのは、実は「ヌルいものを楽しむ」ことすらも出来ない。
 「オタクなんて趣味だから、全部遊びじゃないか」で、そこに真剣さを持ち込むって考えがない人ってのは、結局オタクでもなんでもないんですよ。
 本気で趣味も出来ない人です。


 というわけで、おわり。
 またもや長いものになってしまいましたが、このような「オレ主張」を最後まで読んでくれた方には、「ありがとうございます」。



【了】


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