「今、そこにあるオタクの危機」 第7回

オタク県・萌え地方の方言。

text : 岡野勇

2004/12/30


 今回は前回書いた2つのうちのもう一つ。「伝える能力の問題」がもたらす危機について。
 これについては第1回目などで触れたことなどから、もう書いているっちゃ書いてるんですけどね。
 ここまでにもいくつか「伝えていない」こと、そしてそれが「身から出した錆」として、今、自分たちに逆襲してきてしまっていると書きましたし。
 ただ、これについてはやはり大きな問題だと思っていますし、今シリーズの中核だと思って書いてきたことです。
 なのでちょっとライト層のみではなく、一部のオタク層も含めた「無自覚な僕たち」への自戒のようなことも含めた視点で。

 この「伝えることの喪失」の最たるものにして、おそらく現在、どのようなオタクジャンルに身をおいていても使われ、どもようなスタンスであってもわかりやすい例で書きます。
 僕の定義において、おそらくは“仮想敵”とも言えるもの。
 たびたびBBSなどで書いてきた

 「僕は“萌え”って言葉が嫌いだ」

 ということについてです。

 「萌えがわからない」とかズルイことを言う気はないんですよ。
 「萌え」が評価であったりなんだったり表現であったりに繋がっている物も多々あるし、否定しているわけではない。
 そもそも、自分の部屋の中や、保存録画してある物を眺め返したときに、否定出来るわけがないんだけど。(^^;;)


 一昨年くらいから漠然とあったこの“萌え”への違和感について、強く、それでいて明確に感じさせられたのが、以前、岡田斗司夫さんが日記コラムで書かれていた
 「萌え、というのは一昔前のナウと同じく、それでなにか価値を説明したつもりになっている思考停止フレーズだ」
 という意見でした。

 また、もう一点が半年ほど前に出た雑誌『サイゾー』誌での岡田斗司夫氏と建築家・森川嘉一郎氏の対談でした。
(なんで建築家が? と思われる方もいるかと思いますが、9月に行われた『ヴェネチア・ビエンナーレ 日本館』を手がけた方です。詳しくはここを。http://www.jpf.go.jp/venezia-biennale/otaku/j/artists.html

 この中では「萌え」について触れられていましたが、岡田氏は
「萌えというのは性欲の一形態、と考えた方が辻褄があう」(大意)
 と語っています。
 正直に書けば、あそこで語られていた「萌え」の概念や結論は僕にはかなり「肯定できる物ではない」ものでした。
 脊髄反射的なことを書けば、いくつかのオタク系サイトのコラムなどで書かれていたように、僕も「勘違いしている」と感じましたし。
(ただ、この「勘違いしている」も勘違いであったようで、先日ご本人に確認したところ、「萌えは性欲とは無関係」というオタクの嘘つきさに辟易、反論するために出た言葉であって、「“わかっている”人たちへ向けた言葉」として出すなら、伝え方はまた異なるようです。)

 しかし、「萌えはわからない」とかねてから語っていた岡田氏がああいう意見を出したのは、僕の中で「当然」だとも思った部分です。
 その「当然」ってのは「岡田氏の意見を擁護する」ってんじゃないんですね。(そもそも僕なんぞに擁護されたくないだろうし。 ^^;;)
 むしろ、脊髄反射的に「岡田は間違っている」と反応した「“萌え”がわかっている人たち」への、ある種のイヤミと投げかけ。あるいは腹正しさを感じるのは当然ではないか? と。
 「俺は萌えがわかっている。その俺から見て岡田の言っていることは間違っている! ケシカラン!!」みたいな反論を出させることを狙った確信犯だとすら感じました。
 岡田氏が本当はどういう狙いで、どう思っていたのか(僕の受け取り方が正しいのか間違っているのか)はわかりません。
 一瞬とはいえ僕自身がそういう脊髄反射をする中で「感じたこと」。(直後に「それは脊髄反射過ぎるだろう。釣られすぎ。>オレ」と否定しましたが。)
 そしてその後ゆっくり考えていて、「そういう反応」に強く、それでいて明確に感じた違和感はそういうことでした。
(岡田氏の「萌えがわからない」は、僕は以前からその意味を少し疑って…額面通りの言葉としては受け取らずに聞いていましたが、これも先に確認した中で少しわかりました。
 ただ、それは僕が書くことではないと思うので割愛します。)


 ぶっちゃけ

 「そういう勘違いが生まれてんのは、全部“自称:萌えがわかっている人”たちのせいじゃん」

 …と。
 一瞬とはいえ僕も脊髄反射したわけですから、この中には僕も含まれるのかも知れません。自戒自戒…。
 こういうコトを考えていたら、僕の認識で“萌え”ってのは岡田氏の発言ですらソフトに思えるくらい悪くて

 「思考停止している上に、対外的にソレが何であるかという具体的なことを説明・伝えることを放棄しているコトバ」

 なんですよ。
 だからこの言葉って、僕の中では「伝えることができない・しないライト層を表している言葉」でもあります。

 “萌え”が「感情的な物・感覚的な物」でしかないのは事実です。
 (受けた側の)感情をあらわしていることもあるし、評価をあらわしていることもある。対象となる作品などのスタイルや雰囲気をあらわしていることだってある。
 使われ方もケース・バイ・ケース。

 こういった“感覚的な物”を他者に伝えるには、それが同嗜好の人が相手でも温度が必要だし、それが「オタクではない人」を相手にする場合、さらに巨大な温度と説得力が必要になる。
 けど、これまで書いてきたように、ライトな層はその温度や能力自体がない。

 しかも「感覚」ですから、よく言われるように十人十萌え。
 同じ作品などに対し「これは萌えですよね」と言っても、実はその言葉を発せさせた感覚や嗜好を解体していくと、個々によってその萌え部分や萌え評価部分は異なっている。
 「萌え」という一言で、本来は全く違うはずの評価が「さも、一つであるかのような幻想(あるいはカンチガイ)」をもたらしている。
 “萌え”ってのは、ある意味「偽りの共同幻想を生み出すマジックスペル」です。

※最近時々「オタク=萌えな人」みたいな勘違いを目にすることも多いんですが、そうなわけでも、ましてや「萌え・萌えがわかっている=オタク」でもありません。
 “萌え”はここ10年程でオタクの中に発生し表現された1ジャンルでしかない。
 もしかしたら、約10年続いている“だけ”の流行で終わってしまうものなのかもしれない。
 ちょっと面白いと思っているのは、「オタク市場」のリリース側や“萌え消費者”の一部からは、すでに行き詰まり感が時々聞かれるようになってきている一方で、野村総研をはじめとした「最近になってオタクに注目を始めた外部」からは「今後の市場経済にとって大きな要素」的な、全く逆の考えがされていることでしょうか。



 僕の認識を書いておくと、例えばオタクってのを含めた“文化全般”を一つの「国」だとした場合、オタクってのは「オタク県」なわけです。
 その中で「萌え」ってのは、そのオタク県にある「萌え地方」という地域の呼び名と、その地域で使われている方言のことでしかない。「○○弁」みたいなものですね。
 なのでオタク県民なら誰でも「ああ、萌え地方の言葉ね」で少しはわかる。
 しかしオタク県といっても広いので、「オレの住んでいる地域ではその方言は使われていないから、“そういう方言があるのは知っている”以上のことはわからない」って人もいる。
 ものすごく離れている地域の人にはその方言はもうわからない。

 ましてや他県の人には「ナニ言ってんのかサッパリわからん」わけです。「訛りキツすぎだよ!」みたいな。
 一般紙ではたびたび“萌え”についてスットンキョウな珍解釈が掲載されている。これは外国の教科書などでいまだに着物を着てマゲを結った日本人が紹介されているような物です。


 僕も仲間内の、それも“萌えがわかってる”という人と話すときには使いますよ。>“萌え”
 同じ地域で方言を遠慮する理由なんかどこにもありませんから。
 けど「オタクでも“萌えはよくわからない”という人」や、「オタクじゃない対外的な人」と話すときには使わない。相手はそんなのを知らないんだから。
 使わないかわりに、「なんでそれが良いのか」を持てる言葉を持って可能な限り伝える。
 早い話“萌え”なんて言葉も概念もわからない人に向けて、言葉をコンバートするわけです。
 「そんなの当たり前じゃん」と思った人は、たぶん“萌え”の中にいても「それがわかっている人」です。「感覚的なものゆえに、他者に対して説明するにはそれ相応の努力がいる」ことがわかっている人。
 けど、一番萌え市場の中にいる萌え地方在住の「自称・オタク」の多くはそれを行ってこなかった。
 「感覚的な物だから、説明のしようがない」で終わりだったり。
 「説明してもわかりっこない」なんていう、はじめから伝えることを完全放棄してるのも多いです。
 だからこの言葉をむやみに使うのって、少なくとも僕には相手に伝えようって意志を感じない。
 これは前に「僕の考える僕にとって僕が目指しているオタクの定義」で記した

●さらに、その目利きや文脈、価値観などを、書く・語る・表現する等々(の自分が好む手段で)「伝えること」が出来る人。あるいは「伝える意志がある」人。

 に反している。
 だから「萌え萌え言っている人たちのそういう言動に疑問がある」し、「萌えで終わらせていることはオタクなのか?」とすら思うわけです。
 評価についてでも感覚的な物でも何でもいいのだけど、「萌えでイイですよ」ってのは実はそのままだったらオタク的でも何でもないんですよ。
 それは、市場から与えられた物に反応しているだけです。
 そもそも、自分の好きな物に対しては熱く、省略して語ることなどあり得ない。そしてそれを必要以上に伝えたがる。
 そういったオタク本来が持っている“本質”“生態”と根本的に反していますわね。


 ごくわずかに「自分にとっての“萌え”の定義はこうである」を発表している、ちゃんと考え、伝えている人もいます。
 しかしそういう意見に対して、市場の圧倒的多数である“萌えがわかっている”ライト層は 「アレは間違ってる!」 と、脊髄反射な批判だけはする。
 でも、自分にとっての物は提示しない。
 自分は考えないし伝えないけど、他者の意見は脊髄批判するわけです。

「理解できないなら出来なくていい。
 説明するつもりも無い。
 だけどお前は間違ってる。」


 彼らの言ってることや反応ってのは、この言葉と同義なわけで…
 こう書けば、いかに閉鎖されていて伝える気がない反応であるかがわかるかと思います。
 こういった層が「数の論理」で勝っていますから、結果「定義できない物」って考え方がアベレージになり、「定義しよう」って考え方すら消えてしまいそうになっている。

 伝わってこないから「わからない」。
 知ろうとしても、閉じているから伝えてくれない。
 その結果、他県の人が生み出した「オタクを扱った記事」や「番組」ってのは当然間違っているし勘違いしている。
 それを萌え地方の人が「○○は萌えをわかっていない!!」的に叩いているけど…、でもこれ、当たり前でしょ?
 そういう誤解が生じるのは当たり前でしかない。
 起こるべくして起こっている。
 「伝えないでいたら、なんかモノスゴイ勘違いされました」みたいな。


 定義もなく説明も出来ない概念。
 「そんな特殊言語でしか話そうとしない奴らは(仲間内だけで)閉じている」と受け取られても仕方ない。(ゆえに「何やってんだかわからなくてキモイ」になると。)
 ストレートに書くと「バカにしか見えない」し、“萌え”をわからない人から見れば「イタイ」んですよ。
 「オタクだからイタイんじゃなくて、イタイ人だからイタイんだ」とは昔聞いてすごく納得できた言葉です。
 で、この人数が多い以上、オタクと自称オタクの区別が付かない外部の人が見たときに「オタクってのはイタイ人たち」という全体像や総論にすり替えられる。
 差別的な認識が生まれ、毎度のことながらのイタいオタク像がマスコミで描かれる…と。
 事実がどうかじゃないんですよ。その事実を伝えてないんだから。


 だから“萌え”ってのは僕にとって、「オタクを名乗る人たちが身から出した錆」の一つだとしか思っていないです。
 自分が好きで気に入ったキャラクターや作品を語ることすら省略し、それを伝えることも放棄している言葉。
 完全に“閉じて”しまっている言葉。
 だから僕は、これに気づいたとき「この言葉は嫌いである」とジャッジしたし、「この言葉をだれかれ構わずむやみに使うことはしない」にしたわけです。


 「萌え」って言葉の氾濫と「萌えジャンル」の広がりと、その中での「萌え系のゲームやっているから俺もオタクです」みたいなライトオタクの増加ってのは比例しています。
 その伝える作業を放棄している層が多数になっている中で「オタクというものが誤解をされている状況がいまだに変わらない」のもある意味「当然」。
 いわゆる「萌えオタ」というのがこういう誤解を解く作業を放棄してきた中で、萌えがわからない人たちから「間違った受け取り方・解釈」が湧いて出るのは当たり前。

 それを避け、それでも「萌え」という言葉を使い続け、なおかつ「バカにされない」ことを目指すなら、もういいかげん「萌えってのはこういうコトです」ってその人がその時にちゃんと伝えるか、あるいは定義を作ってしまうとかしない限りムダなんですよ。
(もしくは「萌え地方の人の中でのみ使う言葉」として、そこから外には一切出さないようにするか。早い話、相手が誰彼だろうと構わずに使うなよと。)


【了】


>>第8回へ。

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