Thema 20. 岩井克人氏の「天皇制論」





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いるのもよし、自分の思いや考えをホストに話しても良いというコーナーです。




テーマ:岩井克人氏の「天皇制論」

東大教授・岩井克人氏は、朝日新聞で憲法9条に関して、次のような内容の論文を 寄稿している。ボノボとは専門が違うから100%とはいかないが、若いからこん なことが書けたんだな、まぁ、合格点はやろう。論理的にある無理は、情緒の現れ と解釈する。参考にして欲しい。


〜岩井克人氏の「天皇制論」〜


私は、日本の憲法9条と皇室典範は次のように改正すべきだと考えています。
憲法9条については、日本国民は、自らの防衛、国連指揮下の平和維持活動、内外 の災害救助に活動を限定した軍隊を保持するよう改正します。
皇室典範については、皇族は男女ともに皇位継承資格をもち、皇位継承者はその 資格を放棄する権利をもち、天皇自身も皇位を放棄する権利をもつように改正し ます。
憲法9条の改正も皇室典範の改正も私が云い出したことではありません。ただ私は、 この二つの改正案をどちらも欠かせない一対のものとして提示したいのです。
『私は知ってしまった。だから私には責任がある』。これはルワンダでの大量殺戮 の目撃者の発言です。ニュースで耳にして以来、私の頭から離れません。
これが冷戦時代であったなら、遠くの紛争について私たちが「責任」を感じる必要 などなかったでしょう。冷戦とはすべての紛争を米ソの代理戦争に還元する装置で した。そこでは世界中すべての人間は、世界市民である以前に、親米か親ソかとい う役割を演じざるを得なかったのです。
冷戦は終わりました。それは「知る」ことがそのまま世界市民としての「責任」を 負う時代になったことを意味するのです。
ここに憲法9条の問題が浮上してきます。私は1947年に生まれました。同じ年 に施行された日本国憲法。とりわけその9条を、世界に誇るべき日本の財産だと思 ってきた人間です。
9条が空洞化していることは周知の通りです。9条の条文を素直に読めば、それが 一切の戦力を禁じていることは明らかです。それなのに日本には自衛隊が現実に存 在している。9条の禁じる戦力に自衛隊は含まれないという政府見解は、詭弁でし かありません。どのような法律もそれに違反する事実を長く放置すると、法的な効 力を失います。その意味で9条は法として機能していない。立憲国家の憲法が最高 法規としての規範性を失っているのです。
憲法とは国民の意思の表明です。それは神が与えたものではなく、人間が作るもの です。日本が国連の平和維持軍に参加するか否かの決断を迫られた時、9条がある から参加が禁じられていると世界に表明することは本末転倒しています。もし日本 国民が世界市民として平和維持軍に参加したいという意思があれば、憲法を改正す ればよい。いや、改正することこそ国民主権を標榜する立憲国家の義務なのです。
それにもかかわらず、私は長い間9条を神聖不可侵なままにしようと思ってきまし た。多くの日本国民も同じ思いだったはずです。たとえ空洞化したとはいえ、9条 の存在そのものが、軍国日本の復活の歯止めとして働いてきた事実を高く評価して きたからです。
いくら目的を限定しても、憲法で戦力の保持が認められれば、軍部は暴走を始める のではないか。軍国主義に後戻りするのではないか。それはこの日本の現実におい て、ほとんど根拠のない恐れでしょう。だがそれは現実以上に現実的な力をもって、 私たち日本の国民、そしてそれ以上に世界の人々をとらえてしまっている根源的な 恐れなのです。
一体この恐れはどこから来るのでしょうか。ここに現行の象徴天皇制の問題が浮上 してきます。
憲法を開くと、3条にこう書いてあります。天皇の国事に関するすべての行為は内 閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う、と。すなわち、日本の天皇の 行うことは、すべて日本政府の意思によるものであり、それは国民主権の下では、 私たち国民自身の意思によるものなのです。
問題はこの憲法上の規定と現実の国民意識との乖離です。ここに乖離を見ないこと は歴史の重みを無視することです。天皇制は日本の歴史の中に連綿と続いてきまし た。私たちの意思を超え、ここまで大きく長く存続してきたもの・・・・・それに 対して自粛せずに、私たちが自らの運命を選べる本来の主権者としての意識を保つ ことは困難なのです。
実はこのことは、天皇自身が天皇であるのを選べないことと表裏一体をなしていま す。天皇には信教の自由も職業の自由もなく、参政権もない。そもそも即位を辞退 する自由も退位する自由もないのです。国民が自らの運命を選べないことと天皇が 天皇であるのを選べないこととは、合わせ鏡のように互いの主体性の不可能を映し 合っているのです。ここに真の意味での無責任体系が成立します。
その良い例が「お言葉」の問題です。象徴天皇制の下では天皇の言葉は私たち国民 の言葉であるはずです。だが多くの国民にとって天皇の言葉は「お言葉」であり、 自分たちが責任をもっているとはとても思えない。それでいて天皇自身も「お言葉」 に責任をとることができないのです。
日本の中心には主権の空洞があるのです。そしてこの空洞がある限り、日本国民は 自らの運命に責任をとることができず、世界の人々に根源的な恐れを与え続けるこ とになるのです。
現在の皇室は国民の支持を得ています。この現実の中で天皇制を見直す第一歩とし て、冒頭の皇室典範改正案があります。そこでは、天皇とは国民の意思の象徴とい う憲法上の役割を自ら選びとった人間となるのです。それによってはじめて国民は、 天皇に対して本来的な主権者としての意識をもつことが可能になるのです。
憲法9条を改正するとしたら、皇室典範の改正と一対のものにする。そうすること によって初めて日本の国民は、現実を見つめつつ平和に貢献していく、主体性をも った世界市民としての資格を得ることになるのです。
彼は、東大、マサチューセッツ工科大で学び理論経済学を専攻。エール大経済学部 助教授、東大助教授などを経て89年から現職。朝日新聞フォーラム21委員。 主な著書に「ヴェニスの商人の資本論」「貨幣論」など。




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