『ゴジラ×メカゴジラ』
2003/01/22


 もう公開が終わっちゃったんですが、『ゴジラ×メカゴジラ』を観ました。

 すでに時機を逸していますが、まあ、毎年サクッと感想書いているシリーズですから、とりあえず今年もってコトで。



★『とっとこハム太郎・ハムハムハムージャ!幻のプリンセス』

 まず同時上映から。
 『とっとこハム太郎・ハムハムハムージャ!幻のプリンセス』はとにかくひたすら例えようもなく退屈でした。
 1時間の作品ですが、『惑星ソラリス』よりも長く感じましたよ。
 上映途中で「いい加減終わるのか?」と思って時計を見たらまだ30分も経っていなくて絶望的な気分に……。

 オイラ、これまで数千本の映画を劇場で観てきた中で、2本だけ中途退場した作品があるんですよ。
 1つは『ポリスアカデミー』(1作目)。
 もっともこれは作品そのものは大好きなんですが、上映中、隣の席に来たホモの痴漢が一線を越えようとしてきたんで耐えきれずに逃げ出してきました。(後日改めて観に行きました。無駄金…)
 「作品そのものが耐えられずに出てきちゃった作品」は、エリック・ロメールの『緑の光線』という映画だけですね。
 もうホントに、あのダラダラ感が耐えられなくて。

 んで、この『ハム太郎』も、久々に本気で中途退場したくなった作品です。
 先に『ゴジラ』を観てしまっていたら、間違いなく途中で席を立って劇場を出てしまっていたでしょう。
 「『ハム太郎』を観に行くと同時上映で『ゴジラ』が見れる」と皮肉を言っている人たちが、ホントにコレを面白いと思っているのか? と。

 タイトルにあるプリンセスは、ただのワガママで何も考えていない娘で、事件の元凶であることの責任も感じていなければそれを悔いることも満足にしないという、ひたすら見る側の感情移入であるとか「助けてあげなくちゃ」な気分を削いでくれます。
 全くもって「好きにしろ」という気分。

 ああいう展開で行く以上、セオリーを考えれば普通は「悪い猫の魔法使い(なのか? これもそれらしい描写がとにかく無くて不明)」を封じるための笛がどこにあるのか? が後半クライマックスのスリリングさになるべきではないかと。
 これを全くハズすことによって、笑いにしようとしているんだけど……見事に「ハズしただけ」。
 猫の手下であるメーメー(ひつじ)も、実はこれがいなくなってしまった王子様で…というのが全く活かされていない。ラストで唐突にわかるだけ。
 これまたセオリーで考えれば、「クライマックスで、ピンチになるハム太郎達(というか、お姫様)の前に、勇気を奮い立たせたメーメー(王子)が助けに現れる」とかがあってしかるべきなんじゃなかろうか?

 ハム太郎が最後に言う「僕たちの帰る故郷はロコちゃんのところなのだ」というのも、冒頭で出てきて以来全く触れられていないので全然見る側のココロに来ない。
 囚われのお姫様は、捕らわれているお城を出たり入ったり。
 ハム太郎も一緒に出たり入ったり。
 「悪者に捕まっている感」が全く感じられない。緊張感がないにも程があるというか、まったくハラハラドキドキしないんですよ。

 早い話「作品が活劇として成立していないし、全ッく面白くない」。
 最悪と言ってもいいです。
 ドタバタ活劇としては大して評価もされなかった昨年の『猫の恩返し』の方が遙かに面白い。
 「モーニング娘。が声の出演をしているから…」という理由だけでわざわざこんなものを観に来たモーオタには同情を禁じ得ないです。



★『ゴジラ×メカゴジラ』

 で、『ゴジラ』ですが、同時上映がコレだったせいかこちらは本来の点数以上に面白く感じました。

 描写不足は多々ありますけどね。
 なんで釈ちゃん演じるヒロインは、そこまで自分の「生きている意味」を見いだせないのか? とか。
 「生まれたときから親がいなかった」ということは語られているけど、そこからさらに自分が疎外される扱いを受けるような人生を歩んできたようなことも語ってくれたり、描写として描いてくれないと、説得力に欠けます。
 彼女と、主人公の娘と、娘が「死んだ母」を重ねているオジギソウのドラマはもう少し描かれても良かったんじゃないかなあ。

 オレならどうするか? とか観ながら考えてしまったんですけど。

 例えば、釈ちゃんが前半は「自分の生きる場として特生自衛隊に身を置き、そこでしか居場所がなかったのに、そこすら同僚の死によって居場所が無くなってしまい…」と。
 あくまで「生きるために身を置いている組織の一部(兵器の一つ)」という自己認識しか持っていない彼女が、主人公の娘との関わりの中でそれが変化していく。
 クライマックスで機龍に自ら乗り込んでゴジラと対峙する彼女の中にあるのは、すでにそういう思いではなく、誰かの命を守るために、また誰かを失わないために目の前のゴジラと闘わなくてはならない。そしてそれができるのは自分だけ…というような展開にするかなあ。

 個人的に決定的に気にくわなかった部分として、「ゴジラを追い払っただけで撃破しなかった(できなかった)」という、最後のカタルシス不足はデカイ。(まあコレは、そこまでに何度かセリフで語られていた「ゴジラも生きている命だから」というテーマに絡めた描写&作劇上の解決策なんだろうけど…)

 また、クライマックスのバトルは、人間(が乗るメカゴジラ)と怪物の壮絶なブチ殺し合いの闘いを期待していたんですけどね。
 機龍(「メカゴジラ」のことです)の腕も首もブチ壊されて、ゴジラも満身創痍。
 機龍に乗っている釈ちゃんも、壮絶なぶつかり合いのダメージと操縦者に負担をかけすぎるがために本来は遠隔操作仕様になっている機体のGの中で、コクピットでケガしていたり。
 その中で両者がガチンコのぶつかり合いをするような。
 あまりにも小綺麗すぎる闘いというか、機龍がほとんど壊れないし、ラストにいたっても外装が綺麗なままなんだもの。

 ああ、あと特撮がヘコい。(ヘボい&セコい。オレ造語)
 泣けてくるほど。


 とか不満点は多々あるものの全体のテンポは良く、中でもクライマックス直前

「あーもう! なんで釈ちゃんが自分で機龍に乗らねえんだよ!! 作ってる奴ロボット物がわかってねえなあ!!
 あそこまで「操縦者に負担をかけるから遠隔操作」とか「命は大事」とかナントカ言っていて、まさか最後まで人間は安全圏でリモコンで「任天堂ウォー」で終わりなのかよ?!
 機龍暴走の時に「このシステムは危険だ…!」とかいうことで結局人間が操作することにしたとか、戦闘中にシステムが壊れて遠隔操作できなくなったとかにしてさあ!
 「もう動かせない!」
 「いや、メンテナンス用にある程度なら人間が内部で機体をコントロールするシステムはある。しかし、実戦時の機龍は内部にかかる衝撃が巨大で、とても人間が乗って闘うなんてコトは…」
 「私が行きます! 私が乗ってゴジラと闘います!!」
 とかいう展開にならねーのかよッ!?」

 とか思っていたらホントにその通りの展開になったので(笑)ノドの小骨が取れた気分でした。
 ここはスカッとしましたね。

 まあ、不満はあるけど、面白いことは面白かった…と言う感じです。

 脚本は三村渉。
 監督は『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』の手塚昌明。
 特撮は菊池雄一。



 とかナントカ書いてますけど、オレ的には「釈ちゃん出ているだけで満足」なんですけどね。


【了】

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