SARP・5  展評     会場写真
佐立 るり子 展
2010.9.14 - 9.19
SARP 仙台アーティストランプレイス

 2000年代に入ってから発表活動を始め、今、発表が多い美術作家の一人である佐立るり子の今年2回目の個展では、どのような展開がみられただろうか。
 佐立の作品のあり方が不思議なのは、完成度が高いものと、妙に素人っぽさがみえるものとの混在である。もちろん、完成度が高い作品が必ずしもファインアートとしての質が高いわけでも、素人の作品が低いわけでもない。佐立の場合、おおむね抽象の領域にはいるのだろうけど、その画面を作り上げるイメージの形成については、絵画の歴史を背負って自己表現の探求として、具象形式から抽象形式への移行の葛藤によってつくりあげられているものというより、むしろ、抽象的な(抽象表現主義的な)形態感はすでに歴史的に与えられており、その形態的な世界の中で、描くべきイメージの感覚的には相当はっきりしていても具体的にはあいまいな領域にあるものをつくりだすための世界内での葛藤になっている、ように思える。この形成過程は、あくまで一つの絵画形式内のできごとで、形式の枠組みを解体するようなものではない。そのためか、個々の発表ごとに、あるいは個々の作品によって、形式的な妥当性がある場合には完成度があらわれ、形式とあわないで初発の情緒性が見える場合はある種の素人くささを示すのではないだろうか。
 大事なことは、佐立にとって絵を描くことはポジティブな意味を持っている、ということで、それは形式の革新よりもなお積極的なものなのだろう。
 今回の個展の新作のパートは、これまでの発表の中でより絵画形式に妥当なものの、過去にもそういう条件での制作が有ったかと思うが、その延長線上でおこなわれたように思う。ただし、くりかえすが、完成度は質の高さを示さないし、一種の自閉のスタイルでもある。初発の情緒性もまた、自閉かもしれぬし、それは作品を決定しはしない。したがって、この2つのあり方を対立的にあつかっても意味はないし、どちらかを選択することも不毛である。ただただ、佐立の作品を見ていくときの補助線としてのみ意味を持っている。
 本格的な作家活動に入る前の佐立の初期作品が心象風景を描いた作品といわれていたのをよんだことがある。佐立にとって、心的な内面的なことどもは重要なのだろう。実際の風景を描写するのではなくて、一度内面化された風景的なイメージを、あるいは、内面のイメージを風景的もしくは風景画的な形式性で描く。そこでは、形式性の革新よりも、内的なイメージと描かれつつある画像との調和合一が果たせぬとしても計られていたのではないだろうか。
 佐立のこれまでの作品のタイトルや展覧会タイトルは、内面の状態や関係を示す言葉が多く使われてきた。そのタイトルには主体は明示的ではないことが多いが、興味の中心がそこにあるかのように、自己を中心に考えられているのだろう。また、タイトルに概念的用語が使われていても、その語が指し示すものは、内面もしくは内面の感情や情緒、情動をつくりだす、しかし決定的認識にいたらぬあいまいなものであることが多い。(今回は「閾」が使われていた。)また、ある言葉とその言葉の否定語がセットで使われことも見られる。これも確固とした二項対立を示すよりは、どちらにも決定できない、漂うようなあいまいな情趣を示している。
 2000年代、すでに「新しさ」ですら普遍的な価値基準になりえなくなってきたときに、とるべき正しい態度はかぎられている。既視感のある形式内部で神経症的な視覚的造形性に居直ることでもないし、かといって形式否定のプログラムにのることでもないとすれば、佐立の作品が示してきたのは「誠実な態度」というものではないだろうか。
 この態度には、しかし、モダンクラシックがもっていたような、つまり印象派や表現主義の美術のような「インプット−アウトプット」の関係のある種の健康さはのぞむべくもなく、自己言及的とでもいうような不健康な回路なのかもしれない。
佐立の作品は、他の多くの絵画作品のように居直ることでの没入感もなく、また、没入もできないが、かといって、その作品の意味をかくかくしかじかのこの作品のコンセプトはこれだ的に、冷たく分析的に分類することで終わることもできない。初発の情趣のあいまいさだけではなくて、存在の位置にも中途感があることによるのだろう。自己言及的な、初発の情趣と絵画空間の関係は、それが、超時代的なものでもあるので、一見すると古くさくもある。そして、その普遍的でもある問いは、佐立の日常の特権的な感覚の再現描写というわけにもいかず、その点でも、作品に対する感情移入を中途なものに押しとどめる。多くの小品が、その作品の物理的大きさが日常の生活空間の大きさに類似しているために、なぜか、感情移入的な情趣の作品に錯覚されやすい、あるいは錯覚することがあるのだが、それは(佐立の)作品にとって本意ではないのではだろうか。
 今回の佐立の10数点の新作は、おおむね、二つに分けられのかもしれない。どれもが、炭と灰(なのか?)からつくりだされた2色が主調になって、つまり黒と灰味の白の2色の塗り分け塗り重ねでできた画面空間は共通している。しかし、その画面空間が、塊状の量感をもちつつあるものと、より平面的な形状の面が積み重ななったものの2種になっているようにおもえる。新鮮みは塊状の空間のものにあるのだが、その空間は、絵画性よりも彫刻性の問題にすり替わって、すぐに三次元空間の再現描写に陥る可能性がある。形態自体の形成を考えると、正の塊と負の塊の転換や相互浸透がくりかえされるべきもの。非決定な絵画空間をみるべきものなのかもしれない。
 もう一方の、平面上の絵画空間は、このところ佐立が追求する「皮膚」的な絵画なのかもしれない。先の塊状の作品に比べ、平面の形態は、面的な色面にもよるが、ある種のストロークや点的な形態も組み合わされている。以前の2005年頃の作品のスタイルが確立してきた時期から数年間までの作品の色面は、さまざまな脱出法を試みながらも、風景画的なフォーマットがのこるものであった。この風景画的な色面構成とは違った原理として「皮膚」はもちこまれたのだろうか。皮膚は皮膚感覚でもあるし、それは風景を見るというように一義的な視覚性をもってはいない。また、皮膚感覚というか、皮膚自体が内外の境界でありながら、皮膜のように面だけを指し示すものではない。皮膚の状態は内外の関係によって決定され、内外の状態を表現もしている。が、それは原因が確定できるものだけではない。皮膚のかゆみは、かきむしった瞬間に皮膚の奧へと移行していく。それは、無限に延ばされていくものかもしれない。
 佐立の作品の面は皮膚的であるだろうか。物理的な絵画テクニックとして、多少のリテラルな皮膚性は持っているだろう。それでも、内側からつまり絵画の基底側からの上層へ向かっての技術はそれほど使われているわけではない。では、フェノメナルにはどうだろうか。上層の面の形態決定の要因と、それが隠す色面の形態決定要因には差があるようにはみえない。とりあえず、私には意味の差は見いだせなかったが、どうなのだろうか。
 佐立のこれまでの作品のなかで、オブジェというべきなのかインスタレーションというべきなのか、奇妙に素朴で、奇妙に色彩的な作品がある。それらは、作家性からいえば素人っぽさがかった、強度の低い作品でもあるのだが、しかし、佐立自身のモチベーションの方向を率直に示しているようにも思える。それらと比べると、佐立の今回の新作群は、どこか不必要に禁欲的で動機の方向を見失っていくようにも思えるのだ。佐立の自作する絵の具、炭と灰の使用、つまりはレディメードの転倒という作業仮説も、それ自体重要なのだが、セルフメードを展開すべき場、絵画空間がレディメードのままなのかもしれない。それは絵画の形式やフォーマットに潜んでいる。ことさらに、非形式性へと移行する必要もないのだが、二重の意味でのあいまいさを具体的な絵画空間に結実させるためには、現状のフォーマットだけでは不十分なのかもしれない。
 描くことをポジティブにとらえ、目と手(とこころ)を敏感にしておき、誠実で、かつ、レディメードの転倒と非描写性という二つの作業設定はしてある。とするならば、誠実なまま、形式化やフォーマットの設定についての作業仮説や形態化のプログラムを追求してみるべきではないだろうか。もっと単純には、色面を形作っていく仕草について具体的な作業仮説をもつ必要があるのだろう。制作に対してポジティブで誠実であることが禁欲的であることを意味しない。

                       大嶋貴明(宮城県美術館学芸員・美術家)