SARP・4  展評     会場写真
石川 舜 の世界 展
2010.9.7 - 9.12
SARP 仙台アーティストランプレイス

 絵画の困難さを書かねばならない。
 今回の展示では、ここ数年追求されてきた大作《妖精の森》が初公開され、その向かい側の壁面には、《妖精の森》のエスキースにあたるのだろうか、色彩豊かなドローイング15点ほどが展示されていた。となりの小ギャラリーでは、60年代の鉛筆によるドローイング《土龍の夢》シリーズの3点や、絵画に回帰してきた(のだろうか)90年代からのドローイングが展示してある。
 まず、《妖精の森》の第一印象を書いておくと、実は色彩的に「エヴァンゲリオン」というアニメをおもいうかべたことだった。そのアニメは、ある種の現代性のアイコンにもなったわけだが、作品生成論的には、物語の暴走・崩壊した作品としても記録されている。その暴走・崩壊は物語世界にどっぷり浸りたい(自己同一化かどうかは問わない)物語好きには物語の描写がくずれていくのだから、欠点になるのだろうけど、工芸的でも趣味的でもないファインアートの視点からは、作品と作品外の世界の境界の相互浸透とでもいったような、作品の自意識に関わる大事でもある。石川の作品へのまなざしも、色彩的な類似以上に、作品の自意識にまとわりついていけるかどうか、そのあたりのことが最初に気になったことだ。
 60年代の《土龍の夢》と、新作をみたとき、一人の人間が持つ形への感覚。そして、その感覚がつくりだす形態の共通性におどろかされる。表面的な見かけや作業仮説というか作業方法がつくりだす違いを超えて、そして、石川のこれまでの作風の変遷として語られるこの見かけの違いは非常に大きくみえるのだが、にもかかわらず、その違いを超えて、そして、時々に混交する雑協物や不純物、それらが見かけや作業方法もつくりだしていたわけだが、をこしとってみれば、同一の主題を繰り返してきたといってもよいようにその形態の共通性は物語る。
 《妖精の森》と《土龍の夢》には、もちろん、素材や方法の違いだけではない、絵画空間として差異もある。しかし、《土龍の夢》の1点1点の作品の埋め尽くされた形態のなかの発生的な形自体は、その有機的で平面的な、そしてどこかユーモラスといってもいいようなその形態感が、《妖精の森》に使われている形の特徴に通じていくのだ。石川の形態や形態感で付け加えておくと、これまでの作品を通して、形態は全体として立体的でも量的でもなくむしろ平面性というか、紙に描いてできる素朴な図形性をもっている。ただし、完全に切り抜いてできるようなシルエット的平面性と断定できないのは、形の縁のどこかで、きゅっと内にまくれこむような、あるいはつまんでねじりこむようなゆがみを持っている。
 《妖精の森》と《土龍の夢》での絵画空間の差異は、触覚的な空間、とりあえずは隣接関係の反復による空間と、視覚的な空間、地と図が反転しながらも存在する空間の違いに関わっている。が、《妖精の森》は本当に視覚的空間なのだろうか。
作業仮説としての土龍(ある時期、ささ濁りの池の下に潜むナマズになったことがあるが)は、身体の内外全体の触感覚(蝕感覚としたほうがよいか)が認識や思考の基礎になっていることを示している。このとき、絵画空間も、全体を見渡し全体の布置を決める視点はあたえられずに、つまり、構造のヒエラルキーが変化し混沌化する「構想」としての絵画空間になっていく。そこでは構築的な構成はありえない。この作業仮説は、作る(描かない)絵画としての作品の時期にも、あるいはパフォーマンスにも通底してきた。
 90年代半ばに描く絵画に回帰したときに、触覚性と視覚性が転換したのではなくて、そこでは、おびただしく描かれたドローイングにあらわれたように、他のいくつかの作業仮説が平行してつかわれていくが(そのことはまた、ふれなおそう)、つまりは、そもそも触覚性自体が問題なのではなくて、視覚性の根拠を問うためのやむにやまれぬ、あるいは社会や生活の状況に対する韜晦としての、作業仮説だったことがあらわになっていく。視覚によって、特に全体視によって、世界をつくりあげている情報に遠近法を持ち込んでしまうような、あるいは自他の差や自己の内外を明確にきりわけていくこと。そういう、近代的な認識としての視覚性を否定するための方法だったのではないだろうか。
 視覚的な情報も、情報どうしにヒエラルキーをつけなければ、触覚に近い隣接性の反復による世界が構想される。この隣接性は入れ替わったり反転したり、なによりも接面が不分明だったりする。
 90年代の描く絵画への回帰は、10年に1点の大作、4枚つなぎの230.0×730.0の大キャンバスになってあらわれる。この大キャンバスは全体の構想を持つことはできるが、みわたせるのは展示のときだけで、制作中は小さな視覚要素の隣接関係だけを手がかりとして描き進めることになる。つまり、この画面の大きさは、観者を包み込むような物理的な視覚世界の大きさを示しているだけではなくて、視覚的な認識の限界を示すためのものだったのではないだろうか。触覚的にしか描けない大画面には、視覚認識が働くための距離はありえない。
 実際、第1の大画面作品である1995年発表の《再現》では、作品を実見したときの印象と、図版でみたときの印象が大きくことなっていて、図版からは、ああこういう絵か、こういうものが描かれていたのか、と見えるのにたいして、実作では、小さい形=イメージや消された形=イメージをたどって見ていくように思う。全体として、実作の絵画空間は前後関係も定かではない明部と暗部がつまみ、ひねられ、ひずんだ広がりとしてあらわれる。一方、図版上では、暗部が空間の深さにみえて、そのような深い空間から得体のしれないイメージが放射されてくるような空間性を感じさせる。
 第1の大画面作品に前後して描かれた(作られたものもある)鉛筆ドローイングでは、もう一つの作業仮説が共通して使われている。やはり《土龍の夢》から始まっていく、「夢」=「歪んだ鏡」=「埒外(の認識)」の概念のセットである。自他・内外の未分化な混沌としたイメージの生成消滅がおこなわれている空間をどのように現前させるか。それは、「夢」という概念だけでも現実の夢(というのも不思議なものだが)でも不十分で、それを再現描写するのではなくて、絵画との関係で、少なくとも絵画内のイメージの生成消滅として「夢見」の状況をつくりだすためには、具体的な作業方法が必要とされる。付け加えておくと、石川のいう「埒外」は埒の外側におかれた視点であるよりは埒そのものが成立するかしないかも不明な状態を意味しているのではないだろうか。ここにも自由の高みという特権的な視点を奪われた精神が露呈している。
 鏡像は距離を前提にしている。しかし、この距離は全体視を意味しない。当然、鏡が映し出す像は鏡の物理的大きさに制限され、鏡像それ自体の全体視はあったとしても、被写像の全体視ではない。そして、歪んだ鏡は歪んだ像をもたらす。鏡をもとにした喩のあり方を考えると、この全体視のありえない歪みこそが夢見の状態に近づく一歩目のすべになる。石川が使った歪んだ鏡は、具体的なものとしては、アルミホイルのようなものだったのではないだろうか。そこでは歪み自体が単純で均質なものではなく、不定な変化を含んだ歪みで、また、皺状の変化によって、えられる写像は現実空間の秩序をはなれて、皺の隣接関係によって解体された、いわば、統一された全体性のないものとなる。この像を描写するのは、写像と鏡面の変化とが重なったものを描写することになり、写像だけの写・像とか物理的形態としての鏡存在だけというものではない。ここにも、混沌がひそみ、夢見への契機がある。「歪んだ鏡」は、「現実−絵画−内面」の乱反射をおこす、概念間の喩と、描写の目と頭と手の連関の二重においての、装置とかす。
 石川の3点の大画面作品を単なる幻想絵画に終わらせていないのは、視覚性、つまり視覚による認識の世界秩序にたいするアンチを概念のうえでも具体的作業においてもつきつけていることによる。作品の持つ絵画的なイリュージョンは、幻想的なイメージの再現描写によるのではない、ことが重要なのだろう。
 《再現》から10年後に発表された《生き延びて現在未完》では、その絵画空間が歪んだ鏡状の部分部分にななめの三次元的なパースペクティブが描かれ、そこでは、描写的な空間性がうまれ、大きさは1作目と同じなのだが、エスキースとの関係が違ってきたように思われた。隣接的に生成消滅する非決定的な空間だったものが、再現描写的に決定論的空間へとシフトしたかのようなのだ。色彩も、光と闇のようなものから、白と暗色のようなより色彩的対比になっていた。
 そこから5年。今回の《妖精の森》では、画面空間はより平面化がすすみ、色彩的になっている。しかし、各色面は固定され、全体としての謝肉祭的な雰囲気はあるがより決定論的空間性が進んだのではないだろうか。イメージの発生的な強い絵画性はエスキースとなっているドローイングのほうに強くあらわれている。
 タイトルに目を向けたとき、今回のタイトルが、これまでの作業仮説や作業スタイルから付けられた物でも、あるいは、画家の自意識と作品それ自体の状態を示すものとの掛詞になっていたのに対して、今回は描写対象の説明にも受け取れるタイトルになっている。
 特権性を先に設定せずに、混沌を生きながら混沌をつくりだす豊穣さは、再現描写されるイメージ自体だけではなくて、描写の方法や形式の豊穣さでもあったのではないだろうか。それは、単なる手段のカオスでもなければ、決定的な方法でもない。絵画的な作画は、予定調和な作画過程ではなく、生成的なものだけに、そこに絵画の困難さもある。あっというまに距離が不鮮明に広がって描写工芸的なものになったりする。
 10年間隔説からいえばあと5年、石川の未完の絵画の暴走がみられそうでもある。




                        大嶋貴明(宮城県美術館学芸員・美術家)