「今、そこにあるオタクの危機」 第2回
「閉じてしまっている批判」
text : 岡野勇
2004/12/17
■はじめに。
続きを書く前に、前回のタイトルの付け方が悪かったせいというのが大きいんですが、本文と関係のない補足をしておきます。
(すいませんね。本業でも「タイトル付けるセンスの無さはピカイチ」と言われ続けているくらいなので… ^^;;)
今回のテーマは「大谷氏の発言」についてではありません。あれはあくまで“入口”だということで設けています。
BBSで少し書きましたが、あの発言への批判などをテーマにしようとすると、僕の中では「オタクにとって…」というレベルでは語れません。もはや「社会に対するマスメディアの問題」です。
大谷氏のあの発言はそれくらい危険なものだったからです。
何の確証も情報も事実もない中 「犯人は○○で間違いない」 という断定。
そして、その対象に対して全く知識も理解もないままに振り下ろされる 「彼らはこういう人間である」 という思いこみとキメツケ。
この「○○」を特定の人種・民族や職業の人たち。あるいはなんらかしらの病を抱えた人たちや社会的立場に置かれている人たちに置き換えれば、それがいかに危険かはわかって頂けるかと思います。
まがりなりにも「大多数に対して情報を発する」というマスコミの中で仕事をしている人間として、僕は僕なりの信念というものを幾ばくかは持ち合わせています。
それに照らし合わせたとき、いくら大谷氏の発言がワイドショーやタブロイド紙という場で展開されたものだとはいえ、「あれをマスメディアの中で放つ」ことはとうてい許容出来ないし、僕の信念では「悪」ですらある。
数年間報道にいた人間として見聞きしてきた経験で書きますが、彼のような考え方が幾多の「報道被害」というものを生み出している一因です。
(全要因ではない。でも大きなファクターの一つです。)
その意味で裏を返せば、彼のあの発言は「どういう人間が報道被害というものを生み出すのか」がわかりやすい例だとも言えます。反面教師ですね。
ジャーナリストと報道人ってのは微妙に異なる人種ですが、それをさておいても大谷昭宏氏というジャーナリストが「社会と犯罪」に対してどういう考えを持っている人なのかはあのコラムが如実に表している。
そしておそらく、発言している氏自身は「そのこと」に全く無自覚であろうことがさらに怖いんですが。
んで、本文に入ります。
正直、「大谷氏発言」から繋げるには(事象とかそこからダイレクトに発生している物か? ってことについては)ちょっと「チガウ」っていうか、別のことではあるのだけど。
(それゆえにこの一連のテキストは「大谷氏やマスコミに対する批判テキストではない」と前置きをしたのですが。)
僕の書きたいことは「大谷氏の発言」とは他の所…早い話「叩かれた側」にあるので、またもや少し長いです。
しかし以前から、どこかでまとめておかなければならないと思っていたし、少なくとも僕の中では前回書いた「オタクと報道」がもたらしている物や、何でそれが起こっているのか? と無縁ではない…むしろ「僕の中では繋がっていること」なので書くことにしました。
また、以前から一度どこかでまとめて書いておかないと、BBSで書き込みするときに毎回イチから書いているのがめんどくさくなったとか、そういうのもあるんで。それがメンドクサイのは、更新をサボリまくっていた自分のせいなんですけど。(^^;;)
まあなんだ。大雑把に書くと「今年BBSで断片的に書いていた“僕の考え”の総集編」です。
いつもなら全文書き上げてから数回リライトしてアップ…という形式を取るので、文才が無いなりにもそういう部分のバランスがもう少し取れるんですが、今回は“入口”とした事例が風化する前に「とにかく頭の中に前からあったモノを吐き出していく」という方法をとったため、そのバランスすら取れていないと自分で思います。
いくつかの事については僕の中でコンフリクトしたまままだ解けていないと思う部分もあります。
でも、たぶん現時点でいっぺんまとめて書かないと、僕の中で「何かコレより先には進めないなあ」みたいな部分が強くなってきたので。
なのでいつにも増して相当に散文になっているかと思いますが、文意が伝わればと。
もう一度書きますが「大谷氏発言とマスコミ批判」とか、それがテーマってわけではありません。
テーマは何か? と聞かれると僕自身悩んでしまいますが、「この2年ほど考え続けていたこと」について、一度テキストの形でまとめておく必要性を感じたので。
■まず、前回書き忘れてしまったことについて少し。
例えば大谷氏発言やらも含め、最近なんだか知りませんがムダにオタクを扱ったネタをやる番組やら雑誌記事をやけに見かけます。
おそらくこれは、肯定的に取り上げている媒体に関しては、なんだかんだで「ヴェネチアビエンナーレで“OTAKU”が取り上げられた」という文化情報的側面が大きいのでしょう。
そこで描かれたオタクがどうであったのか? について、実際にあの場に行っていない僕は、ライターのあさのまさひこ氏が『モデルグラフィックス』『レプリカント』『インビテーション』等のいくつかの雑誌で書かれた記事や、BBSでも少し書いた『フィギュア付き公式カタログ』などから受け止め想像することしかできません。
なので僕は肯定するにしろ、チガウよなあと思うにしろ、それらに極力目を通してます。
それらから「ああ、実際に見てみたかったなあ」と思ってはいますが。
(で、こういう物に全く目を通さない無知な状態で「間違ってる」「カンチガイだ」と脊髄反射するバカがいる…ってのは前回書いたとおりです。)
その他の側面からのオタクネタが多かったのは理由がチョットわからないですね。
単に「偶然この時期にそういうのが重なっただけ」という可能性が高いような気もします。
僕が報道にいたときに内部で言われていた(番組を統括する人たちへの)皮肉で
「報道の常識は社会の非常識。」
「社会の常識に報道は無知。」
ってのがあります。
まあそれくらい「番組の方向性を決めているオエライさんたちと世間はズレてる」ってことなんですが。
オタク叩きしていた番組は別に全て報道系ではなかったけれど、週刊プレイボーイかなんか読んで
「秋葉原が何かスゴイことになっているらしいですよ!」
…とか今頃になって気づいたヤツが数人いたとか、そんな理由じゃないかなあと思ってます。
多くの番組や記事についてはネットなどで 「ネガティブだ、オタクバッシングだ」 と騒がれていたようですが、いくつかの番組は僕も見たんですけど、なんかねー…
それらへの反応を眺めていると、オタクの側が過剰に反応したり、あるいは自虐的な反応だよなあ…と思わされる物もあったなと。
「別にネガティブなニュアンスの取り上げ方ではなかった」番組でも、過剰反応して何が何でも「またオタク叩きだ」と思いこんじゃってるとしか思えない反応とか。
ポジティブでもネガティブでもどっちでもいいのだけど、それらの受け取り方に対し前回書いたように 「はじめからマスコミの言うことを否定するつもりで見聞きしている」 物があまりにも多い。
ネガティブな論調への反発はもちろんですが、ポジティブなものに対しても「あれはカンチガイしている。わかっていない」と反応したり。
自虐的で自閉的な反応。
けなされて怒るのはもちろんですが、評価されても怒るんですよ。コレはなんなんでしょ?
当たり前ですが、自虐してるからって彼らは自分たちの趣味が嫌いなわけではない。
「後ろめたい趣味をしているという認識の元の照れ隠し」みたいな、カワイイと言えばカワイイものである場合もあるんですが、ここでは“ちょっと手に負えないタイプ”を取り上げてみます。
どういうタイプか? というと、よく考えてみたら似たような反応をする人たちがいる他のジャンルがあることに気づきました。
いくつかありますが、目立つものを挙げると「一部のサブカル好き」とか「オートバイ好き」。
(もちろんそのジャンルの人が全員そうだというわけではありませんが、少なくとも僕は「結構多いよなあ」と感じてきたので。)
それは何なのか? と前々から不思議でずっと考えていたんですけど、僕が感じたのは、彼らは「蔑まれていて、理解されない趣味をやっている(あるいは“そう思う”)」ことによってアイデンティティを維持してるんだと。
それゆえ「自分たちは蔑まれていなければならないのだ」みたいな。
そこから自虐と自閉を発生しているパターン。
そういう人たちにとっては、「自分たちは文化的マイノリティである」ことが重要なので、「理解されない趣味だ」「周囲の認識は間違っている!」とボヤきつつも、実は「理解されたくない」んですよ。
理解されて受け入れられちゃったら自分たちのアイデンティティが確立出来ませんから。
だからこういうタイプの人たちは、例え肯定的でも褒められることや認められることが許容できない。批判するしかない。
「何がどう面白いのか?」と興味持って聞いても、彼らは 「やっていないヤツには(面白さが)わからない」 という言葉をよく使います。
スゴイ悪くイヤミな言い方すると「そういう自分たちに酔っている」わけです。
(コミックの『かってに改蔵』でもこういうネタがあったような気がするなあ。)
その意味では、こういうタイプの人たちにとって「オタクの在り方」であるとか「オタク」ってのは、かつて80年代とかに原オタク人たちが熱くなっていた頃のアイデンティティ(「アニメの社会的評価をもっと高めるのだ!」とか)とは正反対です。
「オタクは閉じている」というのはよく言われることですが、僕はこの論調にかなり疑問がある。
原オタクだった年齢の世代にとって、「その頃」というのは閉じていたというより、やはり“場にいる人口の絶対的な少なさ”が理由だし、その当時に風潮ではまだまだ「後ろめたい趣味」だったことを自覚していたがゆえの自己防衛でもある。
しかし反面、同じ場の中での横の繋がりってのはかなりあったので、その意味では実は完全に閉じてしまっていない。
初対面オタ同士でも、友達の友達…を3人くらい経るとたいがい共通の知人がいたりとかね。
また、社会的にも「オタクだとかああいう人たちの方が、そうでない人たちよりも交友関係が広い」なんてのは90年代アタマには、どこぞのリサーチ結果で発表されていたわけです。
けど前述したような「マイノリティである自分たちに酔っている」人たちってのは、ホントの意味で“完全に閉じてしまっている”。だって理解されたくない・理解させないわけですから。
現代では同じ“場”にその真逆の人たちが一緒に入っちゃっているわけで、そりゃ溝も出来ようってモンです。
■ちょっと話が逸れますが…
実はこの反応と同質のものがオタク内でたびたび起きてきた「村上隆批判」だと僕は思っています。
村上氏はオタクをネガティブに表現しているわけではないけど、でも 「あれはカンチガイしている。わかっていない」 という反応が必ずオタクサイドから出る。
僕は個人的興味で数年間、村上氏の発言などをなるべく目に通すようにしてきましたが、結論として「こういった論調に相当に疑問がある」にたどり着きました。
疑問があるっていうか、不満なんだけどさ。
なぜならそういった批判ってのは前回書いた
>「マスコミはオタクを知らないまま批判している!」とかよく言われているわけだけど、同時に「オタクがマスコミを知らないまま批判してる」
> 批判する相手に対して、オタクのくせにオタク的な視点で挑めていない
と全く同じだからです。
「現代アートはオタクを知らないまま描いている!」とかよく言われているわけだけど、同時に「オタクが現代アートを知らないまま批判してる」
こう言葉を置き換えれば僕の言いたいことは伝わるかと思います。
「キモイ」「あんなのオタクじゃない」と脊髄反射的な反応は多数ありますが、こういう批判をする人の中にある「オタク」ってのはたいがい「最近のアニメとか萌えってやつ」の事であり、それと比較して反応している。
しかし現実には、村上氏が提示しているモノは(それは僕らオタクの側がどう思おうが)“アート”なワケです。
だから、本気で正確に批判を行おうとしたら少なくとも最低限「それはそういうものだ」という認識は必要だし、さらに正確な批判をするならそちらの側からの視点ってのが不可欠になる。
作品単体を主観で「つまらなそう」「興味ない」「上手いとは思えない」と見る素人判断ってのは可能ですし、それは否定しません。(ただし脊髄反射反応なものでなければね。)
それは素人にとっての楽しみ方ではあると思ってますから。
しかし多くは 「オタクを自称している人間が、あれをオタクのアイテムだという間違った前提をした上で批判している」 わけです。
それも「それがその対象に対して“正当で本質を突いた批判”」であるかのように。
ここが重要で、村上氏に対して出てくる批判の多くって、結局アレを「オタクへのアイテム」だという受け取り方をした上で発せられている。
しかしこれは、それこそ前回書いた「批判する相手に対して、オタクのくせにオタク的な視点で挑めていない」。
村上氏の作品は、あくまで氏が影響を受けたり、好きだったりしたオタク的な数々のものをモチーフに、それを「アートという形式にコンバートした物」です。
ものすごくオタク的にわかりやすい例えをすると
「カトキハジメが若い頃に好きであった大河原邦男のアニメにおける“ガンダム”のデザインを、時代の流れの中での“今風”、かつカトキが学んだ機械工学などの工業的な知識などを持ち込んだ上で、模型という立体化を前提にしたデザインにコンバートした物が“カトキ版ガンダム”である」
みたいな。(ホントに合ってんのか? この例え… ^^;;)
アートに対して「これは『萌王』や『電撃ホビー』に載っているようなモノじゃ無いじゃないか! だからオタクじゃない! 勘違いしている!」と言ったところで、当たり前なわけで…
それこそかつて、あさのまさひこ氏が『ガンダムセンチネル』の読者コーナーで書き、今でも古いガンプラモデラーにはお馴染みの名言である
「カツ丼を食って“鰻丼じゃないじゃないか!”と怒るようなもの」
です。
「村上はアニメをろくすっぽ見ていない」という批判もかなり昔からあちこちで見ましたが、僕が諸々目にした対談記事などから感じたのは
「最近の作品とかは見ていない(というより興味を持っていない)かもしれないけど、昔のアニメは非オタ系の人たちより遙かに見ている」
でした。
(この推測は村上氏が『BSアニメ夜話』に出演したときに確信になりましたが。)
今回のテキストでは「ネットには脊髄反射批判しかできない輩ってのがあまりにも多くいる」ってことを前提にしているので、極力逐一ウザッたいほどに補足しますが、こう書いても脊髄反射で
「でも最近のアニメは見ていないんじゃないか! ならオタクじゃない!」
とか言う人がいると思うんで書いておきますけど、オタクってのは何も「最近のアニメとかゲームとか萌えキャラを見て知ってる人」のコトじゃないんですよ。
ただの消費者、ただの受け手に成り下がった(僕がかねてから書いている)「ライト層」にとってはそうなのかもしれませんが、本来は全く違います。
これについては次回以降に書きますが。
※なんで「脊髄反射批判しかできない輩ってのがネットにはあまりにも多くいる」なんてことを前提にしたのかというと、過去に何度かいくつかのBBSなどでこのサイトのテキストが取り上げられたのを見たんですが、そこでの批判・反応の多くってのが 「そのテキストが仮想敵にしていた層が、仮想敵にしていた理由そのまんまで脊髄反射している」 だったので。
なんというか、「スゲーつまんなかった」んですよ。
…と、村上隆(というか“アート”)とマスコミを同列に取り上げるような感じになりましたが、こう考えると「アートってのはメディア」であり、その中で「そのアートを食玩というマス(メディア)にした」『村上食玩』って、実は正しい姿だったのだなとか思ったり。(強引かねえ。 ^^;;)
まだ終わらないんですよっていうか、実はまだ本題に入っていなかったりする。(うはー…)
以下次回。
【了】
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