早太郎が東海一の弓とりと云われたのは、通し矢という
競技で勝ったからです。
もっともこの競技がどこであったかは分らない。東大寺とも云われて
ますが、よく分からない。多分、嘉永の頃のことで、東大寺の奉納行事として
そんなことをしたかも知れない。
ともかく、それ以後、彼は弓の名人といわれ続けます。
彼は剣の腕前も相当のようだったらしく、早太郎の剛刀と云えば有名でした。
ところで、彼が新撰組に入隊したのがいつかは分らない。そんな記録は
どこにもありませんから。新撰組の結成時にいなかったのは事実で、また
文久3年8月の政変(この時新撰組は出動します。)の頃にはいたのも事実で、
だから、案外、新撰組の結成直後ではないかと、まあ、考えられます。
彼は近藤一派にも芹沢一派にも属さないで、いわば、無派閥でぼんやりと
過ごしていたような気もします。
実は、彼は新撰組に入隊する前は虚無僧をしてました。
虚無僧とは顔を隠した武士が物乞いで街もねり歩くという、いわば
罪人でした。彼がどんな罪を犯したかは全くの謎で、当時の新撰組の
隊士も知らないことだったんではないかと思います。
虚無僧といえども僧には違いがなく、某寺脱走と当時の記録には
あります。
まとまらないまま書いてますが、彼の履歴はまとまらないのです。
虚無僧は僧ですから、身分はお寺に管理されます。
西日本の虚無僧は京都の某寺、東日本の虚無僧は江戸の某寺という具合に
です。で、ある本には彼は江戸の某寺の脱走と書かれてます。
何の事もなく、彼は江戸で虚無僧をしてたことになります。
これは、本当に変ですよ。
江戸で虚無僧をしてた人が、京都の新撰組にどうやって入るかといえば、
それは、新撰組の結成時にいるしかないことです。
(理由を書くと本当に長くなるので割愛します。)
京都で虚無僧をしてたとしたら、話は自然です。
話は自然ですが、そんな記録はありません。
ないのですよ。本当に。彼の記録なんて。
彼の生きた証は、墓にしかありません。
墓は壬生寺にあります。
彼のことを想像してばかりいた頃があります。
三河の小藩に生まれ、武勇の誉れ高く、突然に消息を絶ち、
虚無僧をしてみたり、新撰組に入隊してみたり、餅をつきながら
愚痴ってみたり、切り合いに参加して切られてみたりと、まあ、
忙しく生きた青年にとても興味を抱いた頃があります。
でも、まとまりませんね。
[2000年2月18日 1時58分24秒]