前期のTVはどーだったのよ?・3
『3年B組 金八先生』 その1


text : 岡野勇

2002/04/29


 数回中断してしまいましたが、前期のドラマ感想。最後は『3年B組 金八先生』です。
 書いていたらえらく長くなってしまったのでこれだけ別立てにしました。

 なるべく「時々しか見ていなかった」とかいう人にも伝わるように留意はしたつもりなんですが、個人的な思い入れがものすごかったので、たぶん「見てなかった人にはマッタクわからない」感想になっちゃっているかもしれません。(文章力無いからねぇ…オレ… ^^;;)

 なので、見てなかった人は飛ばしちゃってくださって結構です。はい。

 でも、もしこのつたない感想を読んで興味をもってくださる人がいたら幸いです。


★『3年B組 金八先生』

 何度かBBSにも書いてきたことですが、「第6シリーズ」というより「第5シリーズ・2」というニュアンスが強いシリーズでした。

 第4シリーズまでが「子供の側の言葉を描こうとしていた」のに対して、この第5・第6シリーズは「大人が今、子供に、何を言わなくちゃならないか? 何を考えなくちゃならないか?」を描こうとしていた作品だったと思います。

 また、第5・第6は実社会的な背景だけでなく、脚本の小山内美江子さんの年齢的な理由もあるのだと思いますが、様々な形の「生と死」について描いていた2シリーズでもありました。
 それは今回のシリーズに登場したキーキャラクターの1人である、性同一性障害を抱えた鶴本直(つるもと・なお)というキャラクターについてもです。
 彼女の悩み・苦しみ・性も、また「生」の問題の一つです。

 今回、坂本金八先生は桜中学を去っていくという終わり方をしました。
 おそらく小山内さんの年齢を考えると、なんらかしらの「スペシャル版」くらいはあるかもしれませんが、これまでのようなシリーズ番組としての『3年B組金八先生』はもう無いでしょう。
 たぶん今回のシリーズが最後であると思います。
(ただ、第4シリーズだったかな。やはり「教育委員会かなんかに研修で行っていた金八が呼び戻される」というスタートをしたシリーズもあったので、もしかしたらまた戻ってくるかも知れませんが。)


 そもそも95年の第4シリーズ終了の時、オレは小山内先生に会いたくて、番組の取材で実際にお会いしたんですが、この段階ですでに小山内先生は「年齢的にもうつらいので、シリーズは書けない」と言っておられたんですが、それでもこの2シリーズを短いスパンの中で描いたことは、「今、書いておかなかければならないことを見つけ、それを残したかった」のではないかと思い、オレは「これは小山内先生の遺言だ」と受け止めました。
(いや、まだ元気に存命されているのに失礼だとは思いますが。)


 なんというか、1人の脚本家が命を削って書いているというか、真剣勝負で受け手に対峙しているというか、ものすごい執念と信念を感じ、そしてそれを見届けさせて貰ったという気分です。

 脚本家だけじゃありません。

 例えば金八の説教などは、事前に小山内さんと武田鉄矢氏が打ち合わせをして、彼が「自分の言葉で話す」というところは、シナリオ上では何も書かずに空白にしてあったというのは有名な話です。

 やはりオレにとっては、テーマ設定や伝え方に巧さなども含め、そういった部分以外でのセリフや「コトバの選び方」なども、「なんで1人の人間が、このクオリティの物をこんなにたくさん書けるんだよ!」と思わされた部分です。


 「コトバ」というのは、相手に己の意志や感情や考え方を伝える「便利なもの」であると同時に、使い方によっては「凶器」ともなります。
 それは誰かを肉体的に傷つけるものではなく、「心を傷つける凶器」であり、時には相手を死に至らしめることすらあるわけです。

 ゆえに、本来「コトバを使う」という行為は、そのこともふまえ、かつ「自分が使っているコトバがどういう物か?」を理解し、「相手と対するときは真剣でなければならない」…とオレは思っています。

 このことは「そのコトバが国語的に正しいか?否か?」ということではありません。
 また「話す」という行為のみに限ったことではなく、「書く」という行為においてもです。


 そのコトバを発する(使う)側が、例えるなら「信念をもって発しているか?」とか「真剣に相手と対そうとしているか」とか「その発したコトバに責任を持っているか?」とかそういうことです。

 このことが世の中で全般的におざなりにされてしまっている。考え無しにコトバを使っている人が最近あまりにも多いなあ…というのが、まがりなりにもモノカキの端くれであるオレが思っていることです。(『メカラッパ』や『キャプテン・ラヴ』のプロットを書いたときには、そういう部分もものすごく気を付けたつもりです。)


 古い言い方ですが、作家を「文士」と呼ぶ時代がありました。
 国語辞典を引くと…
1 文筆に従事する人。文人。文章家。
2 文官。
3 小説家。作家。
 …と書かれています。

 この中に戯曲作家や、脚本家が含まれるのかどうか? といった、本来の国語的な意味とは若干異なるのでしょうが、オレは「文士」とはそういうこと…「コトバが凶器たり得ることも理解し、その上で己の信念に基づいてコトバを使っていたモノカキ」…だとかちょいとロマンティックに思ったりしたりしているんですが、そのオレの「基準」でいえば、小山内美江子さんという作家は「見事に文士であるなあ」と思わされたわけです。


 「学園ドラマ」「先生が主人公」という表層的な部分は、実に大衆的で古くからあるスタイルのドラマであるためにあまり触れられたり、正統な評価を得ていると思えないのですが、実際、この『金八先生』の脚本は技術的な部分やシリーズ構成など様々な部分で、それはもうオレなんかは太刀打ちできるようなものではない高等なレベルの作品です。

 あるベテランの脚本家の方が以前なにかの雑誌のコラムの中で、「『金八先生』のシナリオの凄いところは、無駄なエピソードが一つもないところである。」と書いていたのを読んだことがあるのですが、やはりベテランの方から見ても「ハイレベルな技術」で書かれているシナリオであるようです。


 いやホント。なので、オレなんか毎週「見る」だけでも緊張したんですよ。

 なんかねー、誰も信じてくれないだろうけど(^^;;)、オレ、すげえガキの頃に剣術を習ってたんですよ。道場に通って。1・2年間くらいですけどね。すぐ止めちゃったんですが。
 あまりにも昔のことなんで流派とか何も憶えてないですけど、竹刀での稽古の他に抜刀と納刀の練習とかもさせられましたね。(この時に使っていた練習用の模造刀はまだ持っていますが。模造刀と言っても金属製なんでムチャクチャ重いです。)
 で、見ていたら、この時のこと思い出しちゃって。
 稽古で、そんなガキじゃ絶対に勝てない師範代と対峙するワケですよ。
 そん時の緊張感を思い出しましたね。


 特にラスト5話はねえ…
 もうホント、何も文句無かったですよ。あるわけがない。
 毎週、帰宅後深夜にビデオで見ていて号泣どころか嗚咽でしたもの。
 最終回なんか泣きすぎて、見終わったあと目が痛くなりました。

 父が殺人を犯して服役中の成迫政則(なるさこ・まさのり)について様々な憶測がクラスで流れ始めた中、彼が皆の前で全てを告白し、「真実」を知った彼らが成迫の力になっていく課程などは見事でした。

 あそこに行き着くまでに、転校はじめは「僕に関わるな!」と完全に周囲を拒絶していた成迫が、ちょっと知的に問題を抱えているらしい隣の席の男の子や、彼の世話をしている少女との関わりの中で、やがて笑顔を見せるようにまでなっていく課程が「これみよがし」ではなく、極々自然な当たり前の風景として徐々に見られるようにしてあったのも見事としか言いようがないです。

 その「笑顔を自然に見せるようになっていく課程」があったればこそ、彼が姉を殺したにもかかわらず罪に問われていない少年を見つけたときにとった行動(自分が彼に刺されて「罪に問えるようにしよう」とする)は、オレはもう涙なしには見れませんでした。

 また、「罪を憎んで人を憎まず」的なキレイ事なセリフや、反対に「絶対に許さない」という恨みを言うドラマはいくらでもありますが、この時の金八の「(おまえは)生きて、あいつを許すな!」というセリフはキレイ事でも恨み言でもない、それ以上の物を感じました。

 そして、性同一性障害であることをクラスの中でついに告白した鶴本直(つるもと・なお)のエピソードは、放送開始時から「こんな難しいテーマをどーすんの? なんで今回こんな難しい設定を入れたの?」と思いましたが、実際にはただただ脱帽。

 ヴァカなプロデューサーやシナリオライターだったら「ショッキング性のある面白設定」として扱うであろうこの問題を、真っ正面から描きました。(実際にそういうコトを平気でやれる人間がこの業界に何人もいるのはよくわかっています)


 「性同一性障害」を扱った作品としては少し前に公開されたアメリカ映画『ボーイズ・ドント・クライ』が記憶に新しいですが、いちおー「実話に基づいた」というこの映画は、実際に観てみると「性同一性障害による苦悩」とかそういう部分にスポットを当てているわけではなく、どちらかというとリバー・フェニックスの代表作の1本にしてガス・ヴァン・サントの出世作である『マイプライベート・アイダホ』における「同性愛」や「ナルコレプシー(睡眠障害の病気)」のような「キャラクター造形の1要素」くらいの扱いであったと思います。

 しかもアメリカでは「性同一性障害」というものが、それほど一般認知されているのから何かどうかわかりませんが、「性同一性障害」についてほとんど説明がないんですよね、この映画。
 「これは実話です」と言われてしまっているので「はあ、そんなことが実際に起きたんですね」と思うしかないんですが、あれがフィクションの映画であれば「自分について何も考えていない同性愛の女の子の話」にしか見えないんじゃないかと思ってしまったりしました。

 で、「実話だ」と言われているから文句言いづらいんですが、正直オレは全然面白くなかったです。>『ボーイズ・ドント・クライ』
(『マイプライベート・アイダホ』も「だから何なんだ」と見終えてしまったオレなので、そもそもああいう映画そのものと相性が悪いのかも知れませんが。)


 長々続いた「様々な『パトレイバー』」に続いてナンですが、すいませんがこの項もちょっと長いです。
 てなところで続きは次回。


>> 『3年B組 金八先生』 その2 へ

【了】

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