★ 曼荼羅と俯瞰 ―― 曼荼羅って、高山さんの口端にしきりと上りますよね。でも、寡聞にして、それについて話すか書くかした記録を あまり目にしたことがありません。教えて頂けないでしょうか? 高山 曼荼羅については、授業では話すんです。 ―― 断章風に、短い文章で書かれたもの(『Noboru TAKAYAMA,1968-1988 Installation works』 ギャラリー21+葉 作品集シリーズ第2巻)なら読んだことはあるのですが。 高山 立体曼荼羅と平面曼荼羅があって、曼荼羅そのものは、平面でありながら立体的にも捉えられる。立体曼荼羅という のは、こう組み立て式になっていて、持ち歩けるのもあるし、実際の寺院もそうなんですね。曼荼羅を立体化して作られて いる。 そして、基本的には、三角丸四角で出来ています。 僕の場合、仏教的な読み方ではなく、空間の読み方として理解してるんです。とても理に叶ってるのよね。 ―― 造形的にということですね。 高山 曼荼羅の元になってるのは、三角ですよね。上を向いてるのが男性原理で、下を向いてるのが女性原理。それを組み 合わせて六芒星ができる。三角と四角と丸って、全部内接外接で構造が出来てるんです。揺るぎない。四角の中に三角が 含まれ、さらに内接も外接も出来る。そういう構造の中に、そのままひとつの形が、切っても離れないものが内蔵されてる。 それが広がるときに、辺というのはどう意識されるか。そういう空間の読み方が面白いなと思ってね。ユングから始まったん だけど、やっぱり僕は美術だから、視覚的な空間の読み方に興味が行っちゃう。 ―― 枕木を組み立てるときに、曼荼羅をヒントにしたりなさるんですか? 高山 特にしないです。実際の曼荼羅を使うことはない。曼荼羅に対する、僕なりの読み方で考えるというだけであって、 曼荼羅を模写してるわけではないからね。 ただ、曼荼羅には、平面と立体があるわけです。俯瞰した図と立体的なものが常に共存する構造というのは、僕にとっては 昔から馴染み深いわけですが、両者が同時に見えるやり方を何とか実現したいなぁと考えているんです。 現実に道をこう歩いてても、地図を描くと俯瞰するでしょ。立体的に描く必要はない。二次元と三次元をすぐ変換できる。 そういう行ったり来たりする、我々の空間把握みたいなものを、制作時にはいつも意識してるんです。 ―― 俯瞰するというのは、現実的に全体を見渡すという意味もあるのかもしれませんが、ただ、全部を見なくても、例えば 中庭の作品であれば、歩いてる最中、脳裏に自ずと描かれてるものだと思うんですよ。 高山 山から見下ろして初めて、眼下の町のつくりの意味が分かることってあるでしょ。なぜ道路をあのように作ったか、 なぜここに建ってるのか。意味が少し分かってくるということがありますよね。そういう感覚って凄く大事だと思ってるん です。 ―― ええ。ただ、実際に作品の中を歩いた感想からすると、その全体像というのは、固定された俯瞰図というより、その つど生成しつつある可能態という印象が強いんです。僕が上から見てないせいもあるのでしょうが。 高山 カタログの中にあったよね、俯瞰した写真。 ―― ありましたね。 高山 ずいぶん上で撮った写真ですけど。 ―― 何故そんなことをお聞きするかというと、昔の『美術手帖』(1972年12月号)で藤枝晃雄さんが高山さんにインタ ビューした記事があり、高山さんが気になる発言をなさっているからなんです。 「村」を俯瞰するしないという文脈で、まず藤枝さんがこう述べます。「村をウロウロしただけでは体験できないでしょう、 それだけでは村にならない」。それに続く高山さんの発言です。 「僕の言ってる村というのは、ヒューマンであるとか、人間の存在のあり方を問い直すのではなく、村そのものが存在する 理由みたいなものです」。 つまり、俯瞰して見えるものというのは、実際に目に見えているものというより、「存在する理由」、村そのものが存在する 理由だと仰っているわけです。作品を成り立たせている条件、根拠です。 現実に俯瞰して見えた構図って見たままそれ以上のものではありませんが、ここで触れられているものは、もっと過剰なもの ではないでしょうか。そもそも、実際の村でも、起伏や神社の位置から伺えるものは、土地を貫いている様々な力線だと思い ます。プロットされた単なる地形図や地図記号ではないはずです。 高山 中国でいえば気だよね。 ―― そうですね。土地を構造づけている条件です。それは目には見えないわけですよ。高山さんが俯瞰するというとき、 見てるものというのは、この不可視の力線、土地の条件の方じゃないかと… 高山 そうですよ。もっと具体的にいうと、国を作ろうとするとして、ある武将が山の上に立って、どうやって守るか、どう やって攻めるか… ―― 色んな可能性を考えますよね。 高山 どこを中心にしてどこに人を住まわせて、水をどこから引っぱり、風の道に対してこうするとか。そんなこと考えるわけ じゃない。そういうのにたけてる人が長になるわけでしょ。 ―― それは、目に見える以上のものでしょう。土地を走ってる様々な力線があって、その力線に対して、祠をどう設置し、 どこに家を建てるか。作品であれば、枕木をどう組み合わせ、どこに置くべきか。 見る人、あるいは住む人でも結構ですが、彼らは、作品や土地へ入っていって、実際にその力線を体感するわけですよ。 枕木を跨いだり、潜ったり、遠くから見たりして。そして、そのつど跨ぎ潜るたびに、力線が描く全体像が活性化される。 見る人が関わることによって初めて、全体像が動的に立ち上がるわけです。 高山 それを自然に感じてもらえれば一番いいんだよ。 ―― でも、上から見ると、タブローに見えちゃって… 高山 図面に見えるわけね。 ―― そう。それで誤解される可能性があるんじゃないかと思うんです。 高山 それもあるね。だから自分で歩いてもらって、想像できると一番いいんだけど。両方経験する必要があるんだよね。 人間が営む地面の部分と、上から見るのと。上からの視線だけで国を作ると… ―― 抽象的な世界にしかならない。 高山 そう。だから、両方が必要なわけよ。いま日本はそういうの、間違えてるから。 ―― 僕の知人で、上から見た人もいますが、そうするとやはりデッサンというか、平面図に見えちゃうらしいんです。 それはちょっと違うんじゃないかと。 高山 上から見ても、枕木の構成だけじゃなくて、外の風景を見なくちゃいけないんですよ。じつは構成されたエリアと、 仙台の街が一緒に見えてるわけ。一方で、構成されたエリアには、現実からスポッと抜けたような時間が流れてる。他方で、 現実の空間が隣接してる。同時に見えるわけだよ。そこで何かを想像してもらわなくちゃいけない。ただ平面図に見える だけで終わってるわけじゃないんですよ。 ―― ちょっと話が戻りますが、曼荼羅って、内蔵されたものが自己展開してゆくものですよね。でも、高山さんの作品は、 とくに内蔵もしていなければ、自己展開というのとも違う気がします。むしろ、一見任意とも見えかねない単位を組み立てて、 場所に応じて適宜それを配置してゆくわけですから。 高山 それは当然ですよ。曼荼羅って世界の縮図なわけよ。でも、僕には、過去から未来まで、つまり永遠の世界を見せる 狙いはないですからね。僕は、自分が通りかかっているこの一瞬だけにしか関われないわけです。だから、作品を残す必要 すらない。一過性というのは、僕にとって凄く大事なんです。一回性ではなく、一過性。 ―― なるほど。それは、作る側としても、見る側としても… 高山 作品が、見る人の中にどう残るかは、別の問題ですよ。僕には触れられない部分。だけど、僕の場合は、一過性と いうのは、演劇的空間として見えるんではないかと思ってる。だから、枕木を使って一人芝居をやってるみたい(笑)。 そこで、中に入ってきた人もまた、枕木の一本になったかのような気がすればいいかな。自分の立つ位置によって枕木の 見え方が違ってくるし。 ―― 演劇の場合、アドリブを入れたり、公演ごとに趣きが随分変わりますよね。すると、舞台を見た経験って、人によって 時間によって全く異なることになります。果たして、彼らは同一のものを見たと言えるのか。それでも、作品が作品として 成り立つためには、散漫な印象をとりまとめる同一性の根拠が、どこかに担保される必要があります。 高山 別にある必要はないんじゃない? ―― そうすると会話もろくに成り立たなくなっちゃいますよ(笑)。 高山 そういう意味での会話は必要ない。根拠を求めるためのというのは… ―― もちろんそうなんですが、ただ… 高山 原則的に目の前にあるものが全てなわけだから。落ち葉が埋めつくしてる。雪が埋めつくしてる。雨が打ち付けてる。 風邪が吹き付けてる。暑さが埋めつくしてる。それは全部違うわけ。 ―― 当然ね… 高山 臭う日と臭わない日があったりね。青空のときと雲がぽかんとひとつ真ん中にだけあったり。それは全然違うもの ですよ。作品をつくる時というのは、全部との関係のなかでやることなんです。刻々と違ってくるわけだから。10分だけ 見る人と、朝見て昼間きて見てまた夕方見る人とでは、影の入り方でまた違って見えるはずだし。だから、見る人が主人公 なわけですよ。作った者が主人公ではない。そこがみんな間違ってる。 ―― 言わんとなさることは、よく分かります。ただ、そう言ってしまうと、本当に見た人の好き勝手になっちゃいませんか。 高山 いや、ならないと思うよ。そこで、見た人の会話が生まれないといけないわけですよ。見た経験がみんな違うことが まず分かってくるとかさ。え、そう見えるの?とか。Aさんの見え方とBさんの見え方が、時間と状況によって違ったとして、 お互いにそれを追体験し合ってみようとかね。それは、ひとつの山を見たって同じじゃん。一年中見てる人と、新幹線から しか見たことのない人とでは、全然違うじゃない。 ―― ただ、それでも富士山でしょ? 高山 富士山だって毎日変わってるんだよ、形。 ―― 変ってるんだけども、でも富士山。 高山 それは概念的な意味でしかなくって、理屈にならないじゃない。 ―― いや、概念というのとはちょっと違ってて… 高山 だって、一般共通の富士山が、こうだって意味しかないわけでしょ。 ―― いや、もしそうだとしたら、もちろんそれぞれの… 高山 体験したことのない人にとっての富士山なんて、ただの絵面でしかないじゃない。 ―― そうなっちゃいますよね。でも、一方で、体験だけに回収されちゃう富士山であれば、その存在じたいはいらなく なっちゃわけですよ。つまり、実在の富士山を度外視して、脳味噌に信号だけ送り続けるのと何ら変わらないことになる。 高山 いや、そういう意味じゃなくてさ。我々は常に何らかの形で、色んな方法で、あるイメージを個人ごとに作ってる わけでしょ。だから、イメージの形がひとつだというのは間違ってる。 ―― そうそう、イメージは多様なわけですが、他方で、その多様なイメージを発生させる実在というものがない限り… 高山 意味が分かんない。 ―― あれ、そうですか? 高山 だって実在として見てるわけじゃないもん。 ―― でも、実在を想定しないと、各人各様の相対主義にしかならない… 高山 いや、そうじゃないと思うよ。実在として見てるわけじゃないでしょ?すべてイメージとしての富士山だからね。 ―― とはいえ、富士山を見るとき、「あれは自分の印象でしかないな」とは見ないですよね? 高山 それは勝手だけどね。 ―― え?「自分だけのイメージでしかない」って見てます?本当に?そしたら、このフォークを使うのに、自分のイメージ でしかないって思います?掴めると思いません? 高山 それは、フォークと思うから掴めるんであって、そのフォークというのは概要でしかないでしょ?正確なフォークじゃ ないでしょ。色んなフォークがあるじゃない?スプーンのついたフォークもあれば、二本だったり三本だったり四本だったりさ。 ものによっては、我々は西洋人のように使い分けてないから、これは何だろうというのもあると思うよ。 ―― 例えば、僕の見てるフォークと高山さんが見てるのとではイメージは違うけど、このフォークについて語ってるという ことは共有できないわけですか? 高山 それは無理だろうな。 ―― そうすると、話す意味が無くなりませんか? 高山 それはあまり関係ないんじゃないかな。ある程度、学習した上でなら意味は分かるよ。普通、僕らが言ってる富士山でも 何でもいいんだけど、それはイメージでしかないでしょ。 ―― 語った内容はそうですよ。でも、そう語らしめるものを前提しない限り、語ることすらできない。 高山 でも、みんな見たことなくても語るじゃない?それって実在と関係ないじゃない? ―― そりゃそうですよ。だから、そうなっちゃいますよってことですよ。 高山 だから、それは普通のことじゃない?みんな見たことなくても語ってるよね。写真だけ見てね。それを実在だと間違えて るのと同じで、見たからといって、それが実在なわけではないんですよ。 ―― 当然そうなんですが、たぶん実在を、それこそ違うイメージで捉えていらっしゃると思うんですけど… 高山 哲学者も誰も、今まで実在というものを証明した人っていないよな。 ―― だから、実証はできないんですよ。理念的にしか存在できなものを実在と呼んでるんであって…例えば、今ここに生きて るということに関して、これはイメージでしかないとなると、じゃ今すぐ腹かっさばいても問題ないことになりませんか? 高山 そこにすり替えるのはおかしいんだけど、別に死ねとも言ってないし。実在ってこと自体が、今を説明するために生まれ た言葉であって、今って考え方が、どう変わるかによって、今はすでに今ではなくなる。繋がっていないイメージしかないん だっていう言い方は当然あるんだけどさ。 ―― 僕らが経験できるのは、確かにイメージでしかない。物自体はついに経験しえない。でも、物自体というものを想定 しない限り、イメージについてすら語りえないんじゃないでしょうか。イメージだけであれば、取っ掛かりようがない… 高山 取っ掛かりというのは、フォークの何にとっかかるの?(フォークを指差しながら) ―― いま指差されたように… 高山 いや、僕は何にも指差してないよね。これはただ視覚的にここにあるよという程度だよね。 ―― そうそう。 高山 これが、みんな思ってるフォークと僕の思ってるフォークが違ったら、全然違うじゃない。 ―― そう。違いますよね。違うにも拘らず、このフォークだということをお互いに… 高山 僕が作ったものが、見た人全員にとって在ると言ったところで、見たということにはなりませんよね。みんな見てる ものは違う。だから、それは在るかもしれないけど、見て見ないということがある。見えてないということが。 ―― それはありますよね。 高山 ほとんど見てないわけですから。作品というのはそういうものだと思うんだけど。作品が何かを指示しているわけ じゃないからね。 ―― でも、作品がないと、見た見てないすら言えない。 高山 それはだから、ただ在るというだけですよ、 ―― そう。まさにそうですよ。 高山 だから実在じゃないわけですよ。 ―― いや、それこそ実在ですよ。それはイメージではないですよ。 高山 在るということも疑わなくちゃいけないんだから。 ―― いや、疑うことは可能ですよ。むしろ、疑うことを可能にしてるものが実在なわけですよ。 高山 だから、それは何だっていいんですよ。そこに拘る必要は何もない。なんでそこに拘るのか意味がわからない。 ―― そうすると、一応それは認めて頂けるわけですね。 高山 在るから在ると言うんでしょ。 ―― そう。経験的にはトートロジーにしかなりませんよ、それは。 例えば、演劇では、公演ごと観客ごとに見え方が随分異なる。それにも拘らず、同じ演目について語り合える。それって 実は、各観客に向けて様々にイメージをかき立てながら、同時に、そこには属さない、ある人称性を超えたものに対しても 演じられているからではないかと思うんですよ。 高山 それは、だって、もともと人間に向かってやられてるわけじゃないんだから。 ―― そう。神に向けられた奉物だったわけですよ。 高山 アートだってそうだったわけでね。そんなの当たり前じゃない。 ―― そう。当たり前のことであって… 高山 なんか学生と話してるみたいだな(笑)。もっと大人の会話できないかなぁ。習いたての学生と話してるみたい。 ―― それは恐縮です。すみません。 ただ、高山さんの作品についても、一過性とはいえ、俯瞰すると仰る際に触れているのは、そうした超越的なものなん じゃないでしょうか。人によって見え方は違えど、それにも拘らず、なにか普遍的なものが成り立っているのではないかと 思うんです。 高山 何が本質的、普遍的なのかというの問題は、作る側と見る側で違うし、個人ごとに違うでしょ。人は、見るというか、 中を徘徊することしかできないわけですよね。答えが見つかるわけではない。俯瞰しようが歩こうが、そのひと個人の経験で しかない。作品といったところで、どこが正面なのかというこも、僕の場合はなくなってるし、見る位置というのは、100人 いれば100人違う。そこに共通性を見つけること自体が無意味というか、僕は必要としてない。もちろん、ひとつの考え方 としてはあるのかもしれないけどね。 必要なのは、ただ枕木一本だけ。あとはどう広がっていこうが構わない。だから、作った造形物について、これだけずらし たらどうなるとか、それによって意味がどう変わるかというのは、当然考えるけど、じゃあ、それがどれほど作品のクオリ ティーに関係するかというと、僕にとってはそんなに重要ではない。だから、富士山だって毎日形を変えてるわけで、結局 みんな持ってるのはイメージの富士山であると。あったところでイメージでしかない。日本なら日本のシンボル。外国人に とっては富士山と芸者ぐらいしか日本のイメージってないのかもしれないけど、そういう意味での富士山でしかない。それは 実在とは関係ないんですよ。 ―― それは関係ないですね。ただ、つい一過性というと、その場限りということになってしまって… 高山 空しすぎる?(笑) ―― そういうわけではなくて… 高山 あなたがどこへ収斂させたいのか分からないんだけど。 ―― 一過性と言っても、個別具体的な経験だけに収まらない契機があるんじゃないかと思ってるんです。 高山 作る側には、そうした各々の経験を貫くもうひとつの世界が浮かび上がればという思いもあるけど、それだって仮説で しかないわけです。 ―― ええ、俯瞰というのが、おそらくそのことを言ってるんじゃないかと思ったんです。 高山 表現に色んなことを込めるのもいいですよ。それはそれでいいんだけど、でも、それは、ある意味で、生きることを 納得させるための方便でしかないかもしれない(笑)。こういう仕事が、大事だと思うのはいいんだけど、でも、そこに 至上主義はないんですよ。 ―― 神秘的な話をしてるわけではないですよ(笑)。超越的なものと言ったのは、高山さんが仰る俯瞰というものを、 もうちょっとちゃんと理解したいと思ったからなんです。他の言い替えが出来ないかなと。説明が下手で、すみません。 高山 本当は、もっと作り方変えるとね… これなんかは、そういうのを考えたエスキースだよね(オブジェを指差しながら)。この上にある形と下にある形を反転 させて、その影が見えて…これは県美の会場にあったでしょ。ここに、ロダンの天使の像をあしらってます。天使の像を、 なぜ僕が使うかというと、彫刻って重力に逆らえないでしょ。天使が作れないわけ。ロダンにとっては、天使が最後に作りた かったものなんですよね。デッサンでしか残してないんだけど。日本や東洋だと、天使みたいな存在って、みんな雲の上に 乗っかってるじゃない。 ―― ロダンが作りたかったのは、雲に乗ってるものではなかった… 高山 そう。雲に乗らずに、飛天のための道具をもってるんだよね。孫悟空でも空飛ぶときには、雲をヒューッて呼ぶでしょ。 彫刻って、重力に逆らえない。それなのに、天使を夢としてたというのが面白くってね。しかも、そうすると、逆にこう 下の方にいるのをやりたくて(オブジェを指差しながら)。 ―― 高山さんご自身、天使的なものに、つまり重力から外れた存在にご興味があるんですか? 高山 そう。それから、日本の場合も、星が天蓋的に捉えられる一方で、月だとまだ行ったりできる空間として意識してたと いうのは不思議でしょ。 天使って、あの世とこの世の間の何?というか、神との間に在る世界ですよね。ちょっと興味があるよね。そういう人間の 想像力に興味がある。天使に興味があるんじゃなくて、重力とか我々の日常的な世界から逸脱した世界を持ってるというね。 ―― 枕木も、雲に乗ってないというか、台座がないという意味では天使的ですよね(笑)。とはいえ、地面への親和性の 方が大きい。そこは天使と反するところなんでしょうか。 高山 それとの関係なんだよね。 ―― それそのものではなくて。 高山 地面がないと天使の意味もないからね。天使だけでは成り立たない。天と地があって、天使がいるわけだから。 これ(オブジェを指差しながら)、もうちょっと表現する方法がないかと思ってるんだけどね(笑)。来年ぐらいになる かな。形を作っちゃうかどうしようかな(笑)。 ―― 形態を? 高山 そう、形態を作っちゃおうかなと思って。 ―― 新たな展開が(笑)。素材のイメージはあるんですか? 高山 まぁ、それも色んなのがあるんだけどね。 学生の頃、鼠捕りをよく描いてたんですね。それがオブジェにもなったり、パフォーマンスでもやりました。鼠を捕る ために、部屋にたくさん置いといたんですよ、アトリエに。 ―― なんで鼠捕りなんですか?(笑) 高山 いや、たくさんいるからさ。朝起きるといるんですよ、いつも。 そこで、鼠捕りを空に架けたら何がかかるかなと思ったんだよね。 ―― ロマンチストですね。何が捕れました?(笑) 高山 日本の民話でも、鼠って色んな話の中に出てくるでしょ。ディズニーの一番のスターは鼠でしょ。鼠って小さい時から アイドルなんだよね。 ―― トムとジェリーもそうですしね。猫のトムは悪者ですからね。小さなものを愛でるものなんですかね、人間て。 高山 どういうわけか、アブラムシはあんまりだけどね。 ―― ごちゃごちゃしだすと、気持ち悪いですもんね。ゴキブリも。 高山 昨日から、オーウェルの『動物農場』読み直そうと思って買ってきたんだ。 ―― 思うところがあったんですか? 高山 というか、僕が活動し始めたころ「地下動物園」ってタイトルつけたでしょ。あれの背景にあるんですよ。 ―― へー、そうだったんですか! 高山 昨日おとといと、千石(英世)さんという人と会ってたんだ。『白鯨』を訳してる、立教大の先生。 『白鯨』って日本でももう10人くらい訳してるでしょ。翻訳って、訳した人だけじゃなく、訳した時代や解釈もいろいろ 関わってくるものだよね。 この間、新訳のドストエフスキーも読んでみたけど、ずいぶん違うものだったな。 ―― 「地下動物園」って上野動物園ではなかったんですね(笑)。当時なんかの記事で、誰だったか批評家が上野動物園 から採ったのかって書いてた(笑)。 高山 周りの人は、そのくらいの認識だったんだね。枕木も、どこかから拾ってきたんだろうぐらいの(笑)。 昔は、エルンストとかコーネルが好きだったんだよね。 ―― 作品のタイトルといえば、新聞や雑誌にもお書きになってましたけど、作品そのものから導き出されるというより、 先にタイトルがあるんですよね。タイトルからイメージが湧くことってよくあるんですか? 高山 いや、タイトルとイメージとはあんまり関係ないんです。 ―― 完全に切り離して考えている。 高山 そう。タイトルって、ただ、自分の中にある、原理的な考えでしかないんです。作品そのものの具体的なイメージと タイトルとは直接の関係はない。「スパイ」とか「記憶喪失」とかタイトル色々つけてますけど、多分みんな聞いてもほとんど 分からないと思う(笑)。 (つづく) |
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