様々な『パトレイバー』・3

text : 岡野勇

2002/04/20


 なんか、当初予定していたよりもベラボーな長さになってしまい(それでいて中身はあるのか? というと疑問を拭いきれない ^^;;)この項。
 今回で終わりです。



 まあ、正確な経緯は知りませんし、あくまでも「さまざまなオレが目にしてきた物から推測した」ことでしかありませんが、『パトレイバー』はゆうきまさみ氏らがやっていた、その「企画ごっこ」の中で生まれたものが誰だかを介してバンダイの目にとまりビデオアニメ化…ということになったのではないかと思います。

 んじゃ「押井監督は?」というと、これは明確です。

 初期ビデオ版がリリースされる直前、ニュータイプ誌に『パトレイバー』の別冊付録が付きました。
 これには『WXIII』の原作となった、ゆうき氏によるコミックの1エピソード「廃棄物13号」のさらに元ネタとも言えるマンガ(謎のクマみたいな怪物を特車二課が捕獲する…という短編)と、アニメの設定資料に加え、ゆうき+出渕+伊藤の3氏による対談が載っていました。
 あと、押井監督のインタビューも載っていたかな?

 んで、これまた「完全に記憶モード」なのが恐縮ですが、その中の発言や、&後に読んだ何かでの押井氏本人のインタビューなどから、当時「押井監督」の「関わり」や「立場」については以下のようものであったことであったことを憶えています。
(本棚の奥から資料探してこいよ>オレ)


●監督の引き受け手がいなくて、押井守に白羽の矢がたったこと。
●押井監督は、企画のほとんどが決まった段階で、一番最後に参加したこと。
●押井監督は「俺は(この企画に関しては)雇われ監督だから」と言っていたこと。



 で、長くなりましたが、なので、こう言うことを考えていくとオレとしては押井監督の発言に対して
「リクツはわかりました。でも、あなたはそれを言う立場なのかな? 本当にその言い分はスジが通ってるんですか?」
 という気分が拭いきれないわけです。

 ゆうきまさみ・出渕裕・とりみき3氏が考えていた「企画時」の本来の『パトレイバー』ってのは、「ああいう”日本が生み出したアニメチック”、それも”明確に人型のシルエットをしている”ロボットが存在している世界」なわけで、それに対して「あんなロボット、工学的に変だから…」「存在理由そのものに整合性が…」というのは「基本的な部分」への否定でしかないわけです。

 たしかに、ゆうき氏が自身のサイトでも書いていたように、ゆうき・伊藤和典・押井それぞれの中での『パトレイバー』像ってのも違っています。
 それは作風など、そういった部分だけでなく、「その設定・作品で何をやりたいか?」ってことなんですが。

 例えば、伊藤和典氏などは前述のニュータイプ誌別冊付録での発言。またTVシリーズでの「グリフォンが絡んでこない氏による完全オリジナルエピソードや描写」などから思うに、「ロボット部隊の隊員達の日常的な話」をメインにやりたかったようですし。
 ちなみに「すぐに銃を撃ちたがる太田」「普段はおとなしく弱気だけどキレると怖い進士」とかのキャラクター造形は、かなり伊藤氏のアイデアが入っているようで、ちょうどその頃公開されたコメディ映画『ポリス・アカデミー』を参考にしたようです。
 (この映画、オレも1作目は大好きなんだけど、映画館でものすごいホモの痴漢に遭ったというイヤな想い出もあるんだよな…。)

 あと、ちょっと不思議な印象を受けるキャラクター達の名前(「野明」とか「遊馬」とか「進士」とか「香貫花」とか)も、たぶん伊藤氏のアイデアが大きいんではないかと。
(昔なにかで読みましたが、この人、日頃から目に付いた変な名前ってのをリストにして作ってあるらしい。)


 こういった「違い」はオレが「本当の原作者」だと推測している「ゆうき・出渕・とり」3人の中でもそれぞれ微妙に異なっています。
(それは『WXIII』と『廃棄物13号』の違いからでも明かに伺えますね。)

 だけど、ゆうきまさみ氏にとっては(これは氏自身がたびたび発言してきているとおり)『パトレイバー』は『鉄人28号』へのリスペクト色が強く、故に「グリフォンのデザインはああ」なワケで(シルエットでわかると思いますが「ブラックオックス」ですな)、「あげくに空を飛びやがった」も何もないんですよ。

 ついでに書けば「レイバーを飛ばす」という、あの世界観の中で誰も考えなかったような馬鹿げたことをやらかした稚気に「内海」という男の幼児性をも含ませていたわけですが。

 んで、さらについでに書けば、「飛びやがった」と押井監督は表してしますが、実際にはエアインテークが外部に無いことなどからグリフォンに積んであるのは「ロケットエンジン」のような物で、ドカン! と飛び上がったはいいけど、空中での制御性・機動性などはほとんど無いと考えられます。

 内海が会社の金を使うだけ使いまくって作ったこの機体。パーツ1つ1つに至るまでそれはかなり高価で高剛性がある機体だとは推測できますが、ラストエピソードで「リミッターを外した」だけでもあれだけの負荷がかかるのが「あの機体の剛性の限界」でもあり(つっても、一般のレイバーに比べれば驚異的な剛性を持っていると思われますが)、それを考えれば着地時の衝撃にアクチュエーターが耐えられるわけもなく、あくまで「ASURA」という中枢コンピューターを回収するための「現場からの離脱用」機能以上の物では無さそうです。
 大体、本当に「飛行機能」と呼べるほどの機能が備わっていたなら、内海の幼児性を考えればグリフォンはあんな「トラックの中から登場する」んじゃなくて、空からワルキューレでも流しながら颯爽と舞い降りてくる…くらいのことをやっていたんじゃないかと。(^^)


 でまあ、こういうことを書いてきましたが、ましてやそれが「押井監督の劇場版」などに影響を及ぼすならともかく、「対グリフォン」というストーリーは、あくまでも「ゆうきまさみ自身の中にある『パトレイバー』像の中で、彼が独自に作った物語」なんですから、それに対して「あげくに…」とかいうのは完全にお門違いです。


 まあ、ゆうき氏は「全てのパトレイバーを肯定する」と大人な発言でまとめておられますが、これを素直に受け取るなら「そういったそれぞれのスタッフの解釈の違いも受け入れた上で」なんでしょう。

 で、現実的にも『パトレイバー』があそこまでの評価を得たのには、押井監督による劇場版2本の功績も大きいわけで、それを無視することは出来ませんし、否定は出来ません。

 だけど(それでもオレはやはり)、それは仮に彼が「商品」としての『パトレイバー』に「ヘッドギア」って事で連名されているとしても、オレは「あなたが100%作った企画ならいいけど、でもそれは筋が通ってないんじゃないの?」 と思ってしまうわけです。


 さらに揚げ足取りみたいな補足になってしまうのでイヤなのですが、ゆうきまさみ氏が自らのサイトで書かれていた文章からすると、「押井監督は当初、風呂釜に手足が付いたようなロボットを提案」していたようで、それはゆうき氏らが受けている印象では、少なくとも最近になって押井氏が言っているようなロボット像ではなかったようです。
 つまり、ものすごい邪推になってしまいますが、前々回・前回でも書いたモデルグラフィックス誌での押井氏の連載『迷走ガジェットFILE』などで、近年になって押井監督が言っている「パトレイバーにおけるロボットデザインへの不満などなど」ってのは、「最近になって思いついたこと」を、さも「その頃から考えていた」ように言っているだけ…とも受け取れちゃうんですよ。オレは。

(実際、このことだけではなく、氏の「自作への発言や解説」などでは、以前から時々「ソレって後付的に理由付けてませんか?」と思えるものがオレにはあったので、余計にそう思えてしまうんですが。
 もしかして、「アンチ押井」の人が押井監督を嫌うのは、そういう部分なのかなあ。)


 基本的に押井監督の「一般的にも広く評価を得た作品」ってのは全部「他人の原作物で、なおかつその原作を壊してしまったところで成立させている作品」ばかりなんですよね。
 それは『ビューティフル・ドリーマー』も『パトレイバー』も『攻殻』も。
 いや、オレは『天使のたまご』も『御先祖様万々歳!』も『とどのつまり…』(これはマンガ)も好きですが、これらはやはり「一般的に広く評価を得た」とは間違っても言えない作品です。

※ …と、ここまで長々書いてきていて今更気づいたんですが、考えてみるとこの人、『御先祖様万々歳!』でも同じコトやっているんですね。
 それはナニか? ちゅーと、『御先祖様』の基本設定のコンセプト部分って、これまた「他人が原作・自分が監督」だった『うる星やつら』への反駁・否定・イヤミ…というか「あの設定を裏返してみたらどうなるのか?」だったわけです。(これはオレの推測ではなく、何かのインタビューで押井氏本人が語っていたことです。)

 つまり「ラムが宇宙人で空を飛べて…などというのは何かのトリックか何かを使って周囲を騙しているだけで、それは諸星一家に入り込むための仕掛けにしか過ぎず、その「不穏要素」を含ませた家族がどうなるか?」。
 だから主人公の声が古川登志夫だったり、いく人かのキャスティングが『うる星』と同じなのも、そのへんを意図してのことなわけです。

 これも考えてみりゃ、『うる星やつら』という高橋留美子が作った物に対して「あんたがそんなことやる筋はあるの?」と思えなくもないですね。


 んー…なんかかなり『パトレイバー』についてというより「押井監督に対して批判的」な文章になってしまったけど、こういう書き方しておきながらナンだけど、前にも書いておいたように、別にオレ「アンチ押井」だとかいうわけではないんですよ。
 そのへん誤解されちゃうと困るんだけど。



★最後にコミック版について。

 最後に、こういった理由からオレにとっては「オリジナルの『パトレイバー』」という受け止め方をしている「ゆうきまさみ氏のコミック版」について少し感想をとかを書いておきます。
 オイラ、このコミック版ってのはとにかく好き…というか高く評価していまして。
 まあ、このマンガ。たぶん読む人ごとに「好きな部分」「評価部分」はかなり異なるんではないかと思えるくらい、様々な部分に魅力があります。
 「ロボットマンガ」としての部分に魅力や評価を感じている人もいるでしょうし、キャラクター達や警察物としての部分に面白さを感じている人もいるでしょうし、主人公側ではなく「内海たち悪役」に面白さを感じている人も多いんではないかと思います。

 で、オレ的には「野明」というキャラクターの成長物語が非常に魅力的な部分でした。「なんとも上手いなあ…」と思わされましたね。
 それは、なんかドーンと目に見えて伸びて行くんじゃなくて、作品全体を通して、それはもう緩やかに。実に緩やかな成長の仕方なんですが、それがものすごく丁寧に描かれていたよなと。

 「自分の無力さ」や「出来ることの限界」を感じつつ、それを否定しがいがために無理をしてさらに失敗をしてしまったり。
(シリーズ前半にあった「お金を拾う」というエピソードはそういうことが上手く描かれていたと思います。)

 「警察官」という彼女が選んだ進路も、別にそこにあったのは「正義を行える」わけでもなく、むしろ自分たちが行動できるのは「大概すでに事が起きてから」という現実。
 だけどそういう「理想と現実のジレンマ」の中で確実にゆっくりと成長していき「自分の中で正しいこと」「自分が今できること」を理解し、出来るようになっていく課程がキチンと描かれていたと思います。

 酔っぱらった野明が、こういった葛藤のことについて「それは偽善だ」と遊馬に言われ口論になったときに発した、「偽善の何が悪いんだ。りっぱな偽善が出来る立派な大人になればいいじゃないか」というセリフは、わたしゃメチャクチャいい言葉だと思いました。

 おそらくここで語られている(定義されている)「偽善」ってのは、ちょっと言葉にするのが難しいんですが、「悪党がそれを誤魔化すために化けの皮を被っている」…ことではなく、「本心ではないけど良い人のフリをすること」なのではないかと思います。
 オレ自身「偽善者」であることは自認しているんですが(^^;;)、やはり同様のことを昔知人に言われたときに「偽善でも悪よりはマシだ」と言った憶えがありますが、個人的には野明とオレの「偽善」の定義はかなり近いように感じます。
 だから余計にこのセリフが好きなのかも知れません。


 ラストのグリフォンとの闘いの時、野明がバドに向かって言う「君のやっていることは間違っているよ!」は、「警察官としての説得」ではなく、その成長の中で「彼女自身の心の中で見え始めた正悪に基づく説得」だったんじゃないかと。

 ちょうど連載時に、オレ自身がそういう「理想と現実」に悩んでいる年齢的な時期だったというのも大きいんでしょうが、この野明の成長物語はかなり感情移入した部分でした。

 あと、彼女の「実に健全な精神構造」ってのも読んでいて好きでしたね。
 後藤達が入手した「児童売買のリスト」を見てしまった野明が、そういった現実があることに吐いてしまう…という描写がありましたが、あのへんはものすごく好きな場面でした。
 彼女にとっては「イヤな現実を見せつけられた」出来事なんだけど、それに対してああいう拒絶感を見せることができ、ちゃんと感情を爆発させて怒ることができる…というその人柄は、その他の出来事にまつわるエピソードでも、読んでいて何度も救われたような気がしました。


 だいぶん前、すでに『パトレイバー』コミック版は『BSマンガ夜話』でも取り上げられましたが、この回、見ていて不満だったのが「視聴者の反応」でしたね。
 なんか送られてくるファックスとかメールの意見が、ほとんど「オマエらソレって「アニメ版」について書いてない?」としか思えない物が多かった記憶があります。
 『マンガ夜話』の出演者陣の切り口は非常に面白い回だったので、逆にその「視聴者側の浅さ」が余計に印象に残っているんですが。
 出演者陣の発言の中でオレが聞いていて「目からウロコ」だったのは、岡田斗司夫さんの言っていた「これまで「悪の側の理屈」を描いていたマンガはいっぱいあるけど、このマンガのすごいところは、この内海という男のメッキがどんどん剥がれていく課程がキチンと描かれているところ。」という評でした。
 これはオレは気づかなかったなあ。なるほどと思わされました。



 とまあ、数回に渡って無駄と思えるくらい長々書きましたが、そんな「様々な違いを楽しむ」という意味でも『WXIII』はけっこうオレはオススメの映画ですね。
 「ゆうきまさみ版」とも「伊藤和典版」とも「押井守版」とも違う、新しい『パトレイバー』の見せ方・「実はこの世界観はこんな遊び方もあるんじゃないか」を提示していたと思います。

 押井版とはまたカラーがまったく違う映画ですが、押井氏が脚本のみを担当。沖浦氏が監督をした『人狼』が「良い意味で日本映画」だったのと同様、これも「良い意味で日本映画だなあ…」とオレは思いましたし。

 好き嫌いは別れる作品だとは思いますが、「押井監督の作品じゃないんでしょ?」って理由で見損なうのはちょっと損ではないかなあと思います。
(いや、実際けっこうこう言っている人が多いので…。)


【了】

もどる