それが、戦後は運命が一変する。たくましい草花たちは、廃虚となった焼け跡からも新しい芽を吹き出し、人々を感動させた。地元の入たちの熱意が実り、二十四年には同園は都の公園復活第一号として復興、草花にも木礼が立てられた。しかし、東郷菊に復権の日はやって来なかった。もらった名前が災いした。
しばらくの間、自らの身の不運を嘆くように、雑草にかくれ、目立つことがなかった。
四年前に名札復活
四年前、高さ六十aほどの茎をまとめて十本伸ばした所を見つけ出された。三十五年ぶりに名札も復活、「来歴のある花だけに、大事に育てたい」という園の職員らの手で、丹精を受けた。
昨年は、区役所の手で、四百株が区民にも配られ、家庭の庭でも今年の秋を告げたはずだ。今一番ホッとしているのは、鞠塢さんの孫に当たる佐原洋子さんのようだ。この異国のヒナギクにまつわる話は小さい時から何度も聞かされて育った。戦後ずっと、園内の茶店を経営しながら、毎年、その行き先を捜し出してはひそかに励ましていた。同時に、「花に罪はないのに」と、胸を痛め続けてきた。
異国の土に根をおろし、数奇な運命をたどったこの菊から、七十数年の風雪をうかがい知ることはできない。やっと最初に植えられた萩のトンネルの近くに安住の地を与えられ、何事も無かったように、この秋もそっと種を落とすだけだ。
<昭和59年(1984)11月7日読売新聞「ショット 四季」より>