SARP・2  展評     会場写真

Re:Groundless Pitch
佐々木 健 個展
2010.8.10 ? 8.15
SARP 仙台アーティストランプレイス

 「Re:Groundless Pitch」の第一印象は、大小の正方形の画面が精密に正確に展示されていたことだ。1点だけ、今回最大の横長の作品はこれも、正方形の画面を3点つないでいる。補足しておくと、この作品《水のあるところを土地につくる/種蒔き》はトリプティックというより、イメージが連続して横長な像をなしているようにみえる。制作の後半で、3つの画面を並べ表面を整えていく段階で、ひとつながりのイメージとする調子の変化がつくられたのではないだろうか。2つある3枚の画面の境目あたりに比較的明るい部分がつくりだされて、その2つの明るい広がりが画面全体の中で焦点をなしている。佐々木健の画面は、モネの睡蓮のように表面の色の質を変えながら水平の奥行きをもつものでもなく、かといって、抽象表現主義の作品のような完全なオール・オーヴァーでもない。たしかにそれには近いのだけれど、つねにフレームの形状、大きさと組み合った弱い構成(イメージの部分の変化とパターン化の度合いの差が小さい。否定的な意味ではない)がみられ、素材の性質から生み出されるテクスチャーのパターンだけが広がってしまうことを避けて、文字通りのオール・オーヴァーにはなっていない。
 第一印象、画面形状と展示にもどろう。各々の画面は主になる色調が決められてつくられていて、多くはモノトーンな印象を持っている。また、その画面はフレームレスなのだが、どちらかといえば、厚みは浅い。普通のキャンバス木枠の厚さのように見える。イメージは側面までまわっている。このような画面の作品は、ギャラリーの壁の分節にともなって、大型の作品と小型の作品が別の壁面に分けられて展示され、左右の壁面は対立的な印象もある。そして、大型の作品と小型の作品では、おそらく、テクスチャーやパターンの大きさや密度と、画面の大きさとの比の違いによるのだとおもうが、大型の作品では、明暗の差が見え、まるで光が表現されているかのようなのに対して、小品では多くテクスチャーを持った色相の面としてみえるようなのだ。
ただし、この壁面や見えの対立は内容的な対立というよりは、表面的なもしくは単なるデザイン的な対立でしかないのかもしれない。付け加えておくと、今回の展示作品は、ここ数年の既出もしくは未発表のもので、必ずしもこの個展のための新作ではないので、ここ数年の佐々木健の安定した作画がみてとれるものである。
 ここまでのある意味形式主義的な要領得ない描写から、そのどれでもよい、魅惑的な作品の一つへとよっていくと、第一印象とは違った、形式主義には還元できない見えが始まる。比較的離れていても、画面の表面のつやなどは知覚されているのだが、そのつやを持つ表面の強さに拮抗するようにテクスチャーやパターンをなす調子の変化が成立させている漠とした空間のイリュージョンから、作品に近寄ったことによって、表面のテクスチャーが単なるヌメ感から材質の加工プロセスの見えに変わる。佐々木健の作品の持つ形式主義的な側面の最大のものはその制作プロセスなのだが、にもかかわらず、そのプロセスと素材がつくりだす表面は一種のフェティシュとなっているかのようだ。とうぜんこのことは佐々木健自身も意識しているのだが、したがって、彼自身の制作論の構成にも含まれていることだが、よもやターポリンにつつまれて眠るわけではなかろうから、素材への偏愛は、何を隠し、なんの変わりをなしているのだろうか。彼自身が以前のテキストに書くように、伝統的な絵画に使われるキャンバスに対して、ターポリンという合成繊維と樹脂フィルムを積層した工業的な布をつかうことは、彼の年代での、人工甘味料や人工染料、プラスチック製品とのつきあいから説明のつくことでもある。そのどこか天然に対する人工の代理物的な、あるいは個人芸に対する大量生産的なそれは、そのことでリアリティを持つ。選ぶべき素材はそういうものである。その陰で、制作論としては、表現する絵画の根拠となる表現する主体の不在を隠蔽する。
 近寄ってみると、透明なビニール様の樹脂にコーティングされた(実際にはウレタン樹脂)画面が、見かけ以上に平滑であることに気づかされる。その平滑な画面の下層では、布目にたまったアクリル絵の具が布目のドッドを強調して、網点製版した写真を拡大したような効果もしめしている。つまりそれは、唯一無二の表現された絵画の画面というよりも、そのコピーであるような、つまり媒体を一段階ずらされてあるようにもみえている。このこともまた、素材への偏愛と似たような意味を、作品に与えている。
 佐々木の場合、作品制作の方法がかたまって、一定のプロセスのなかでの条件変化で個々の作品がつくりだされるようになってすでに20年以上たっている。(当然、絵画的な作品とは違った系列の作品もあいだあいだで発表されている)ただし、そのみえには、2000年代に入って以降大きく変化したように思う。そのことは、ふたたび個々の作品から距離をとって、テクスチャーレベルの知覚ではなく、イメージの知覚にもどってみなければならない。
 佐々木の個展では、個展タイトルは自己の態勢や戦略(とでもいったほうがよいか)を示すそれ自体多義的な語が使われる。その一方、個々の作品タイトルでは、佐々木の日常の印象なのか魅力的な様々な語が、制作終了後に作品の見かけとの感覚的な共通性から選ばれてつけられているという。今回の場合、前者は「Re:Groundless Pitch」であり、後者の作品タイトル例は、《水のあるところを土地につくる/種蒔き》というように、それぞれは、レベルの違うものとしてつけられる。作品タイトルは形式主義的な展示として、個々の作品からははなれた、展示壁面からもはずされて、ギャラリーの記帳台に一覧表としておかれている。だが、それらのタイトルは印象的な感覚語としてそれぞれ実際の作品と対応させてみたとき作品の魅力もますように思える。
 この魅力は、佐々木の作品が、それまでの縦のストロークが優位で、偶然できる絵画的なパターン変化があまりなかったものから、イリュージョンの性質がより複雑な絵画的な偶然性を強く示すものになってからかもしれない。それは、今回展示された大きい作品に見られた、光を感じさせる調子の変化であったり、植物的とでもいえるようなパターンからくる、いわば、個々の作品を個別につなぎ止める表現的なイメージによっている。
 ここまで書いてくると、佐々木の作品を作品たらしめていることわりのようなものがほぼ出揃うようだ。作品の形式的要素。特異な素材とプロセス。表面へのフェティッシュ。魅力的な絵画性、あるいは、その感覚の絵画表現と言語表現。だが、それらは今のところ、作品制作の、あるいは作品表現の「無根拠」性から構成され配置されたことわりであるはずなのに、作品のみえはそれとは違っているようにも思える。
 佐々木の以前のテキストから引用すると、「でも、絵の見方って、自由って言われるけど、がんじがらめでつまんないよね。全部形容詞にするか、形式分析するか、さもなくば擬人化するかで。」
 この断章はこのあと後段で 「でも、絵の見方って、自由って言われるけど、がんじがらめでつまんないよね。全部形容詞にするか、形式分析するか、さもなくば擬人化するかで。あと、人と違った見方をしてますよ、自分はいつも正気ですよっていって、さも自慢気だけど、実は何も見てない、とか。」とパラフレーズされる。
 本小論も佐々木が書くような見方の限界をこえるものではないし、さしずめ、筆者は、佐々木の言う自己正当化の上での「何も見ていないもの」の一人でしかないかもしれない。ただ、悪口でも意趣返しでもなくて、それはそれなりに、作品のみえを言葉にしていったときに、毎回そうなる、あるいは毎回そうみえることを書いているように思う。それは、佐々木のつくりだす作品を語る時の語り口が佐々木の思考することわりのあり方とも平行して、というか共犯的に同じような土俵上にある、そのなかでの独白の競り合いだというようなことではなかったか。
 佐々木のHP上でよめるテキストの特徴は、2,3行や多くても10行程度できる断章が、行間をとりながら組み合わされてある。その断章は、現代思想的な概念語が間隔をおいて配置され、(その間隔は文上の物理的な距離だけではなく、内容的な距離もあるように思う)一方では、佐々木の日常のそのときどきの印象からくる感覚語が、これも距離をとりながら配置されているものだ。(その日常の印象は、神話的でも特権的なものでもなく、むしろ俳句に定着されやすいものかもしれない)息の長い、文のつながりというか思考のつながり、それは概念が変化しある瞬間に創造的な新しい概念が成立するような一連の思考のシーケンス、ことばの変遷の系であるよりは、まさに断章としてとびとびにある。
 佐々木の作品は、作品の形式的要素、特異な素材とプロセス、表面へのフェティッシュ、魅力的な絵画性、あるいは、その感覚の絵画表現と言語表現、が、世界の知覚のゲシュタルト的転換をもたらすような両義的なものとしてあるのでもなく、さまざまな要素が重なりあって、次々に読み出し可能な多様性にあるのでもなく、一つの作品を様々な文脈に関連させて読み込める多義性にあるのでもなく、一つの概念、「無根拠」からある趣味によって選びとられた一群のことわりとしてある。このことわりの各々の間には、テキスト上の概念語や感覚的な発話がそうであるように不連続な埋められない距離がある。
 佐々木の先生でもある高山の世代が、いってみれば、20世紀のモダンクラシックの受容と展開が終わった地点で、絵画と素描といような系からの脱領域に表現を定位したとき、佐々木の世代はレイト・モダンの展開のなかで、高山らの切り開いた地平からも脱領域していかなければならなかった。その一群の美術家のなかで、佐々木は一番コンセプチャルだったのではないだろうか。佐々木の言う「無根拠」性から作品の制作をしていくための戦略はいくつもありえる。佐々木自身これまで、そのいくつかの方法を学生時代はそれなりに、作家時代は歯切れ良く展開もしている。作品を絵画と、そのかけがえのない形式性によって置き換えたとき、とりうる戦略はありえるだろうか。神経症的な平凡さにおちこまないとしたら、定めたことわりとプロセスのなかで、コントロールされた偶然性の差異を印象の感覚に結びつけていくことなのだろうか。むしろ、ことわりの合計として分析可能な作品ではなく、絵画の形成にともなって発生する与件的なことわりの合計には還元できないもののほうに絵画をみいだせないだろうか。コンセプチャルでありながら、それ以上に魅力的な装いに見える佐々木の絵画を、ぼく(ら)は創造的にみえるだろうか。

                       大嶋貴明(宮城県美術館学芸員・美術家)