「今、そこにあるオタクの危機」 第5回の2

個としての“オタク定義”

text : 岡野勇

2004/12/25


 僕は今、かなり本気で

「今、オタクに必要なのは大量のソフトでも商品でもなく、現在の定義を本気で提示した『新・オタク学入門』だ」

 と思ってます。
 そこで提示される概念が違うと思う人は、それはその後にやればいい。ただし「本気で」ってのが前提条件だけど。
 脊髄反射批判とかはいらない。場にとってのノイズでしかないから。
 少なくともまだ今は考えがまとまっていなくても、本気の人にとっては「それは違うだろう」を引き出すことが出来る物にもなるはずだし。
 安易で脊髄反射な肯定より、意味や文脈を理解した本気の批判の方が意味があると思う。
(なので本気で肯定・批判するなら「脊髄反射は禁止する」のが前提…ですかね。)

 もちろん「それは違うだろう」からその人なりの結論を考え、「僕はこう思う」に結びつかなければ、全く意味はありませんが。それは「結局最後までただ批判をしただけ」です。


 僕と同じような“危機感”を感じている人は少なくないのか、この“オタク”にしろ、“萌え”という曖昧な言葉にしろ、最近「自分の考える定義」を書かれているサイトを時々見かけるようになりました。
 まだ少数ですが、やはり「今一度それをハッキリさせる」ことの意味を感じている人が少なからずいると言うことなのかもしれません。
 ただ、難しいのは、あまりにもカテゴリーもジャンルも多様・細分化し、共通言語や共通の「オタクにとっての必須科目」すらなくなった今では、

「総論としての定義」

 は、おそらく生まれないでしょう。
 そこでは定義すら変化し、多様化してきている。
 それは個々の中で“信念”のような物として持ち得るしかないような気がします。
 そう考えると『新・オタク学入門』というのは総論の物ではなく、

 「個々が本気の温度と能力で提示する、その人にとってのオタクと定義」

 だろうと。
 考えがまとまっていなかった他者は、それらから「自分の定義」を見いだす糸口にしていってもいいし、思考を停止したライト層で甘んじる結論を出してもいい。
 一見、「ただバラバラになるだけじゃないのか?」と思われますが、それ自体は「個々の考え」であっても、それが相手にわかればおのずと「ああ、この人の定義はこうであるから、その視点であるのだな」ということは伝わりやすいし、それは「その人の価値付け」としての意味がある。
 曖昧な中でいい加減に伝えるよりは遙かに伝わりやすい。


 こういうことを書くと、当然ですが「んじゃ、オマエにとってのオタクの定義ってのは何なんだ?!」と疑問が出ると思います。
 確かにこうなると、僕も僕なりの信念としての“オタクの定義”ってのを提示しなければならない。
 でなければ、たぶんこの後に続くテキストも「わかりづらい」かもしれない。


 先日、『インビテーション』という雑誌のアンケートで「あなたにとっての主観でのオタクの定義を答えてくれ」というのが来たんですが、ちょうど良い機会であったので、この2年ほど散らかっていた考えをまとめ直してみました。
 んで、その時に書いた「僕にとっての(現在の)“オタクの定義”」ってのは以下のようなものです。
(もう販売は終わったのでここで載せます。掲載分はレイアウトの関係でこれより短くしましたが。)

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■Q1>「おたく」とは何、あるいはどんな人たちか?

 定義も変化してきていますが、現在必要な定義は以下だと考えています。
 アニメ・コミック・特撮・模型(含フィギュア)・ゲーム等々といった趣味嗜好の強い大衆文化について…

 ●多くの知識や認識の元に文脈立てることが出来、本質を見ること・考えることが出来る目利きを持つ人。
 ●その流れの上で、「独自の価値付け」が出来る人。
 ●さらに、その目利きや文脈、価値観などを、書く・語る・表現する等々(の自分が好む手段で)「伝えること」が出来る人。あるいは「伝える意志がある」人。

 この3要素を持っている、あるいはこれらのレベルを目指している人たちのことであると考えています。
 これらの要素から「ヘリクツ張っている」とか言われることも多々あるわけですが。
 いくら本人達がオタクを自称していようとも、「ただアニメ(やオタク系文化のもの)が好き」「グッズやソフトをたくさん買っている」も、それで終わっているのであれば違います。
 文脈立てられない、文脈の中での原典にまで目を向けずに本質を見失っているのであれば論外です。
 「僕の方が詳しい」とか言う人も時々いますが、その意見や価値観、知識を伝える気がないのであればやはり違う。自分の好きな物について熱く語って伝えることも出来ないスタンドアローンな存在はオタクではないと思っています。
 その意味で一般的に言われるような「オタクは閉じていてコミュニケーションがとれない」的な見方は根本を間違っているかと。(それはオタクだからそうなのではなく、そういう人だからそうなのだと。)
 「“萌え”がわかっているからオタクである」「オタクは萌えている人たち」みたいな最近よく見かける風潮は、「オタク市場における流行のメインストリームが、今ソレである」でしかないと思っているので、疑問があります。


■Q2>あなたはオタクか?
    他人からオタク呼ばわりされることに、どんな感情を抱くか?

 ホントにスゴイと思える、敬意を抱いているオタクの方々が多数いるので、自分では発展途上オタクだと思ってます。まだまだです。

 一般的にまだネガティブイメージの方が強いのだという認識はありますが、他人から言われることは別に何とも思っていません。
 初対面の人にも、はじめから「僕はオタクですよ」宣言することは多いです。その場合はもちろん「オタクは一般的なネガティブイメージなだけの人種ではない」ことを伝える腹づもりが必要であり、それは踏まえますが。
 それに、それを踏まえた上であればネガティブどころか「オタク的視点の持ち方・思考の仕方」は応用次第で仕事でも役に立つことの方が多いです。

 同時にこれだけオタクに関する情報や価値観を提示した物が社会に出ている中で、いまだにネガティブなイメージしか持ち得ていない人というのは「はじめから色メガネで見ていて、それを掛け替える気がない」「社会に溢れている情報に対してアンテナ感度が低すぎる」人たちだとしか思っていません。


※「“おたく”をどう表記するか?」という質問もありました。
 カタカナかひらがなか、あるいは「ヲタク」なんて書く人もいますが。
 人によって別れると思いますが、僕は「意識してない」です。どれでもいいよと。
 ただ、このサイトも含め、文章で使う時にはひらがなや漢字の間に置いたときに「その方が読みやすい」という理由で“オタク”とカタカナ表記しています。


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 何度も書いてきたように、最近すぐに脊髄反射する人が多数いるので改めて書いておきますが、これは「僕(岡野勇)の中で、現在、オタクってのはこうである。あるいは、こうあるべきなんじゃないか? 僕はこう思っている・オタクを名乗るならこうありたいと思っている」という主観です。
 総論ではありませんし、場の結論だとも思っていません。
 わかるかと思いますが、僕はこの定義なので「伝える気がない」ってのは「嫌い」だし、僕にとってそれは「オタクじゃない」なんです。

 大谷氏のオタク観は僕と180度違いますね。
 彼はいまだに「オタクは閉じていてコミュニケーションが出来ない」と思っているけど、僕はその真逆だと思ってるから。
(だいたい根本的なこと書くけど「閉じていてコミュニケーション能力に難があるヤツ」なんか、オタクじゃないヤツにだってゴロゴロいますわな。)

 オタクほど語りたがりな人種はいないでしょ。
 また、これはオタクだけではなくライト層も同じですが、これほど同好の士が好きな人種もいない。
 話題の新作ガチャ発売日のガチャポンセンターとか、かなり楽しい状態ですよ。初対面のヤツら同士で同じの回すヤツ見つけるたびに話しかけたりして。


 この語るだとか伝えるってのは、何も必ずしも「話す」ことだけを表しているつもりはありません。
 それでは「話すことは苦手だ」という人を排除してしまう。
 話すことの得手不得手は、オタクであるとかないとかとは全く異なる「個人の性格」などですから。
 僕だって少人数の前でなら話せるけど、「大人数の前で話す」は考えただけで胃が痛くなる人間ですし。つか、ムリ。これはもう幼少期からダメだった。

「書く・語る・表現する等々(の自分が好む手段で)」

 としたのはこのへんのカバーと、それによってより多数の意見が見聞き出来るようになるだろうという“楽しさ”への期待です。
 書くでもいいし、描くでもいいし、極端な話「彫刻という形で表現してしまう」のでもいいんじゃないか? と。
 (つか、そもそもプラモやフィギュアってのは、作り手のオタク視点などを立体物で表現しているとも言えるわけだけど。)


 こういった「視点を持つ」「伝える」などというのは一種の“能力”です。
 以前
「ライト層」=「若い世代」という意味ではない
 と書きました。
 改めて書きますが、この一連のシリーズで問題にしているのは「世代問題」ではありません。
 あえて書けば、メインで考えているのはこの能力の問題です。
 年輩だろうが若かろうが「ライト層」ってのは、この能力が無いんですよ。
 自分の身の回り(学校やら職場やら)を見回して、「年輩世代だからその能力があるわけではない」のを考えれば、僕が「世代問題ではない」と書いたことの意味はわかるかと思います。
(そう考えると、オタクって基本的に「実力主義」「情熱主義」の趣味なんだよな。)

 「能力などというどうにもならないことで批判されても困る」という方もいるかと思いますが、コレが重要な部分で勘違いして欲しくないんですが、「しかしそれは、決して先天的な能力ではない」ということです。
 「能力が足りない」なら構わない。というより、はじめから「能力がある」ヤツなんてごく稀な存在でしかない。
 オタクの能力なんて、いくらでも上げられるんですよ。
 それを上げる努力なり勉強なりをしてきたのが、現在「オタクのヘッドライナーとして存在している人たち」なわけです。
 (「趣味なのに勉強とかイヤ」なんてのは論外です。「本来オタクにとってオタク的なことを学ぶことは苦痛を感じない」なんてのは今更語るまでもないことです。だって、趣味においてそれをやって行き着いた果てがオタクという人種なわけですから。)

 この「能力」を、持つこと・成長させること・使うことを放棄してきた(あるいは怠けてきた)層が、僕の書いている「ライト層」です。
 何度も書きますが、こういうライト層の増加って「世代の問題」じゃないんですよ。
 極論を書けば、僕は「世代ゆえに発生している問題なんか無い」と思っていますし。

 「それは世代の問題で間違いない」。

 この考え方って、大谷氏が「フィギュア萌え族で間違いない」で終わらせてしまったことと同じです。
 「世代問題」にすり替えている一部の人たちは、たぶん「世代の問題である」と自己完結して安心したいんでしょう。以前「世代問題にすり替えていることは思考停止している」と書いたのもそういう意味です。
 ただ、大谷氏にとっての「オタク」ってのは、僕がカテゴライズしたところの「ライト層」である可能性は非常に高いわけで。
 そう考えるとやはり一部のオタクバッシングや、オタクをいまだにネガティブに描くマスコミ特有の、あの誤解を生み出しているのは「身から出している錆」です。

 圧倒的多数の「自称:オタク」であるライト層が、能力を育てることもせず、カンチガイだけを振りまいてきた結果、「自分たちに逆襲している」。
 その結果が現状です。
 同じオタクバッシングでも、89年と今では、実は発生している理由の根本は異なっている。

 なんかね、ここに僕は危機感みたいな物しか感じていないんです。
 しかもそれがこの2年ほどでどんどん増大している感じ。


※もちろん「世代の問題ではない」としているのは、「能力の問題」に対してです。
 特定の作品や事象への評価については、ものによりけりですが「受け手の経験してきた時代背景」「共通体験」のようなものが背景になる物はありますし、そういう部分においては
「この作品について僕とこの人が同じような印象を受けているのは、同世代だからだろうな」
 などがありえるわけです。
 僕も上の年齢層に「大阪万博」のことをいくら熱く語られても、やはりこの「時代背景」を経験してないんで、「体験としての温度」はピンと来なかったりしますし。



【了】


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