「東郷菊」の由来

百花園を和名発祥の地とする「東郷菊」についてご紹介いたします。

萩のトンネルと東郷菊

東郷菊


”復権”に何を思うか「東郷菊」

 四季百花が乱れ咲いた墨田区の向島百花園。萩(はぎ)のトンネルも褐色の葉だけを残し、深まる秋は冬枯れの季節へと装いを早めているが、小菊が最後を締めくくるように今が盛りである。そんな中で、直径三aほどの黄色の小ぶりな花をつけた菊が、十数株、、シーズンを終えようとしている。夏の盛りに花を開き、三か月半以上の長い花期を過ごしたこの菊は、特徴である真っ黒な花芯(しん)をそのまま種として残し、一足早く冬枯れの光景の中に融け込み始めた。

 英が東郷元帥に贈る

 園内の他の草花と同じように、この菊に「とうごうぎく」と、木の名札が立てられたのは五十五年の秋。それまでは毎年花を開きながら、顧みられることなく埋もれていた。

 ヨーロッパの北部が故郷のヒナギクであるこの花が、日本にやって来たのは明治四十四年二月。「英国のエドワド七世の戴(たい)冠式に出席された小松宮彰仁親王に同行した東郷平八郎元帥が、ロンドンのキュー植物園から種をプレゼントされ、日本に持ち帰った。付き合いのあった当時の向島百花園主、五代目佐原鞠塢(きくう)さんに寄贈、わが国に根をおろした。

 敗戦で一転不遇に

 ルドゥベキア・フルギダを学名とするこの花に、鞠塢さんは「東郷菊」と命名、由来を書いた立て札とともに、遠来の客として大事にもてなしていた。昭和十四年、東京市の公園となっても萩のトンネル近くで毎年花を咲かせ、かれんな姿が秋を彩っていた。

 それが、戦後は運命が一変する。たくましい草花たちは、廃虚となった焼け跡からも新しい芽を吹き出し、人々を感動させた。地元の入たちの熱意が実り、二十四年には同園は都の公園復活第一号として復興、草花にも木礼が立てられた。しかし、東郷菊に復権の日はやって来なかった。もらった名前が災いした。

 しばらくの間、自らの身の不運を嘆くように、雑草にかくれ、目立つことがなかった。

 四年前に名札復活

 四年前、高さ六十aほどの茎をまとめて十本伸ばした所を見つけ出された。三十五年ぶりに名札も復活、「来歴のある花だけに、大事に育てたい」という園の職員らの手で、丹精を受けた。

 昨年は、区役所の手で、四百株が区民にも配られ、家庭の庭でも今年の秋を告げたはずだ。今一番ホッとしているのは、鞠塢さんの孫に当たる佐原洋子さんのようだ。この異国のヒナギクにまつわる話は小さい時から何度も聞かされて育った。戦後ずっと、園内の茶店を経営しながら、毎年、その行き先を捜し出してはひそかに励ましていた。同時に、「花に罪はないのに」と、胸を痛め続けてきた。

 異国の土に根をおろし、数奇な運命をたどったこの菊から、七十数年の風雪をうかがい知ることはできない。やっと最初に植えられた萩のトンネルの近くに安住の地を与えられ、何事も無かったように、この秋もそっと種を落とすだけだ。

<昭和59年(1984)11月7日読売新聞「ショット 四季」より>