11月11日 生きる
「アラファト氏「まだ生存」 駐仏代表語る」(朝日)
http://www.asahi.com/international/update/1110/013.html
まだ生存しているといっても、「生きている」というより「生かされている」状態なのでしょう。フランスの病院という箱の中にいる議長は、生きているとも死んでいるとも言える状態ですが、箱が開けられた時が政治的な死の訪れとなるのでしょう。死を残された者たちが受け入れるには時間がかかるもので、そのために段階を踏んで様々な死を様々な人々に受容させる儀式が葬儀です。生前に影響力が大きかった人ほど、そうした行為は長く複雑になります。そのために権力者の死が操作されるのはいつの時代にもあることですが、生物学上の死までそれに同期できるようになったのはつい最近になってからです。病気や健康といった身体の状態をある程度制御できるようになったことは近代の成果ですが、それゆえに「近代人」は自らの身体を制御することを個人の能力と考えられるようになりました。風邪で仕事を休むのは自分の体調管理が至らなかったからであり、維持管理能力の限界を越えるガンのような大病については保険などでリスクマネジメントしなければなりません。そうした意味では後継者を育てなかったと言われるアラファト議長は「近代人」としての能力が不足していたのかもしれません。しかし、その「近代人」の基礎となる思想はヨーロッパの宗教や民族によってつくり上げられたものですから、アラファト議長にそれを言うのは筋違いなのかもしれませんが。
死を強制的に受容させ、その衝撃によって世の中を動かそうとするテロリズムが世界でもっとも集中する地で、その一方の勢力の指導者であった人物がどのように死を迎えるのかを世界中が注視しています。アラファト後の政治状況がどうなるかが関心の中心になっていますが、死が当事者の手を離れて生きているものたちが制御し、演出し、決定するものであることをあらためて印象付ける出来事でもあります。
記事に付いているAP通信配信の「悲嘆に暮れるパレスチナ人たち」の写真はこれ以上ないくらいの悲嘆に暮れっぷりです。今年僕がみた報道写真のなかではもっとも印象に残りました。僕が選ぶならピュリツァー賞はこの写真です。
追記:
ところで、地震の土砂崩れで奇跡的に生き残った男の子にはまだ姉と母親の死は知らされていないそうですが、日本中が知っている事実をその当事者である彼だけが知らない状態にあるというのはとても奇妙な感じがします。生死の境からようやく脱出した彼に姉と母親の死をいつ、どのように告げるかはとても難しいことだと思いますし、今はまだ語るべきときではないのでしょう。「彼が知らない」ことは事の成り行き上いたしかたないわけですが、もうひとつの「日本中が知っている」ことのほうが彼には将来的に大きな影響を与えかねません。彼の将来を心配する善意の人たちは、直接に接する機会がある人なら普通の男の子として他の子どもと変わりなく、接する機会のない人ならあえて無関心でいることが適当な判断だと思います。家族が諒解の上とはいえ彼の病室での映像をビデオで記録した担当医やそれをノーカットで「ニュース映像」として流したテレビ局や、それを見てプレゼントを贈りつける人々は、そうした行為がこのあとの彼の成長にどのような影響を与えるのか考えたのでしょうか? 彼を一生「奇跡のスーパーボーイ」として祭り上げるつもりなのでしょうか? はたしてそれが彼にとって最良の生き方なのでしょうか?
さらに追記:
日本時間11月11日午前11時半ごろ、アラファト議長の死去が発表されました。
ご冥福をお祈りします。
きょうの一冊:『パレスチナ新版』 著/広河隆一
きょうの一枚:『生きる』 監督/黒澤明