徳川慶喜公日本橋石柱」

 

 木造・石造・鉄製と作り替えられた日本橋の石造時代(明治6年開橋?)の石柱の模造品と思われ、日本橋の文字は徳川慶喜公の書と伝えられていますが、欄干通しの穴を灯籠に見立てたものと考えられています。

"日本橋の親柱"で論争

  向島百花園

架け替えた時の本物 安藤さん
商店が作ったニセ物 鷹見さん

(昭和48年7月13日付け 読売新聞)

 燃えるような緑の中に鮮やかなアジサイの色−墨田区の向島百花園はさまざまの草木が生き生きと茂る季節。その庭園の一角に、かって日本橋の親柱として使われたと思われる石柱がある。本物かどうかについても両説あるばかりか、いつ、どんな経路で日本橋から百花園まできたかもよくわからない。同園管理人も「さあてねえ」。
 この石柱があるのは、同園奥、御成座敷の前を通り、池の橋を渡ったつきあたり。きれいに刈り込まれた低木の中に立っている。高さ約一・五b、直径約三十a。てっペんに擬宝珠が乗っており、柱の中ほどには、らんかん通しの穴があいている。さらに正面に「日本橋」の文字。徳川慶喜の筆ともいわれている。
 日本橋のある中央区の京橋図書館職員、安藤菊二さんの調査によると、これは親柱(橋のたもとに据えられる基柱)で、明治七年に改造された木橋が、さらに同四十四年、現在の鉄筋の橋に生まれかわる際、とり除かれにものらしい。二本あったと思われるが、あと一本は行方不明だそうだ。









 一方、かって「日本橋」という本を書いた都公文書館の鷹見安二郎さんは「いま向島にあるものは、日本橋かいわいのどこかの商店が使ったイミテーションかもしれない」と慎重説だ。江戸時代、同園は佐原平兵衛氏が園主として梅園などを営んでおり、江戸商人のいわば庭園サロンだったところから、出入りの日本橋商人の一人が持ち込んだとも考えられるという。
 もちろん鷹見さんの推察だが、これだと経路はわりにはっきりしてくる。しかし、明治四十四年の改築にともなりて”廃棄処分”されたものとはまったく違ったものになってくる。百花園の管理人は「まったくなにもわかりませんな」。
 同園は五代目平兵衛氏から大正四年小倉石油社長の小倉常吉氏の手に渡り、さらに昭和十三年、東京市に寄付された。この時の目録にも日本橋石柱のことは何もふれられていない。
 本物なのか、ニセ物なのか。どんないきさつで向島の地に立っているのか。この石柱、一体今までどんな歴史を見てきたのやら・・・。