七草がゆの話

金井 利彦

 「おかゆの話」を、ということですが、私は別に、料理はあまりやりませんし、料理研究家でもありませんのでおかゆの味がどうのこうの、という話は出来ないわけです。

 かゆは鎌倉時代以降

 お正月と申しますと、「七草がゆ」「あづきがゆ」というのは昔からのきまりになっているようです。正月のおかゆの話で、いつでもまず引き合いに出される書物に、『荊楚歳時記』というのがございます。これは六世紀の中ごろ、日本でいえば聖徳太子がお生まれになる二、三十年前に出来た本ですが、聖徳太子が隋に国書をお送りになった六〇〇年ごろに、この本に隋の学者が注釈を施しまして、その注釈を施した『荊楚歳時記』が日本にも伝わって、いろいろな歳時記その他に例が引かれているわけです。

 その中に、一月七日に七種の羹(あつもの)をつくる、とある。これは粥ではありませんで、「あつもの」とは「汁」ですが─お米の人らないものです。また同じ本に、一月十五日にはいろいろなことがあるのですが、豆がゆのようなものを神に供えた、ということがある。もっとも、この神に供える意味は、人間のためではなく、蚕を守る神様─当時、蚕の一番の外敵はネズミだったそうで、要するに蚕にネズミを寄せつけない、ネズミを退治するために神に捧げるものの一つが、正月十五日の豆がゆだったようなことが見えているわけです。

 それで、七草のかゆの方は日本に入りましても、平安朝時代の初めから、粥ではなく、羮ですか、これが大変もてはやされまして、『枕草子』にも出てくるんですが、ただ、七種の草が何と何であったかはわからない。『枕草子』を見ましても、耳菜草が出てきたり、菊のようなものが出てきたりして、何と何かは、食べる本人もわからなかったようです。それがだんだん定着しておかゆになりましたのは大体中世─鎌倉時代か南北朝時代、そのへんのことらしいのです。

 ところが、その前の平安朝もまだ前半のころ、ど承知の延書式の中には、正月の十五日には七種のかゆを供するとあり、それから正月の一番初めの子(ね)の日には十二種のかゆを作ったそうであります。この十二種は私は勉強不足でして、何であるかということは存じません。十五日に食べる七種のかゆと申しますのは、コメ、ムギ─大麦だろうと思います。それからヒエ、アワ、アヅキ、ゴマ。それにミノというのがある。ほかのものは今でもあるんですが、ミノというのは、私はよく知らないんですが、現在でも蓑米(ミノゴメ)とか、ムツオレグサとかいって野草ではあるそうです。ごく小さな実が成るもので、非常に原始的な東アジアの穀物だったようです。そういうものが平安朝の初期以前には正月十五日に正式にかゆとして作られた。その中に豆が、小豆がある、というわけであります。ところがいつの間にか、正月十五日にはそのうちの小豆だけが残ってあづきがゆになり、七草の方は七日に七草を入れたお粥になった─はじめは、七日はお粥ではなかったのが十五日、あるいほ子の日のお粥が七日に入ってきて七草と一緒になって「七草がゆ」に、十五日のお粥は小豆が残って「あづきがゆ」になった─若菜汁とお粥が一緒になってまた分れたということかと思います。

 

 子の日の遊び

 子の日のお粥は何を食べたかよくわからないのですが、その後、子の日には、平安朝時代はご承知の通り「子の日遊び」と申しまして、郊外に出て小松を引くという、いわゆる野遊びの日になったようです。それで正月七日の若菜も、これは野遊びで若菜を採ったというのが趣旨だろうと思います。さきほど申しました『荊楚歳時記』の中にも、正月七日には「高きに登って詩を賦す」とある。要するに丘などに上って景色を眺め、あるいは「今年の畑はどうじゃろう」というようなことを眺めて詩をつくった、ということが出ておりますし、また正月、高きに登って賦した、かなり有名な詩人の詩も相当残っているようであります。

 要するに、今の感覚で申しますと、正月はちょっと寒いんですが、『荊楚歳時記』が出来たころはもちろん、日本でも江戸時代までは、正月というのは大体立春前後のことですから、暖かい日には外に出て、生え出したばかりの草を摘むのが大変楽しかっただろうと思います。 さきほど申し落としましたが、『荊楚歳時記』というのは、揚子江中流の洞庭湖を百キロばかり離れたあたりを中心とした梁という国があり、そこの学者がはじめ作った本であります。近ごろの気象統計を理科年表でみると、一番近い漢口(ハンカオ)が載っていますが、一、二月の平均気温が東京や大阪にかなり近い。違うといっても一度は違っていない。京都や奈良は若干低いですが、そう大して低いとはいえない。ところが中国のその他の土地─南の方は別として、天津とか北京とか、黄河流域以北になると冬は大変寒いわけで、たとえ立春のころといえどむ、まだ草は生えているかどうかちょっとわからない、というようなことであります。そういうことで日本では七草がゆが定着すると同時に、十五日のお粥はあづきがゆ、ということにだんだん固まってきたわけであります。













 

 満月の夜の行事

 ところで、十五日といいますと、正月の中でも、いろいろな地方で有名な行事が一番多いんじゃないかと思います。それは元日もいろいろあるし、七日もいろいろある。しかし十五日というのほ非常に古くから伝わった行事というのが一番多い。ほかの日の、たとえば十一日は「鏡開き」「蔵開き」で、これは大体都会で発達したものが今も残っているのではないかという感じです。十五日というと、現在は「成人の日」ですが、前には小正月、あるいは女正月といったり、そのほか地方へ参りますと、かなり広い範囲で「左義長」というのがあった。これは正月の門松、その他を燃す、あるいは地方によっては、その燃したたき火でモチを焼いたり、いろいろしているようであります。また秋田あたりにある「かまくら」も十五日、それから男鹿半島の鬼みたいなやつがやって乗る「なまはげ」も十五日です。そのはか地方によって古くからの行事がまだもって残っていて、このごろは観光資源みたいになっているのも多いようです。

 お粥の関係からいいますと、青森県の三戸の近所には、十五日に食べる粥を七日から作り出す、ということがどこかに書いてあるんです。七日からお粥をグズグズ煮続けているのかどうかわかりませんが、七日から準備して十五日に食べるというようなことが非常に古い習慣として残っているところもあるわけです。
 それで、いろいろ聞いてみますと、昔、もっ上古くは、日本、あるいは中国、東南アジアもそうかもしれませんが、正月は現在の立春のころだったかもしれないし、あるいは冬至のころだったかもしれないし、あるいはもう少し前だったかもしれない、あるいはいろいろ変わったかもしれないが、正月元日─年の明ける日というのは恐らく十五日だったんしゃないか。要するに満月の日が正月のはじめじゃなかったか、と。そういわれてみるとそんな気もします。 と申しますのは、要するに、お月さんが円くなったり細くなったりするのは日を数えるのにも一番都合がいいわけで、一番円くなったのを見るのが一番はっきりわかるわけです。春先、あるいは冬のことですから、日が暮れてしばらくたってから満月が昇る。冬の月というのは、夜半には空の割合高いところにかかります。とにかく一番円くなったときにお祝いしたくなるというのは、人情としてと言うとおかしいが、その方がぴったりするんじゃないか。それがだんだんと天体の観測などが整ってきて、ついたち─つまり新月の日が元日になったんじゃないか。前の日は月のない日で、ツキがコモルからツゴモリで、一年の最後の月がこもる日だから大つごもり″─大晦日(おおみそか)なんでしょうが……。それで、月のない朔の日から日を数えることにいつごろからか決まったのだろうと─そう言う先生方がおられまして、私もその方が感じがわかるような気がします。
 そういうことで正月の元日が一日になって、したがって満月の日が十五日になったわけですが、といって、満月の日の行事は非常に深くその土地に滲み込んで現在も残っているものだ、と存じます。
 そういうわけで、十五日というと、そういう暦になってからも、立春の前後が一日とすると、二月の半ば前後になって、かなり暖かい日も多く、いろいろと楽しみ、遊ぶといったようなこともあるわけです。正月中は、特に近世の女性は忙しかったこととみえて、十五日ころになれば少しはゆっくりできるということで女正月と。一日の正月を大正月といい、十五日を小正月といった─歴史が始まってからというか、いろいろ書き残されるようになってからそういうような感じになってきたのだろうと思います。
 五節供のおこり

 

 それで十五日、あるいは二十日に「骨正月」というのがあり、十五日とか二十日ころまではかっては一日からもういろいろな行事があったわけで、たとえば宮中では、元日の元始祭、七日の七草がゆとか、初子の日とか…。七日にはお粥を食べるだけが宮中の行事ではなくて、「白馬節会」(あおうまのせちえ)と申しまして、白い馬を左右の主馬寮から引き出させて、陛下はじめ群臣がこの馬を見て、それから宴会を開いたということ。また十五日には「踏歌節会」(とうかのせちえ)という、これは足を踏みならす踊りという意味で、十五日に男踏歌、十六日は女踏歌の節会があって、行事があったわけであります。

 ところが、徳川時代になりますと、幕府は十五日までいろいろ行事が続いてあまり遊んだんじゃ行政が停滞する、というような意味があったのかどうか知りませんが、宮中の五節会に対して、別に五節供をつくりまして、その五節供では十五日を省いてしまい、三月三日の節供の前は一月七日の「人日」(じんじっ)にしちゃったわけであります。

 したがって、江戸時代には十五日というのは明らかに民間に根づいた行事が多かったのだろう。それでこそ非常に古代の面影を残したような「左義長」とか、「かまくら」とか、そういったような行事が残っているんじゃないか、というような感じがするわけであります。そして、満月でもあるからでしょうが、夜の行事が多いわけです。あちこちみますと、十四日の晩というのと、十五日の晩というのがある。それはどっちがどうかわからないのですが、まあ、昔は日が暮れて寝てしまえば、どれはもう「あした」なんで、夜で日が変わったんじゃないが。

 たとえば、私は青森にしばらくいたんですが、青森地方では、お正月のご馳走というのは、むしろ大晦日の晩のが正式なご馳走になっているようなところが家庭ではありました。もう大晦日の日が暮れてしまうと正月ではないか、というような感じもするので、あるいは十五日の夜に行ういろいろな行事も十四日の晩が、あるいは本当かもしれない、というように思っているわけであります。

(以下略)(昭和五十七年の「七草粥を祝う会」での講演をまとめたものです)