この夏に産声を上げたSARP。個展の皮切りは高山登さんのドローイング展でした。
高山さんは、この春にも宮城県美術館で回顧展をなさったばかりです。
そこで、色々な意味で節目にあたるこの機会に、インタビューを試みました。
現在は、東京芸術大学で教鞭をお執りになっていますが、数年前までは、四半世紀にわたって宮城教育大学の教壇に立たれていました。
作家としての活動歴は長く、彼じしん芸大の学生だった1960年代末から現在に至ります。東京を中心にやがて仙台を拠点に作品を
発表し続けていらっしゃいました。
作品は固より、これまでの歩みを絡めながら、美術や教育、そして文化について、幅広くざっくばらんに語って頂きました。



        


★ 枕木と歴史の意味

―― 2010年は、作家高山登を見直すのに、またとない年になりました。まず1〜3月に、宮城県美術館(以下県美)での大規模な回顧展があり、
さる8月には仙台アーティストランプレイスで、ドゥローイングによる個展を開かれました。僕だけに限らず、多くの人にとって、とても貴重な
機会になったと思います。
高山 仙台では、あまり枕木はやってないんだよね。美術館で何回か、川崎にあるダムで何回かというぐらいだし。
―― 昔、県美の中庭で、学生やボランティアさんといっしょに…
高山 ワークショップでね。だいぶ前ですよね。
―― 90年…
高山 ちょうど90年かな。
―― PS1に発たれる前…
高山 あれ終わってすぐPS1だったからね
―― 高山さんは、60年代末から脚光を浴び始め、いま現在に至るも旺盛なご活躍を続けていらっしゃいます。それゆえ、キャリアが長い分さま
ざまな批評がなされてきました。とはいえ、大きく分けるとすれば、三通りの評価があったと思います。ひとつは、形式主義的に構成を見て評価
する方向、もうひとつは、時代的なコンテクスト、例えば「もの派」からの偏差として、情念性だったり歴史の意味を枕木に指摘する方向。さらに、
前者と後者が相互反転しあう、その両義性に意義を見出す方向。ただ、個人的な印象では、その三通りの視点を読んでも、あまり腑に落ちなかった。
学ぶところは多いんですが、それぞれに何か掴み損ねている気がします。では、それが何なのかというと、正直、自分でも分かりません。そこで、
今日は、その手掛かりを伺えたらという思いで参りました。
 さて、活動歴を拝見しますと、思いのほか、発表の場としてニュートラルな場所が選ばれています。画廊や美術館が圧倒的に多く、ときに戸塚
スペースや点展など身近にある日常的な空間が採用されています。「思いのほか」というのは、かねてからの高山さんのご発言からすると、歴史的に
意味のある場所で発表なさっていてもおかしくないからです。むしろ、枕木とも縁の深い炭坑などでやってないのは訝しいくらいです。なぜ、
歴史的に負荷のある場所ではなさっていないのでしょうか?たまたま、声がかからなかったから結果的にそうなったのか、それとも意識的に回避
なさってきたのでしょうか?
高山 それは面白い問題だけど…そうだな、以前、高嶺格が、朝鮮人労働者が従事してた炭坑で、インスタレーションやったでしょ。場所がもつ
歴史を意識して、その中で問いかける。問題を引っ張りだすために、そういう場所を選ぶという。いっぽう僕の場合には、避けてるわけではない
けど、そういうことを語りたいためではないんです。
 ジャスパー・ジョーンズっているでしょ。彼は、仙台にも滞在してたことがあって、ちょうど朝鮮戦争のときに来て沖縄に行ったりしてたらしい
けど…まぁいいや、彼の、アンコスティックを使った世界地図の絵がありますよね。アンコスティックというのは、戦争で顔が壊れたり、腕がもげた
死体を、修復して整形するときに使う技術なんです。朝鮮やベトナムで戦死した兵士は、そうやって修復されて本国へ帰された。ジョーンズは、
わざわざその技術を使ってアメリカの地図を修復するわけ。地図の下には、当時の新聞記事、アメリカが何をやっているかという記事が貼りこんで
あって、その上を三原色で、アンコスティックを使いながら修復してゆくんですね。
 20代そこそこの僕にはショックでしたよ。そのころの日本の美術雑誌では、記号論からジョーンズを解釈したりしてたけど、そういう面よりか、
僕には、作品の構造として歴史の問題が透けて見えるというところが興味深かった。歴史そのものを指示したり、説明するんじゃなくてね。
 だから、歴史を問題にするにしても、特別な場所そのものをそのまま俎上に上げるようなことはあまりしたくない。むしろ、日常性のなかで、
日本の普段の状況でこそ、問題を想起させないと、本当に表したいことが出てこない気がするんです。ニュートラルな状態の中で、縦横の軸がどう
絡んでいるか、それを可視化したいんです。
 とはいえ、歴史を直接テーマにした作品に、全く親しみがないわけではないですよ。なにしろ、原爆図の丸木位里が、小さいころ身近にいました
からね。それから、大きなテーマといえば、ゴーギャンの『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』、それに
自由美術の一部とかよく見てたし。
―― 仮にですが、もし歴史的な負荷がかかっている場所、例えば、炭坑や刑務所で誘いがかかったら、してました?
高山 そういうところでもやってみようかなと思ったことはあります。北海道や九州の炭坑まで出向いたりしましたし。
 昔の軍需工場とか戦時中の建物は、今でもけっこう日本中に残ってるんですよ。関東近辺にも、防空壕や軍需工場みたいのがたくさんあります。
ほとんど我々の目に触れる機会はないですが。
 ただ、ここ最近は、廃墟として記録されたり、観光地として再生されたり、歴史的遺産として見直されたりしてますよね。まぁ、そこにうまく
嵌めるように、作品をあつらえるというのも、あっていいとは思います。だけど、それでは、時代の装置にあまりに乗っかりすぎではないかと思う。
それは如何なものか…
                     
―― ところで、制作に関して、レクイエムの意味合いが強いんだというご発言をよくなさってきましたよね?
高山 心情的にですよ。作るときに、僕の中で、死者に対するレクイエムが生じるんです。ただし、作品そのものでレクイエムを表現してるわけでは
ないですよ。
―― なるほど、それは、場所の問題とも関係がありそうです。実際に犠牲者がでた場所でインスタレーションを組んだとしたら、そこで亡くなった
特定の方々への露骨なレクイエムにしかならない。いっぽう日常性のなかであれば、鎮魂の念は一般化し、潜在的なものにすることができる。
高山 そうね、日本では、僕の作品を見て、ホロコーストと感じる人はほとんど皆無だしね。
 だけど、ヨーロッパなんかでやると、それはすぐ伝わる。何も言わなくたって、ホロコーストって伝わっちゃう。木をコールタールに浸けてある
から、臭いで分かるわけでしょ。彼らの歴史では、エジプトのピラミッド、いわゆるミイラから分かってるわけ。ミイラって、天然タールで腐らない
ように処理してあるからね。生木をタールで塗ってあるというのは、ミイラと同じだと思うんでしょう。
 それから、映画とか、美術館や博物館でも、ホロコーストを表象する場合、アウシュヴィッツに伸びる鉄道がよく使われるでしょ。枕木の歴史って、
ヨーロッパの人たちはみんな分かっているから、作品がアジアにおけるそういう問題だってすぐ察しがつくんですね。普通のおばさんたちでも、
これは日本のホロコーストを作ってますね、って何も言わなくても分かります。
―― とはいえ、作品の印象からすると、やっぱりニュートラルな場所が多いので、ホロコーストなり特定のユダヤ人への追悼とは違う気がするんです。
死者一般というか、過去一般へのレクイエムという方が強いんじゃないかと…
高山 死についてどう考えるかというのは、答えがあるわけじゃないからね。想像でしかないわけで、その想像の仕方がいろんな文化になるわけだし、
色々あっていいと思います。
 ただ、僕が死に対して思うのは、「遊殺」という言葉です。もともと遊殺というのは、陶芸で土殺しと言われていることなんだけど、土を一回殺して
から手のなかで遊ぶことを言うんです。一回絞めてから自分の手のなかで自由にする。そこで、人間と自然の関係があるとすると、人間は自然を殺すから
生きていられる。ところがまた、自然から殺されているかもしれない。だから遊殺というのは、殺して遊ぶのか、遊んで殺すのか、受け身であったり
能動であったりその両方をイメージしなければいけない。
 それともうひとつ、自然の恵みについても考えます。つまり、与えられるだけでなく、どういうふうに返しているか。何かを食べて自然に感謝するとか、
そういう時代とは変わっちゃたわけでしょ。まぁ、みんなそれぞれ有難いとは思ってるかもしれないけど、そんなこと言ったって、地球そのものを、
我々はどんどん壊しちゃってる。今は、その罰が当たってるわけでしょ。じつは、そういう意味も込めて、定禅寺通りにある作品に「神々のゲンコツ」って
タイトルをつけてあるんだけど…
 そういえば、中学校のころ、死について作文を書いたら、先生に怒られたことがありました。何でそんなこと考えるんだ?って。中学生が死を考える
なんて、きっと家庭が不幸なんだろうとか詰まんない推測したんだね(笑)。
―― ところで、ニュートラルな場所といっても、意味の上では中性ですが、いうまでもなくギャラリーごと各所に応じて物理的な制限はそれぞれ異なり
ます。枕木の組み方や配置の仕方も、それに従って変化し、年を追うごとにボキャブラリーが増えているように見受けられます。
 ボキャブラリーといったのは、比喩ではなく、高山さんの枕木の作品って言葉と同じ構造をしているように思うんです。
 例えば、詩人が言葉を紡ぎ出すときというのは、日常的な用法をやめて、言葉を即物的に扱います。普段の言葉って、生活に役立つよう意味が区分されて
ますが、区分を解除し、相互浸透させるわけです。詩が生まれるのは、この物質的な水準に沈潜した挙げ句、そこから再浮上して言葉に新たな区分を設け
られたときに限られます。
 あまりいい例ではありませんが、「こんばんは」という言葉があります。日常生活のレベルでは、宵の挨拶でしかないですが、一旦その有用性を外すと、
名詞と助詞に「こんばん」と「は」が砕け、やがて「こん」「ばん」「は」と即物的な音声にまで至ります。ここから新たに意味を生みだすのが詩人な
わけです。
 ひるがえって、高山さんの枕木も、じつは一本二本と数えられる区分はなくて、それこそ「のっぺらぼう」ではありませんが、枕木の存在じたいが
潜在的に広大な海を形成していて、展示空間の物理的な特性に応じて、枕木に分節作用が生じ、一本で単位になる場合もあれば、複数本が組み合って
ひとつの単位になることもある。そして、その単位どうしが繋がって、あるシンタグムが生まれるんじゃないかなと。
高山 それは、マケットで、単位ごとに作っていくからですね。一本だったり、二本組み合わせるとか、L字に組み合わせるとか、隙間をこれだけ空ける
とか。構造の基礎単位を作るわけです。まぁ、言ってみれば、枕木文字みたいなものです。それが何を意味するかは措いておくとしても、単位を組み
合わせて、そこに何か別のコンテキストがを生みだすというのは、現実の目で見てやることです。
 あと、まぁ、初期の枕木に関しては、どんなもののイメージが、例えば時間だとかレールだとかが、枕木に潜んでいるかって、フロッタージュで透かし
見ようとしてたことがあります。それを、一本一本並べてたんです。つまり、先に絵があるわけです。ただ、そこからだんだん変化してゆくんですけども。
だから、多分あなたが類推しているようなものと近いんじゃないかとも思いますけどね。
―― それから、枕木には防腐処理が施されていますよね。生の木材とは違って、素材として中性度が増しています。これも言葉から類推すると、
「あーー」という単なる呻きが、ある一定の声高に絞られて、その瞬間に単位としての「あ」が生まれるのと似ているように思われます。つまり、質料的な
ものから非質料的な水準へジャンプがなされているわけです。
 とはいえ、タールが滲み出すなど、新たな質料性が発生していますね。これは、こう理解できると思うんです。言葉が単位として成立しながら、
そのうえで、呻きとは異なる声の質や個性が生まれるのと同様、非質料的なものに一旦媒介された質料性だということです。
高山 変化してるからね。常に一定状態ではなく、まわりの環境、温度や湿度に敏感でね。臭ったりもするし。だから、我々が認識してる木というもの
から、もはや外れちゃって、木なのかなんなのか。視覚的にも、重さも変っちゃう。
 そういうものとして、新しい意味、ニュートラルな状態になっていると自分では意識しています。
―― 枕木が組まれるのは、非質料的な水準においてです。その一方で同時に、質料的な傾向もまた枕木には含まれています。例えば、洩れでるタールが
そうです。
 この質料的なものこそ、先にでた「歴史」や「過去一般」、あるいは「記憶」に関わっているのではないでしょうか。
 再び言葉との類推を許して頂ければ、言葉を、極端に質料的な傾向へ深め、呻きと聞き分けがたくなるまで酷使するとします。それを耳にした者は、
何かしら情動が揺さぶられるはずです。
 なぜか。おそらく、ある絶対的な過去に触れているからです。それは、呻きと言葉が分割する瞬間のことです。言葉を話せるものであればみな、もの心が
つく遙か前に、必ずこの瞬間を潜り抜けてきたはずです。というか、今こうして発声しているそばから、実は潜り抜けつつあるのですが。ただ、この瞬間は、
絶対に認識することができません。というのも、認識するには、言葉が必要ですが、そもそもこの言葉が生まれる直前の出来事のことだからです。絶対的な
過去とはそういう意味です。
 それ故また、この過去を潜りぬける主体は、言葉が生まれたあとの「私」とは違うわけです。むしろ、人称性が定まらず、ほとんど質料の流れと一体化
した動物のような存在です。
 だからこそ、音にまで砕け散った言葉の破片が、比喩ではなしに、突き刺さり、まとわりつく呻きとなって、身体の奥深くに貫入してくるわけです。
 これと同様、タールの臭いもまた、質料の連続する流れとなって、観者の鼻孔からやがて身体全体を満たし、食い込んできます。たぶん、感覚が、
こうして、ある種暴力的に身体を貫通する経験は、誰しも潜り抜けたことがあるのではないでしょうか。例えば、紅茶に浸したマドレーヌが、コンブレー
という町全体の記憶を呼び覚ますようにです。
高山 それは場所との問題?
―― ええと、若干その話とはずれてますね。
高山 話を戻せば、画廊とか色んな場所でインスタレーションをやっても、囲まれた中という意識はないですよね。壁はあるんだけれども、我々がその
場所をどういう意味で使っているかというのは、周りから決まってくるというか。ま、どこでやるにしても、その場所がどういう意味で、我々の日常の
中でどう意識されているかってことを凄く敏感に感じる。
 パリ・ビエンナーレでやったときは、いわゆる市立美術館と国立美術館がありましたが、僕らの見る限りでは、ヨーロッパの全体主義がそのまま建物に
なっているわけですよ。それに歯向かうようにやろう。それとどう拮抗できるか。場所とどう闘えるか、なんてことが自分の中にありましたね。
 ただ、今やってる登米の展覧会は、ちょっと色んな問題があってこじんまりになっちゃったけど。主催者から、もう少し大人しくやってくれって。
だから、大人しくしました(笑)。沼地や古い家、それに城跡があって、そうした色々なものともっと拮抗しようと思ってたんだけど、なかなか難しい。
拮抗しようとすると、その場所を自分たちのものだと思ってる人たちは、やっぱり怖がるんですよ。僕は、そういうものを避けないことこそエネルギーだと
思ってるんだけどね。
 あと、何かにも書いたけど、戸塚スペース時代(1969前後)に、庭に塀があって、それが果たして内か外かって考えたことがあるんです。刑務所にも
調べに行きましたよ。塀が、どんな意味を持っているのか、社会とどういう関係を持っているかってね。中の人が外に行かれない塀、遮断する塀。平常、
塀というのは、外からの侵入者を防ぐものですよね。ところが、場合によっては機能が逆転することもある。我々は内側にいるのか外側にるのか。
そうすると、塀をどう作ってゆくかが問題になってくるわけ。
 それから、アラブ人は、わざわざ前の家の人から、風景を遮断してしまうんですよ。意識的に何メートルも高い塀を作って、外の風景を見えなくして
しまう。
 我々が空間に対してどんな発想をしているのか。ヨーロッパだと、天と地を結ぶというか、神と結ぶような、垂直の構造が多い。いっぽう日本は少ない
よね。建物に限らず、我々の動き方や自然の感じ方、つまり環境にどんな意味を想像しながら生きているかというのは、面白い問題です。たぶん、それは
形として見える文化ではなく、有形無形の蓄積が無意識の構造を生み出すんだと思います。
 そういう意味で、建物であれ、絵画であれ、生け花にも、我々がどう空間を読んでいるかが露呈しています。そこに、もう一つのファクターとして、
例えば、死という概念をどうやって入れ込むか考えてみます。地下を意味するものとしてか、天上人として死を見るか、これだけでも発想が全然違って
きます。ファクターは色々あって、広さや意図、それから、建物であれば、どう歩き回れて、中へどう入ってゆけるかによって、独特の空間把握が看て
取れるわけです。その最もコンパクトな実例がピラミッドだと思うんです。
僕は、芸術って、こうしたピラミッドを作るものだと意識してるんだけどね。
                    
―― 壁の構造って、ローカルな地域に縛られるものではありませんよね。むしろ、その構造をどう捉え、修正、偏差を加えるかによって文化というものが
分岐してゆく…
高山 だけど、壁って意図的に、政治的につくるものですよね。あるいは、日常的な生活の中で、壁をどう作ってゆくか、その中で自分がどう位置する
かって割と使い分けて生きてるわけでしょ。
―― そう使い分けていながら、でも、作品というのは、どっちにつくわけでもなくて…
高山 例えば、ピッチャーがボールを投げるでしょ。そうすると、普通のボールが手許で変化したり、魔球になるわけじゃないけど、意味が変わる瞬間が
ある。さっきジャンプって言葉を使ってたけど、意味が変わる瞬間。
 われわれ人間の場所が、どの辺にあるかというと、日常からもう一つ違うところにあったりする。地上から浮いてたり、上まで行ってはいないんだけど、
ちょっと離れてるというか、そういう感覚はどこかにあると思う。それは、あなたのいう詩の世界でも、当然あることかもしれないけども。
―― 詩は言葉を使うわけですが、それは、壁だとか、枕木から滲み出すタールとは違いますね。言葉は、物質に頼らず自律しています、物質に頼るものと
なると、むしろ…
高山 どうかな。言葉だけが宙ぶらりんにあるということは、基本的にないと思いますよ。それに、目で見て言葉として感じる場合もあるし、耳で聞いて
音で感じてることを視覚化することもあるわけで、感覚どうしが凄いスピードで変換し合ってるんだから。
―― それは、傾向性の問題で、枕木にも質料的な傾向と非質料的な傾向が同時にあるということだと思うんです。例えば、非質料的な傾向へ加速すれば、
ボキャブラリーが増し、多彩な組み方が出来てくるわけです。そして、その組み方は、その重心や支点、あるいはそこからの距離によって、枕木に多様な
ニュアンスをもたらします。つまり、のっぺりした枕木に分節作用が穿たれるわけです。これは、言葉が呻きを分節するのと同じです。
 だから、言葉なり枕木の組み方というのは、第一に分節作用として理解できます。反対に、物質には区切りがなく、ひたすら生々流転するしかない。
高山 いやいや、そんなことないよ。我々の時間の読み方だから。
―― そう。こっち、主観の問題なんですよ。
高山 植物を見てて、それが伸びるとするでしょ。木を見ても、明日になるとそれが違うことに気づかないんだけれども、じつは伸びてる。花が開いてる
とか、萎れているとか。それは、全体の中のどの辺りで、分節しているのか。だから、部分と全体。歴史でいえば、諦観かな。全体と本質的なものとの
関係という…
 そう、俯瞰できる場所というのが重要なんですよ。我々は平面を見て歩いてるんだけど、じつは頭の中では俯瞰してるわけですよ。

 (つづく)