SARP・3  展評     会場写真
さいとう よしとも 展
fixed point : 16square + 1screen in back
video installation
2010.8.24 - 9.5
SARP 仙台アーティストランプレイス

 遮光のためのカーテンをわけてインスタレーションの中に入った瞬間、かなりの早さで明滅する光と、にもかかわらずスタテックなグリッドやスクリーンの設えの印象のズレにまず直面したことを書いておこう。物理的な刺激に乗っている映像の変化を知覚する前に、あるいはイメージの連鎖やシークエンスの理解を進める前に、間近な中空にセットされた横長の2枚のスクリーンとそのスクリーンがそれぞれ4×2段の8つの方形に分割され、それはかなり強い金属様のフレームによって、つまり黒々としたグリッドとして目の前にあった。そして、少し落ち着いてみれば、スクリーンの後側の空間、それは、投影されている映像の照り返しによって、ぼんやりとした光が満ちているのだが、を通して、最奧の壁に同じフォーマットの、しかし、こちらは1枚でグリッドもないものが、手前の2枚のスクリーンの間を通して見えているのだった。
 映像の投影方法が、後のスクリーンではフロントからの、前の並列する2枚のスクリーンではバックからと振り分けられ、スクリーンの大きさと投影された映像の大きさが厳密に一致するようなプロジェクターの投影距離によって、ギャラリーの空間は分節されている。手前の引きのなさ、つまり、2枚のスクリーンの映像を一つの視野のなかにとらえて知覚できる視点は与えられていない。映画館での最前列感覚(見上げはしないけれど)というのか、うしろのカーテンの間からつぎの観者が入ってくることからも、この作品の観者は、映像に対する対面性は強いのにもかかわらず、特権的位置を与えられない。このことは意図的なことだろうか。見る私(達)はグリッドの前を平行移動するだけとなる。がしかし、映像のインスタレーションと観者は慎重に分離され、観者の位置は、映像との距離は近いけれども映像の外側へと指示的なものにされている。

 入口に、ワンサイクル4分30秒の表示のある作品は、すべてが、1固定地点からとられたものではなくて、仙台であろう都市の様々な地点でとられた映像を、切り替え速度を速めて一つながりにつくられている。3枚のスクリーン上では、同じ映像が流れることもあるが、あるいは一つながりの映像として、分割されたスクリーンを大きな一枚のスクリーンとして流れていく映像も含まれるが、基本的にはずれを含みながら、グリッドの中それぞれも違うものが投影されている。切り替え速度はかなり速く、連打的な明滅スピードのところもあり、リズミカルなという形容の範囲を超えている。そこでは、どちらかといえば、映像の「像=イメージ」の部分よりも光や色のパターン変化のほうが印象づけられていくようなのだ。また、部分となっている各シーンは、そのなかでのカメラの視点が動くことはなく、この点ではタイトルの直接的あらわれになってもいる。当然、写されている光景はそれ自体の変化を持っているので、それは、画像のなかの動きとなってあらわれている。
 映像の中の動きは、多くのシーンでは都市の交通や流入の映像として見えている。港、空港、駅、駅前交差点の歩道、鉄道上など。当然、鉄道だけが内的な視点からのシーンになっていたが、その他はむしろある種ロマンチックな外的な視点のようでもあった。しかし、これらも、シーンの意味が一種の都市論へと収斂していくものではなくて、あるいは喩の束のようなものでもなくて、即物的感覚的でそのもの性の強いもののように見える。あるいは、即物的感覚的でしかありえないということだけが意味をなしているのだろうか。フィックスされて撮られているのは、非常にパーソナルな感覚的な映像で、ある種色彩造形的な映像といえるものなのだ。

 作品の内部で分節されたリズム=時間は、それが一つながりの全体として構築=意味を持っているわけではないのかもしれない。身体が同期するドライブ感覚ともいいにくいそれは、まさにキーボード的な打鍵リズムの変化のまま、ワンサイクルが完結していく。むしろ、身体性の希薄なリズムとその変化は、古典的な構築性のほうへとすり寄っていくようでもありながら、それも、知覚できぬまま終わっていく。リズムは、画像の、ひいてはリアルワールドの、知覚的な発生と消滅の刺激でもなく、光の明滅へと単純化される。少なくともぼくの身体が同調するには、少しだけ早すぎ、機械的でもあるのだった。
 リズムが作品のなかに、一つの幽霊のようなものをつくりだすのは、手前の2つのスクリーンがかすかな映像をのこして暗くなり、奧のスクリーンのみが映像を明滅させるときだけかもしれない。この、あったかもしれない瞬間は、物理的な刺激の強さとは違った、あるいは手前の光の明滅の刺激にもかかわらずに、作品の中の多重性を見せる。

 映像というものや多くのプリントは透明なものである。この透明さは、ほとんどが物理的な透明性によっている。それは、画像と画像を透かして見えるリアルワールドの間にある距離によるもの、なかば現象的にあるものではなく、むしろ、画像の想像上のテクスチャーの変化とその画像をつくりだすメデュームの均質さとの差にある。メデュームの物理的な均質さが透明感を持たせる。さいとうの作品では、グリッドの存在をのぞくと、映像も、メインギャラリーの隣の小空間でのプリントあるいはキュービックなアクリルボックスによるプリントオブジェも相応に透明感を持っている。
 さいとうの作品の透明性も、個別にみていくなら、いくつかの位相がみられるに違いない。しかし、おおむね、メデュームの均質さによって、つまり、個々の作品シリーズによって、つかわれている素材が違うので、その違いから物理的な透明性の位相の違いがでているだけである。そこでは、映像の物理的な素材の透明感=存在はあったとしても、透明感からはみだすような暴力的な映像(=素材)の存在感はない。また、さまざまな身体性にかかわっているのでもない。その透明性は物理的なものであるがゆえに、多層なイメージ(少なくとも表面のテクスチャーと映像なり画像なりのイメージの2層)のかさなりは、レイヤーという用語をつかったほうがよいのかもしれないが、工芸的でもありデザイン的なものに終わっている。むしろ、物理的な作品形式の構造が明解であり、その明解さはレイヤーの反転など、作品の多重性をあらわにするような一種のつくりだされたカオスとは対極にあって、物理的な存在を通して見える映像がそれ自体として意味の構造が弱いために、物理的な存在のリテラルな透明性だけがのこされている。
 距離をとられた二重のスクリーンがリテラルな透明性以上の現象的な透明性を持ち得るのは、手前と奧の明滅のリズムが変化し、それが映像の最低限の状態としての明度が知覚され、それが手前と奧で差をもった瞬間かもしれない。
 グリッドの問題に立ち返ろう。さいとうの作品では、明示的なグリッドは実は少ないのかもしれない。本来、デジタルな情報テクノロジーをつかっていくことにともなう、アーキテクチャーに隠されたグリッドが支配しているだけなのかもしれない。メインの映像インスタレーションでは、なによりも、黒々としたグリッドが明示的にあらわれている。しかし、この作品ではグリッドは横に連続していきそうになりながら、フレームによって区切られ、同一のフレームが2つ並列しているが、それも、並列を示しているのみで、フレームの無限反復を想像させているわけではない。このとき、グリッドは反復でも平面性でもなく、むしろ、映像の演出として、小イメージ間のヒエラルキーを受け持つものになっているかのようだ。それは、ある種感覚的映像においては、その趣味性を際だたせこそ、小映像ごとの差異は知覚可能な領域にはのぼっていない。そう、作品タイトルにあるような16のスクリーンであるより、そのスクリーンをつくりだしている、枠としてのグリッドの文字通りの物理的な存在が際だっているのだ。映像の演出としての分割と連続はみられるものの、それが意味のレベルで、あるいは幽霊のレベルで、グリッドの反復性と相互関係を持つことも、グリッドのフレームによって整序されつつそれを浸し犯していくこもない。(そのあたりは、背後のスクリーンとの関係のみにまかされているのだろうか)
 グリッドがそうであるように、フレームも映像を切り取りこそすれ、視点の位置をしめすこともなく、また、フレームがあることによるその侵犯もとりたててあるわけではない。さいとうの正方正則グリッドは、横長のフレームとフレームのプロポーションを決めるようなフォーマットまで含めて、彼のテイストに貫かれている。

 さいとうの作品の技術形式的な完成度は高い。この完成度は、映像のフィクション性のリアリティにあるよりは、造形的なテイストの水準にある。文字通りのドキュメントというわけではない映像にとって、それも、映像が光に還元され、多義性がないときに、感性以外の幽霊のでる多重性は可能なのだろうか。視点が固定されるのではなく、ある変化する速度を持って動くこと。モチーフも動き、視点も動くとき、その動きのなかから関数のように浮かび上がる世界が可能におもえる。

                        大嶋貴明(宮城県美術館学芸員・美術家)